PIANO 天音 悠編
あの日。
楽しくはしゃいで、帰ってきたあの日。
あの時に見た空を。
私は生涯、忘れない。
「おばさん、行ってきますね」
「あら。もう行くの? まだ朝の5時じゃない」
「今日は少々面倒な課題がありまして。それを終わらせてこようと思っているんですー」
「そうなの? わかったわ、無理しないでね」
毎朝。母――いや、母の妹に、挨拶を交わして大学へと向かう。
只の甥である筈の悠を、とても可愛がってくれる叔母。それは嬉しい反面、申し訳なくもあった。
あの日から家族を全て失った悠。そんな中彼を引き取ってくれたのが、彼女だったのだ。
悠は叔母に一礼して、そのまま家を後にする。
……悠は空が嫌いだった。
いや、早朝と夕方の空が、嫌いだった。
だから。澄み切った空は、それなりに好きだ。虚ろなまでに何もない、そんな真っ青な空は、悲しいほど悠の心を癒してくれる。
……あの日の空を、塗り替えてくれる気がするから。
無駄なことと知りつつ、今のこの全てが只の夢であればと、何度願ったことだろう?
叔母の好意は痛いほどに伝わってくる。だが独身である彼女が、悠を迎え入れたために相当な負担を背負うことになってしまったのは事実だ。
……それに。
「………お土産、ねぇ」
悠はうっすらと苦い笑みを浮かべた。
あの引出しにしまわれたままのそれらが、誰かの目に触れることは、恐らくもうない。
鍵をかけて、二度と開けないと決めたのだから。
「………はぁ。これじゃ、また琥珀に怒られちゃいますかねぇ……」
待ち合わせ時間は、あと少しのところまで迫っている。また遅刻してしまうかもしれない。そうしたらきっと、
「またコーヒーを奢らされるんでしょうねぇ」
「普通に悠、遅れすぎだよ?」
「すみませんー。もう癖ですからー」
「そんな訳ないよね。何で僕の時だけ遅れるのかな? まぁコーヒー飲めるから良いけどさぁ」
大学からの帰り道、悠は琥珀の文句を聞き流しつつ、駅で別れた。
……と。
「あれ。ハルじゃないですか?」
振り返ると、見慣れた顔があった。
ぞんざいに後ろで一つに括られた金髪。洒落た服装。
雪倉 彰成。今、非常に人気なスタイリストだった。
「アキ……? 何故こんな場所にー」
「私ですか? まぁ、この前、行きたいところへ行く時に嫌な人間に会ってしまったもので………リベンジですよ」
彰成が困惑したように笑った。
嫌な人間、と彼が言ったら、一人しかいない。恐らく、彼の弟の雅成のことだろう。
「雅成さんはあんまり出かけないでしょうー?」
「そうですけど、あそこばっかりはね」
「あそこ? どこかの店ですかー?」
「えぇ一応……って言ってもマイナーなカフェなんですけどね。でも味はお墨付きです。保証しますよ」
「? 珍しいですねー。これから行くんだったら、ご一緒しても大丈夫ですかー?」
「えぇ、構いません。行きましょうか」
彰成は緩やかな足取りでそのカフェを目指し始めた。
舌が肥えている雅成が認める店なんて、そうそうない。悠は少し口元を緩めた。
「あの店にね」
「?」
唐突に、彰成が沈黙を破った。
気のせいか、彼の表情は高揚としているようだ。
「綺麗な女の子がいるんですよ」
「………?」
そんな話をして、どうするつもりだろう。
恋をした、とか、そういう表情ではない。
………そもそも彰成は、女性と関係を持とうという気がない。彼自身が言っていたことだ。
「その人がね、何か、声を掛けたら凄く困った顔したんですよね」
「……」
いまいち脈絡のない話だ。
突然声を掛けられたら誰だって困惑するだろう。
………いや。違うかもしれない。
彰成は非常に人気なスタイリストなのだ。
彼の名前を聞いたことがない、という人は殆どいなくなってきている。詳しくはなくても名前ぐらいなら、という人が非常に多い。
……それに、この辺りに彰成が住んでいるのもあってこの地域の人間は彰成のことをよく知っている。
女の子、というのなら、尚更かもしれない。
「……………………それが、どうかしたんですかー?」
一応訊ねてみると、彰成は少し意地悪な顔をして笑った。
「珍しいと思いませんか? 私の顔を見て、誰だかわからないなんて」
「それは、そうかもしれませんけどー……でも、そんな、滅茶苦茶に珍しいことじゃないんでしょうー?」
「若い女の子であんな子は初めてですよ」
彰成は微笑む。よっぽどその子が気に入ったのだろうか。
若い、と言ったって、彼もまだ27だ。恋をしたりしたって、別におかしくはないだろう。
彰成を知らない人間なら、そんな事を気にし始めるだなんて恋をしたのかと、そう訊ねたかもしれない。
ようやくお前も恋をしたのか、なんて、言ったかもしれない。
でも。
「……あなたらしくないですねー?」
「……?」
悠の言葉に、彰成は彼を見やった。
「恋愛ごとなんて関係ないといっていたあなたが、こんな話をするだなんて、いささか予想外ですー」
「……! 別にこれは、恋愛感情じゃないですよ」
それはそうだろう。そんな表情はしていない。
………でも、気になっている、と彼自身が言ったのだ。
だって。
「……あなたが女性の話をする時は、大体髪の話から入るでしょうー? なのに今のは、その女性そのものを見ている発言でしたよねー?」
「………」
彰成は黙り込んだ。
「……………私が、恋をしたとでも?」
「違いますよー。そうじゃないですー。あなたはその女性を見て、何かを思い出していたのではー?」
「…………!」
彼は目を見開き、振り返る。悠は構わず続けた。
「その女性が、誰かに似ていたんですかー?」
「……」
やがて目を伏せた彼の顔には、どこか哀切な色があぅた。
何かを失ってしまったような、そんな寂しげな色。
彰成は、時々そんな顔をする。何かが抜け落ちてしまったような、そんな顔を。
彼が嫌いだと公言している、男の長髪。それを彼自身がしていることに、理由があることぐらい何となく予想がついていた。
だって、悠だってそうなのだ。悠だって、別に自分が長髪になろうとは思いもしなかった。
だが、これは対価だった。「話」を聞くための、対価。
そうして恐らく彼の髪も……
「いらっしゃいませ!」
いつのまにか入店していたらしい。少女がこちらを見ていた。
多分、彼女が彰成の言っていた少女なのだろう。
少女は彰成を見て軽く目を見開いた。それから悠を見て目を瞬かせる。
「あ、ほら。美しいメイドさんでしょう? ハル」
彰成の言葉に、ハルは少し返答ができずにいた。
だってその少女の胸には、
“神月”。
「……そうですね~。それにー、確かにー……髪も綺麗ですね~」
何とか乾いた言葉を返す。ちゃんと今、自分が笑顔でいれているのかどうか、不安になる。
悠は少しだけ逡巡してから、席に着き……しかし何とか笑顔を取り戻して言った。
「えーと~。メイドさんー、注文してもー、良いですか~?」
掠れた声。強ばった体。
(何故、この名前が、ここに?)
今自分はどんな顔をしているだろう?
悠の頭の中は、真っ白だった。