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小噺10 間違い

作者: 黒田
掲載日:2015/11/08

 玄関で仕事に向かう修を見送ると春子はリビングへ戻りました。マグカップを2つキッチンに運び、まだ温かなコーヒーを流し台に注ぎます。酸味のある匂いが春子の鼻をくすぐりました。


 春子と修が結婚して2年がたちます。このマンション-4部屋でアイランドキッチンがあったことが春子がこのマンションにした最大の理由です-には2年前に引っ越してきました。

 結婚は春子の思っていた以上に大変なことでした。お気に入りのマグカップを洗いながら春子は思い出します。だけども、と濃い緑色のマグカップをボードに置きます。だけども、誰かを想うことはとても幸せなことと春子は思います。誰かを想う時、春子は自分が何かに満たされた充実感を得ます。修のネクタイを選ぶ時も、夕食の献立を考えているときも、残業といって別の女性と会って帰りの遅くなった修を待つときも。


 修が浮気している、春子がそう感じたのは昨年の冬のことです。部屋で携帯電話を使う時間が増えたこと、ネクタイのセンスを変えたこと、話をしていても春子を見なくなったこと、夜の営みを修が避けるようになったこと。どれも小さなこと、しかし時間が流れると同時に春子の心を重くしました。

 それでも春子は修の浮気を追及することはありませんでした。たとえ修が春子を見ていなくなっても、春子は良かったのです。修を想う私がいる、それだけで春子は満たされたからです。

 あの人がどんな仕事をしているのか、どんな飲み物や食べ物を口にしているか、どんな会話でどんな表情で私の知らない女性と話しているのか、どんなふうにその女性を抱いているのか。

 誰かを想う、それが結婚の本質だと春子は考えています。たとえ想う人が自分と違う方向を向いていたとしても。



 「それは間違いよ」

 友人の絵美子はレタスをフォークに突き刺して言います。

 「どうして」

 春子は注文したシーザーサラダをお箸で突きながら、不思議そうに答えます。

 「妻がいながら違う女を抱く男は何も考えていない、誰も想っていないわ。自分以外」

 お昼時を過ぎたデパートのレストランでしたが、それでも人で賑わっています。深い緑に黄色と赤の細い線のチェック柄をした買い物袋-中には紺色に小さな銀色の星が規則的に並んだネクタイが入っています-を隣に置き、春子は絵美子に修のことを話しています。

 「本当に修さんは私のことを想っていないのかしら」

 「想うことよりも考えることの方が多いんじゃないの」

 「どういうこと」

 春子はレタスをドレッシングに絡めて一口、口に運びます。

 「この先のあなたとの結婚についてよ。いつ本当のことを告げようか、どのタイミングで話を切り出そうか」

 絵美子のお皿はすでに空っぽでした。ウェイターがお皿を引き取り、代わりに温かなコーヒーを絵美子に差し出しました。

 「結局、春子の夫は春子のことよりも自分の保身だけを考えているのよ」

 そう言うと、絵美子はコーヒーを一口のみ隣に置いたカバンから銀色の薄い小箱を取り出します。小箱を開け、中に詰まった煙草を1本手に取り口に挟みます。

 「そんなに修さんのことを悪く言わなくても」

 自分のことを言われたように春子は絵美子に言い返します。絵美子は煙草に火を点けて深々と吸うと、ふうとため息のように煙を吐き出しました。

 「まだ、好きなのね」

 絵美子は春子を見つめます。春子への悲しみ、春子の夫への怒り、この夫婦への軽蔑、それが溶け合った視線で春子の小さな顔を見つめます。

 「好きよ」

 「でも、春子が好きなのは」

 煙草を灰皿に押し付けて、絵美子は続けます。

 「夫を愛している自分じゃない?」



 -私は修さんを想っている-

 時計の針が午前0時を回っています。一人ベッドで横になる春子は目を閉じて昼間の絵美子とのやり取りを思い出します。

 「自分?」

 昼間、絵美子の口から出た答えに春子はなぜか動揺しました。

 「そうよ、夫に恋する自分。それこそ春子が一番大事に思うことじゃない」

 -私は修を想っている。でも彼の何を想っているの-

 春子以外誰もいない寝室はとても静かです。時折、どこかの部屋から誰かが笑う声が聞こえます。

 -私は修さんの何を想っているの?-

 目を閉じて、春子は修のことを想います。修の顔、会話、癖、服、匂い・・・。

 -私は-

 目を開けると、うっすらと寝室に置かれたソファーや家具が目に入ります。仰向けになって春子は天井を見つめました。

 -私は修さんのことを想っているのに-

 目を静かに閉じると、春子の顔に涙が伝わりました。

 -どうして、こんなに悲しいの-



 「コーヒー、飲む?」

 翌朝、朝食に使ったお皿をキッチンに運び春子は修に問います。修の目は力が抜けると閉じそうです。

 「ああ、おねがい」

 コーヒーを2つのマグカップに注ぐと1つを修に手渡しました。修はマグカップを受け取り、春子はテーブルの自分の席に腰をかけます。

 「ねえ、修さん」

 春子はコーヒーを一口飲み、ぼうとしている修に言います。

 「私、修さんのこと、好きよ」

 突然の妻の言葉に修は驚き、妻の顔に目を向けます。春子は驚く修を笑って見ています。

 「どうした、突然」

 「ううん、急に言いたくなって」

 驚く修を他所に春子はお気に入りのマグカップを大切そうに両手でもちコーヒーを飲みます。


 仕事に出かける修を玄関で見送り、春子はリビングに戻ります。今日は修のマグカップは空っぽでした。流し台には自分のコーヒーだけを流します。

 -私は修さんのことが好き-

 食器やカップを洗いながら、春子は思います。

 -たとえ、それが修さんのことを想う私自身が好きの間違いでも-

 柑橘系のすうとした匂いが春子の鼻をくすぐります。

 -私は修さんのことを想う、それでいい-

 ボードにマグカップを2つ、並べると春子はリビングの窓を開けます。小さな雲が見えますが、今日もいい天気になりそうです。

 -修さんはもう駅に着いたかしら-

 朝の活気づいた街の音を耳にしながら、今日も春子は修のことを想います。


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