2.Nice to meet you
世界が欠損して現実感を失ったような状態なのに、その現象は自分だけで、世間は通常にまわっている。
つくづくと不思議な気分で、珠美は日々を過ごしていた。
朝起きて、身なりを整え、朝食を摂り、出勤する。仕事して、休憩時間があって、また仕事して、退勤、帰宅。
困るのは帰宅後だ。何をしていいのかわからない。
失恋すると暇になる。って、誰かが言ってたけど、確かに、時間の使い方がわからなくなる。
なにもやる気が起きない。
そんなふうに過ごしていたら、ある日、一通のメールが届いた。
通っている語学スクールからだ。しばらく休みが続いているけれどどうしたのか、的な様子窺いだった。
そういや、この数週間はテキストも開いてないな、と珠美は苦笑した。
珠美は趣味で翻訳を学んでいる。語学に限ったことではないけれど、脳は使わないでいるとすぐに錆びついてしまう。
テキストと電子辞書を引っ張りだし、ノートをぱらぱらと開いてみると、次回までに予習!と、紛うことなき自分の字で書いてあった。
「…うわ。ぜんぜん覚えてない」
無為の日々も大概にしなくては。
軽くため息をついてから、web予約で受講申請を入れた。
その語学スクールは単位制をとっていて、生徒はコマ数をチケット購入し、自由に授業を選択して自分のカリキュラムを組むことができる仕組みだった。
また、年度スケジュールとして通年で開講されるクラスの他に、空き教室を利用して単発的に開講されるオプションクラスもあった。こちらは、“最新音楽用語”とか、“新作○○の感想を話し合う会”など、時事性と趣味性が強い傾向があるようだった。
で。
会社帰り、数週間ぶりに訪れたスクールで珠美は戸惑っていた。
久しぶりの受講で、どうやら予約を間違えたらしい。その日は通年で取っているリーディング主体の“英文翻訳一般”が開講される曜日ではなく、代わりに会話重視のオプションクラスに予約を入れてしまっていた。“映画の話なんでも”というざっくりしたテーマで、難易度は中程度。
「……たまにはいいかな。映画も嫌いじゃないし」
キャンセルもできるけれど、せっかく来たことだし。なかなか頭に入ってこない英文を読み込むより、相手のいる会話のほうが集中を迫られていいかもしれない。
割り当てのクラスは、教室と言うよりカフェテリアふうの共有スペースの一角だった。
講師を含め、5~6人で円形のテーブルを囲む。珠美は挨拶して話の輪に加わり、数分で「しまった」と思った。
思い出した。こういうノリか…。
ハーイ、タマミ、ホワッツアップ? などと親しげに話しかけられ、内心で300メートルくらいヒいた。
英語で会話するとなると、何故か異様に距離感が近くなり、初対面からやたらフレンドリーに迫ってくる人がたまにいる。アメリカ西海岸あたりが舞台のスクールドラマみたいだ。そういうノリを好んですぐに親しめる人もいるだろうし、一概に否定する気はないけれど。
こういうの苦手で会話のグループってあんまり参加しなかったんだっけ。
とりあえず、真向かいの「ゴシップガール」大好きと称するガールがやたらとタマミタマミと連呼するので、
「タマミと呼ばれるのは好きじゃない」
と主張してみた。
「Please call me Maezono.」
アメリカ出身の女性講師は特に感慨もなく「OK」と応えたが、ゴシップガールとゆかいな仲間たちは簡単には引き下がってくれなかった。
「まあまあ、そう堅いこと言わずに」
「最初は気恥ずかしいかもしれないけど、すぐ慣れるよ」
「気楽になかよくやろうよ、タマミ」
HAHAHAHA、的な、朗らかな笑い声。肩組んで歌い出しそうだ。明るく楽しく愉快な仲間の輪でございますよ。
……やばい、何言ってもムダなモードだ。
たかが90分程度のことだし、と、諦めつつも、困惑と不本意が拭えない。眉間にしわが寄るのを自覚する。
そこへ、テーブルの端のほうから、wait, wait,と挟まれた。
「彼女の意思を尊重すべきでは?」
生真面目そうな青年。確か、八重樫望と名乗っていた。その語調には特に揶揄とか非難めいたニュアンスはない。
濃い眉越しに覗く目が思慮深そうな静けさを湛え、軽く頭を傾げる。ごく単純に、純粋に疑問を呈しているようだった。
一気に鼻白んだその場の空気をものともせず、八重樫は淡々と続けた。
名前の呼ばれ方については、人それぞれ感覚が違うだろうけれど、アイデンティティに関わって思い入れが強い人もいる。呼ばれたくない、と言っているのに、それを無視してまで名前呼びしなくてはならない理由もないのではないか。
道理である。で、そういう正論を妙に畏まったイギリス英語できちきち述べられるものだから、ゴシップガールたちも、いやまあそれはその…、と口ごもってしまった。
「うん、彼の言うとおりだと思う」
戸惑う受講生を後目に、講師はあっさり同意した。
「でも、私にとってはマエゾノってすごく発音しづらいんだけど、他の呼び方はないかな?」
「…じゃあ“M”でどうですか。MaezonoのM。別のクラスでそう言われたことあるんです。ちょうど「スカイフォール」が公開されたときだったから」
ジェームズ・ボンドの上司のコードネームを挙げると、さすがに映画好きが揃っているだけあって盛大にウケた。
講師も、それはいい、と喜び、それから「スカイフォール」の台詞や言い回しをピックアップして、日常会話に応用した言い方などを紹介した。ゴシップガールも気まずくならず、スパイ映画や欧米ドラマでのスパイネタなどを熱心に教えてくれる。
結果的に、自分のせいで盛り下がることもなく、珠美はほっと胸をなでおろした。
クラス終了後、珠美が受付に寄ってカリキュラムの確認をしていると、先刻の八重樫青年の姿を見かけた。珠美の意志を尊重すべき、と主張してくれた、イギリス英語ばりばりの人物だ。
座っているときには気づかなかったけれど、随分と大柄な男性だった。背丈はそこそこ標準より高い程度だけれど、広い肩幅とがっちり頑健な体格が「デカっ」という印象を与える。ラグビーとか似合いそうだ。
ごく一般的な紺のスーツ姿にある種の風格のようなものが漂っていて、そうか、スーツって肩と胸板で着るんだな、と妙な納得を覚えた。レジメンタル・タイが生真面目そうな風情を印象づけている。
「八重樫さん」
さっきはありがとうございました。
珠美が声をかけると、はい?と振り向いて、怪訝そうに首を傾げた。何に対する礼なのかわからないようだった。
苦笑して、名前の呼び方のことで、と促すと、意外そうに目を見開いて、「ああ、そのこと」と言った。
「わざわざ礼を言われる程のことじゃないですよ。単に、思ったことを言っただけなので」
彼は素っ気なく答える。愛想が悪いわけではなくて、本当に大したことではないから、というつもりらしかった。
「そんなに深刻に気にしてるわけじゃないんですけどね」
と、珠美はなんとなく言い訳のように付け加えた。
「…昔、親戚のおじさんに名前のことでしつこくからかわれたことがあるんですよ。有名なホラー漫画の主人公と同じ名前だとかで」
子どもの頃のことだし、もういいかげん気にすることないんですけど。
「いや、子どもの頃のことって、けっこう後々まで残りますよ。無理もないです」
と、彼は大真面目に頷いた。
「…八重樫さんはよく会話クラスに参加するんですか?」
「たまに。さっきの講師、本当に映画好きでものすごく詳しいんですよ。さっきも、「スカイフォール」の台詞とかパッと出てきたでしょう」
「ああ、確かに。他のスパイ映画とか、ダニエル・クレイグの他の出演作とかも、すっごい詳しかったですね」
「僕も映画好きなんで、よく彼女のクラスをとってるんです。で、彼女がああいう会話クラスを主催するときには半分頼まれるようなかたちで参加したりします」
へえ。と相づちをうつと、彼は、前園さんは?と視線を向けてきた。
「普段、会話クラスとらないみたいですよね。あまりお見かけしたこともないし」
「間違えて受講予定入れちゃったんです。いつもは“翻訳一般”。でも、たまにはいいかな、と思って」
「翻訳? そんなクラスもあるんだ、知らなかった」
首を傾げるのは彼の癖であるらしかった。生真面目そうな風情とあいまって、純朴な可笑しみが漂う。
「プロの翻訳家の先生が教えてくれるんですよ。このスクール、講師の自由度が高いから講座のバリエーションがものすごく幅広いんですよね。もっとも、当たり外れも激しいみたいだけど」
「確かに。僕、ひたすらテキスト読むだけのクラスにあたったことありますよ。しかも、発音指導もナシ。さすがにあれは事務局に抗議入れたな」
えっ。それ誰それのクラスじゃないですか。と、クラスの当たり外れの話題はこのスクールの受講生の間ではあるあるネタだ。
それぞれ互いに、お薦めのクラスとそうでないクラスの口コミを提供しあっていたら、唐突に八重樫の腹が、ぐう、と鳴った。
「あ。…Excuse me」
あまりに見事な腹の虫と、気まずそうな八の字眉に、珠美はつい、くすっ、と吹き出してしまった。ハッ、と失礼に気づき、あわてて謝る。
「ごめんなさい、つい。…夕食まだなんですね」
八重樫も笑って、参ったな、と照れくさそうにした。
それから、生真面目な表情を取り戻し、珠美の正面に向かってきちんと居住まいを正した。
「…前園さんも、ご夕食まだのようでしたら、ご一緒しませんか」
「あ、えっと……」
珠美が戸惑って口ごもったところに
「と、お誘いしたいところなんですが」
八重樫は首を傾げて頭をかいた。
「…僕、あんまり初対面の方とすぐ親しめる性格ではないんです。人見知り気味で」
人嫌いではないはずなんですが、とにかく慣れるのに時間がかかる。だいたい、食事と言っても、どんな店に誘っていいのかわからないし、前園さんにもご予定があるかもしれないし。普段はすぐそこの牛丼屋で晩飯にするんですけど、さすがに牛丼屋に誘う訳にいかないじゃないですか?
困りきった様子で、早口気味に言う。
珠美は呆気にとられ、それから、なんだか可笑しくなった。お腹の底からもぞもぞとくすぐったいような笑いがこみあげる。なんだろう、この人。可笑しい。
「八重樫さんって。あの、失礼かもしれないけど、“そこまで言わなくてもいいのに”とか、よく言われません?」
「…どうしてご存じなんですか?!」
“いらんこと言い”ってよく上司にたしなめられるんです。
心底不思議そうに問い返され、珠美は我慢できずに吹き出した。沸騰する鍋底から細かい泡がわきつづけるように、くつくつとこみあげて笑い続ける。
「ごめ、ごめんなさい。止まらなくって」
八重樫は笑い続ける珠美をきょとんと眺める。その様がまた可笑しい。
こんなふうに笑うのはなんだか久しぶりだった。いつも無理して表情を繕っていたような気がする。
「八重樫さん、」
ようやく笑いをおさめ、珠美は改めて口を開いた。
「私も、どちらかと言えば人見知りのほうで、親しくなるのに時間がかかるほうです。だから、気持ちはよくわかります。緊張しますよね」
でも、牛丼屋は嫌いじゃないですよ。私はいつも定食を頼むんですけど。
「あいにくと今日は、一昨日買った材料を調理してしまわなくてはならないんです。お互い人見知り同士だし、今日のところはこれで失礼しますね」
また機会がありましたら。
まんざら社交辞令でもなく言い添えると、八重樫はホッとしたように笑った。
「Yes. I hope to see you again.」
相変わらずきちきちと几帳面な印象の挨拶が帰ってきた。
「Me too. …so long.」
特に連絡先を取り交わすでもなく、会う約束を取り付けることもなく、握手して別れた。
また会うかもしれないし、会わないかもしれない。会ったとしても、親しくなるかはわからない。
ほどほどの距離感が快かった。リハビリみたいな気分だった。
こうやって、日常を取り戻していくのかもしれない、と思った。