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Ginger  作者: ムトウ
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1.Lost

“え? 俺たちってそういうんじゃなかったろ?”


「……それだけ?」

 前園珠美の目の前には、心底呆れかえった友人の姿があった。珠美は淡々と友人の言を反復して、それだけ、と頷く。


 天気のいい休日の午後、ホテルのレストランでケーキビュッフェ。二人の目の前にはクリームやチョコレートやフルーツ満載の皿が並んでいる。

 珠美の大学時代からの友人、今野マリエは大の甘党だ。彼女に誘われ、二人で甘味ハントに繰り出した次第。

 お茶とケーキでガールズトーク、的なスイーツ女子を名乗るには些か真剣すぎる面もちで甘味を貪るマリエに、珠美は何げなく近況を伝えた。

 ごく淡々と事実を伝える口調で、世間話的にさらっと「恋人と別れた」。

 そこまでは別にどうということもない。

 マリエは「ありゃまー」とか適当な相槌をうった。

 自分にも相手にもキビシめの前園のことだから、また相手を怯えさせて逃げられたか、愛想尽かして自分からふったんだろうなー。

 と、どちらかというと目の前の皿のほうに神経がいっていたのだけれど、その後に続けられた別れの顛末に思わず「は?」と聞き返してしまった。「は?」の成分内訳としては、どういうこと?(80%)、マジか、ありえねえ(12%)、大丈夫か?(8%)、といったところ。マリエは事態が把握できなくて頭の中が「?」マークで浸食される。


 前園珠美は(公私をきっちり分けたがる彼女にしては迂闊なことに)、同じ会社に勤める先輩社員と交際していた。ところが、つい先週、彼の転職と、同時に婚約が明らかになる。珠美はそのことをまったく知らされていなかった。念のため記すと、婚約した相手は珠美ではなく、転職先の重役の娘。

 さすがにどういうことか尋ねると、前述の台詞が返ってきたという次第。

 再掲。


“え? 俺たちってそういうんじゃなかったろ?”



「ちょ、ちょっと待て」

 さすがに「ありゃまー」で流すには悲劇すぎる。状況を把握するにつれ、脳内内訳のパーセンテージが、そりゃないぜ(60%)、マジ大丈夫か?(40%)に変化した。

 我が友人は、確かに頭は硬いし知に働いて角が立つタイプだし可愛げない女だが、そこまで粗雑な扱いをされるべき人物ではない。ていうか誰であっても粗雑に扱われてはなりませんが、いやちょっと、それは、あんまりじゃね?

 と、ぐるぐる混乱する思考を収め、マリエはスプーンを置いて改まった態度で「何それ?」と尋ねた。妙に平静な態度でイチジクのコンポートを味わっていた珠美は怪訝に「ん?」と応える。

「何それって言われても、それだけだけど?」

 これおいしいね。さすが今野イチオシのビュッフェなだけあるわー。

「いや。いやいやいやいや。それだけって、あんた。何それ何それ。何だそれ。おかしいだろ」

「相変わらず口悪いなあ、今野は。美人なのにギャップ激しいよね」

 珠美はいつもと変わらない態度で、少し困ったように笑う。

 当の本人よりもうろたえてしまっている自分が苛立たしく、マリエは噛みつき気味に重ねた。

「なんでそんなヘーゼンとしてんの。なんなの。なんで私のほうがこんな慌てさせられて、ぎちぎち怒ってんのよ」

 ああ、もう、せっかくの甘味が。ここのチョコレートムース絶品なのに!

「本当? じゃあ後でとってこよう」

「前園!」

「怒鳴らないでよ。ていうか、なんであんたがそんなに怒ってんの。私が聞きたいわ」

 茶化してみたものの、本当はわかっていた。マリエは我がことのように憤慨し、心配してくれている。

「怒ってくれてありがと。でもね、本当になんだかよくわからないの。現実感なくって」

 社内の噂で知ったのがつい先週のことでさ。本人に確かめたら、そんな返事でしょ。まるで狐につままれたみたいな、ってこういうときに言うのかと思った。私ひとりが、彼とつきあってるって思いこんでたのかもしれない。それくらい、あっけらかんとしてたんだよね。

「でも、スマホには電話やメールの履歴が残ってるし、私の部屋には彼の着替えとか本とか置いてったものがあるし。ほっぺたつねったら痛いし、このクリーム絶品だし」

 これ本当においしい。ゆるめのホイップがさらっと溶けて、リキュールがきいてて。

 シフォンケーキに添えられた生クリームにニコニコしている。

 マリエは大きくため息を吐いた。

 ダメだ。こういう状態の珠美は腹のうちを見せない。この友人は頑なに弱音を吐かない。自分の中で整理がつかない限り、それを表に出そうとしないのだ。

 ある意味潔いけど、意固地な奴。




「……水野孝之、とかいったっけ? そのヒト。同じ会社なんでしょ? どうしてんの?」

「別に、普通に仕事してるけど。退職するまでまだ2ヶ月くらい間があるからね。

 会社的には特に問題ある辞め方じゃないから、穏やかなもんだよ。粛々と引き継ぎしてるみたい。

 私とはフロアが違うし、いつも顔会わせるわけじゃないの。でも私、水野の部署を補佐する課にいるから、書類とかフツーにまわってきて、電話したりもするよ。もとから仕事中はスイッチ切り替えてるから。そこは変わらない」

 珠美の返答は淀みない。マリエは、苛立つ自分が阿呆のように思えてきた。呆れる鉄仮面ぶり。

「…つきあって何年くらいだっけ? 結構長いよね」

「んー。2年、かな」

「26からつきあって2年かー、そろそろ結婚とか考えてたんじゃないの? キッツ。鬼畜だわー」

「別に、結婚はあんまり考えなかったけど。でも、さすがにこんなふうに別れることになるとは思わなかったかな」

「ていうか別れるの決定? それでいいの?」

「いいの? って言われても」

珠美は困ったように笑って答えた。

「向こうにもうその気がない、ってはっきりしてるんだから、仕方ないじゃない。どうしようもないよ」

「……前園」

 どこまでも平静に笑う珠美に

「……本当に大丈夫なのあんた」

 と、心配(100%)して尋ねると、さあ? とヒトゴトのように応えた。

 マリエにはそれ以上何といってよいやらわからず、再び深々とため息を吐くしかなかった。



 マリエの直情鉄火ぶりは相変わらずだった。考えていることが全部顔に出る。

 珠美は帰途につきながら、愛すべき友人の表情豊かなさまを思い起こして微笑んだ。今の自分にとっては、率直な彼女の存在はひどく安心するものだった。


 珠美の住む部屋は中層建てのワンルームマンションだ。

 部屋の鍵を開けながら、あ、そうか、と気づく。帰宅したら、まず彼にメッセージすることが習慣になっていた。その習慣はもう不要なのだ。

 毎日毎日、帰宅する度に、“水野の不在”を思い知らされる。


 洗面所に向かうと、水野の歯ブラシとひげ剃りが目に留まった。棚には彼の愛用する今治タオルが備えてある。

 珠美は思わず笑ってしまった。不在どころではない。家中に水野の気配が色濃く満ちている。

「片づけなくちゃ」

 思い立ったイキオイのままに片づけ始めることにした。さもなければきっと、明日も明後日も、来週も来月もこのままだ。

 空き段ボールを組み立てて、水野のものを片端から入れていく。


 歯ブラシとひげ剃り。こだわってた今治タオル。スリッパ。マグカップ。読みかけの雑誌。本。気に入りの映画のDVD。下着と靴下。部屋着にしてたスウェット。替えのシャツとネクタイ。ハンドクリーム。トワレ。

 あらゆるところに、水野の断片が点在している。珠美は、部屋の中にぽこぽこと空白の穴が開いていくような心持ちがした。

 そして、自分のものか水野のものか判別しがたい、というものに意外と悩まされた。

 例えば、いつのまにか水野専用みたいになっていた来客用の箸。頭痛持ちの彼のために常備していた薬は珠美もたまに使う。半額になってた、と彼が喜んで買ってきた麻100%のシーツ。買い置きのビールは、実は珠美はあまり好きではない。


「タイヘンだ…」

 珠美はぽつりと呟いた。

 おかしい。

 水野のものを片づけているだけなのに、どうして自分の部屋が欠けていくのだろう。大して広くもないワンルームが空白の穴に浸食されて、居場所がなくなってしまう心持ちがした。

 ここはどこなんだろう。こんなの、私の部屋じゃない。


 珠美は“水野の不在”が、日常生活と身体感覚を欠損する現象として、異様にリアルに迫ってくるのを感じた。

 こういうことなんだ。部屋中が穴だらけになって、親しんでいたものと時間が消えてゆく。

 それくらい、あの人が傍にいることが当たり前だった。


 でも、どうして?


 珠美には未だに、何が起こったのかわからなかった。

 端から見たら至極単純な、明快極まりない事実。

 つきあっていた人と別れた、もっと端的に、ふられた、それだけのこと。

 

 けれど、あのとき。よく知っているはずの彼が、全く知らない、まるで理解の及ばない宇宙人のように思えた。

 ただただ、奇異だった。現実感もなかった。


 だから未だにわからない。

 私はいったい今まで何をしていたんだろう。誰に、どんな気持ちをもっていたんだろう。そして、何を失ったんだろう。

 悲しもうにも、何を悲しめばいいのかわからない。なんの感情も覚えない。


 段ボール箱の雑多な品々と、それらが埋めていた部屋の空白に、珠美はただただ呆然と立ち尽くした。






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