10.再び、しょうが糖
八重樫は紳士だった。
珠美の八つ当たりじみた拒絶にも関わらず、以前と変わらない礼儀正しさで接してくれていた。
彼が言ったとおりに、自分の課題テキストに目処がついてからは、翻訳クラスには現れない。たまに、受付ですれ違っても、丁寧な目礼と会釈で、ごく自然に挨拶する。
何事もなかったようだけれど、確実に距離は遠ざかっていて、珠美はその距離の取り方に彼の誠実さを感じた。
「八重樫さん」
声をかけられて、彼は軽く目を瞠った。
彼のとっている映画クラスの終了時間、明らかに待っていた態の珠美が、彼を呼び止めたのだった。
どうしたのかと一瞬訝しんで、それからいつも通り、礼儀正しく会釈した。
「こんばんは」
どうなさったんですか。
怪訝そうに首を傾げる、八重樫の癖。
珠美は軽く目を細めて彼を見上げ、それから、深々と頭を下げた。
「先日は、ごめんなさい」
彼は一瞬驚いて言葉に詰まった。とはいえ、すぐにいつも通りの礼儀正しさを調えて尋ね返す。
「……どうかされましたか? 謝られるような覚えはないですよ」
気にしないでください、という態度。
珠美は、その気遣いにかすかに微笑んだ。優しい人だ。だから、きちんと話をしなくては、と思った。
「聞いてほしいことがあるんです」
近くのコーヒーショップに場所を移した。
他の教室仲間もいっしょに、何度か帰りに寄ったことがある。
「映画に誘っていただいたときのこと、本当にごめんなさい」
改めて、珠美は口火を切った。
再び謝られて、今度は八重樫はただ微かに頷いた。コーヒーにミルクを落としながら黙っている。とりあえずは珠美の話を聞くことにしたようだった。
「私ね、半年くらい前に、つきあってた人と別れたんです。相手が別の人と結婚することになって、ふられたの。
結構エグいんですよ。なんの前フリもなくいきなり、彼、結婚するらしいよ、って人づてに聞いて。しかも、その婚約者から“ごめんなさいねえ、うちの人が”みたいな手紙も来るし」
八重樫は戸惑って眉をひそめた。悲惨なわりに安っぽい話の内容と、それを可笑しそうに話してみせる珠美の態度に、彼女の心情をはかりかねて、どう反応していいのかわからない。
昼ドラみたい、とか思いましたよ。
自分が気づかないうちに、何か嫌われるようなことしたのかな、とも思った。
でも、あまりにもいきなりだったから。悲しいとか腹が立つっていうより、訳がわからなかったんです。
まるで彼のことが宇宙人みたいに思える。確かに好きだったはずなのに、どんなふうに思っていたか、彼を好きだった頃の自分が思い出せなくて、迷子になったみたい。
だから、自分が誰かに好かれる、ってことも理解できなかった。ヘンだ、おかしい、って思うんです。
八重樫さんに誘われたときも。
あれは、自分に向かって言ったんです。くだらない、って。
私が大事に思われるなんて、そんなわけないじゃない、くだらない、って。
「…………」
思ってもみない告白に、八重樫はなんと言ってよいかわからなかった。
今にして思えば、珠美の反応は過剰といえば過剰だった。しかしまさか、そんな心境だとは思わなかった。
「…今も、まだそう思ってるんですか?」
気遣わしげに尋ねると、珠美は淡く微笑んで横に首を振った。
つい先日、彼の弁護士ってひとから連絡があったんです。
「弁護士?」
八重樫は、いきなり仰々しい肩書きの登場に呆気にとられ、それから語られた顛末にさらに驚かされた。
個人を特定できる情報を伏せ、ざっとかいつまんだ説明だったけれど、それでもかなりとんでもない事態だった。
「……それは。大変でしたね」
なんと言ってよいのか言葉に詰まり、ようやくそれだけを口にする。それから、彼は顎のあたりに手をあて、思案を巡らせるような仕草をみせた。
その場合、確かに離婚自体は成立すると思います。結婚するまでの経緯は物証がないと問えないかもしれませんが、暴力の事実は証拠・証言ともに揃っていますし、十分でしょうね。
「ああ、そっか。八重樫さんも法務関係の仕事でしたね」
「僕は弁護士じゃないですけどね、専門も違うし。
今回のケースは、妻側のご両親に協力してもらえているのがよかったですね。カウンセラーや専門家の方がついてるのも心強い」
仕事の顔で状況を概説する八重樫に、
「大丈夫です、彼なら」
珠美は確信に満ちて言った。
「彼なら、絶対に解決します。必ず、彼の人生を取り戻す」
八重樫はそんな彼女を、複雑な思いで見つめる。迷いのない、澄み切った表情は眩しくて、思わず目をすがめた。
「……じゃあ、彼とやりなおすんですね?」
珠美は軽く笑って、かぶりを振った。
「いいえ」
「…いいんですか? 誤解は解けたんでしょう?」
「いいえ。もう、会わないと思います」
まさか。と言いたげに、彼女は重ねて否定した。
「イヤですよ、私を捨てて他の人と結婚しちゃった人なんて」
せいぜい奥さんに苦労させられればいいんです。
わざと明るく、軽々と茶化したように言う。
たぶん、内心で複雑に思いが交錯しているであろう、その胸のうちを察しようにもとても及ばず、八重樫はいつものようにただ首を傾げて戸惑うしかなかった。
そんな彼の困惑を払拭するように、珠美は穏やかな表情で続ける。
「でもね、思い出したんです。ああ、こういう人だったな、って。私、この人のこと好きだったな、って。 やっと、思い出せた。ようやく、取り戻した」
自分に言い聞かせるように言う。
その横顔は憂いを帯びて寂しげなのに、どこか晴れ晴れとしていた。
「好きになった自分を取り戻せたから、これで、ようやくちゃんと失恋できる」
「前園さん…」
目元が潤んで、まつげがふるふる揺れる。彼女は、泣くまい、と唇を噛みしめた。
「私、これからものすごいベタに傷心に浸りますよ。
彼と行ったお店とか、いっしょに食べたごはんとか、かかってた音楽聞いたり、思い出して耽って、超メソメソする。日記とか読み返しちゃう。日記なんて書いてないけど」
ふふ、と冗談めかして笑った。無理しているのがわかったけれど、八重樫には何も言えない。
「だからね、八重樫さん」
すっ、と目線があがって、まっすぐに見つめられる。曇りのない、清々しい表情で。
「私は今、こんなだから。あなたの気持ちに応えられない」
あなたには、ちゃんと言わなくちゃ、と思ったの。
好きになってくれて、ありがとう。
応えられなくて、ごめんなさい。
八重樫はしばらく黙って、珠美を見つめていた。視線がとらわれたように、目が離せなかった。
彼女は怯まずに、穏やかに見つめ返す。
やがて、彼はいつものように生真面目な口調で言った。
「Accept」
一言だけ。
珠美がもう一度、ありがとう、と礼を言うと、八重樫はなんでもない、というように微かに笑った。
それから彼は、照れたように、困ったように首を傾げる。視線をそらして、参ったな、と呟いた。
コーヒーはすっかり冷めてしまっていた。
帰り道、地下鉄の駅まで一緒に歩いた。
ふたりとも、無言で。
反応は予想がついたけれど、八重樫は「送ります」と申し出てみた。
「ひとりで帰ります」
予想通り、珠美は応える。
「じゃあ、ホームまで」
応えを待たず、ホームへの階段に促すと、彼女は無言で頷いた。
別れ際、八重樫はポケットから何かを取り出した。
薄い黄色のパッケージ、平たい円盤状のしょうが糖。甘くて、辛くて、喉に熱く、鼻に抜ける香りの素朴なお菓子。
「お見舞いです」
と、珠美に差し出す。
「お見舞い?」
いったいいくつ持ってるんですか、これ。笑いながら受け取った。
「落ち込んだときは甘いものが効くんです。喉にもいいし、体もあたたまる」
八重樫は大真面目に答える。
「元気出してください」
それが限界だった。決壊の合図のようにはらはらと涙がこぼれて、彼女は狼狽え、あわてて背中を向ける。
そのとき、ちょうど電車がホームに入ってきた。
平日の夜、電車は通勤帰りの乗客でそこそこの混み具合。
人混みに紛れるように乗り込む珠美の背中を、気をつけて、と彼は気遣わしげに目で追った。
扉が閉まる。発車のアナウンス。
窓越しの彼女は少し俯いて、しょうが糖のパッケージを軽く掲げたようだった。
八重樫は電車を見送った後も、しばらくホームに佇んでいた。
ありがとう。
残響のように耳に残る、彼女の震えた声。
「…参ったな」
首を傾げて、深くため息をついた。