プロローグ
お前には価値がないんだから、それくらいは働きなさい。
一度も話したことのない母が、初めてかけてくれた言葉。
わかりました、応えた声。
届く前に遠ざかる背中。
苦しいも悲しいもわからない。
わかりたくない。
楽しいも嬉しいもわからない。
わかりたくない。
私は今日も血を流し、鉄格子の先の空を見る。
鳥が自由に飛ぶ。
雲が風に流される。
今日も世界は平和でした。
ガシャリ。
重々しい音をたて、扉が開く。
逃げる場所も気もないのに、なぜ扉を閉めるのだろう。
不思議で仕方がない。
「お嬢さん、飯だぞー」
入って来たのは、いつも扉の前で私を見張る兵士。
唯一と言っていい、話し合い手。
「ありがとう」
「いえいえ、可愛いお嬢さんのためですから」
頬の傷後を歪ませ、軽装の兵士がおどけてみせる。
こんなに自然に私は笑えないので、きれいだなあと思った。
夕焼けや青空に並ぶほどに。
「今日はなんと。じゃーん」
「なあに?」
「飴だよ、飴。今日は特別に相棒がお休みなので、違反してやったー」
「はあ」
「こう、両端を引っ張って」
私があまりにも勢いよく開けたため、中に入っていた紅の飴が飛び出した。
「強すぎだ」
カラカラと床を転がる。
猫のように俊敏に、それを捕まえる。
感嘆。
「…きれいね」
光に透かすと、世界が優しい赤に包まれる。
きれい、きれい、きれい。
言葉が足りないのが悔しい。
「まじまじと見てるとこ悪いんだが、お嬢さん」
「なあに?」
「それ、食べ物だから」
兵士は飴をひょいと奪うと、軽く服で拭いてから一息吹きかけて、私に手渡した。
3秒ルールですから大丈夫、私にはわからないことを言って。
「きれいな毒ね」
「毒じゃねえって」
こら、怒られた。
それでも、笑顔は崩れなくて。
こんなところにいるのがもったいない人間だと思う。
ここは汚いのに。
「…わわ」
思わず、意味のない言葉が出た。
今まで食べた食べ物の中で、1番きれいな味。
甘く、温かい。
春のような食べ物だった。
「きれいね」
つぶやいた。
「そういう時は、美味しいって言うんだよ」
いたずらっ子の顔でにんまりする兵士。
美味しいは知っている。
でも、こんなに温かくはなかった。
だからきれい。
きれいなの。
伝えられないから、私は結局首を縦に振るのだけど。
「ありがとう」
兵士はきょとんとした後、少し耳を赤く染めて、どういたしましてと言った。
きれいな空。
きれいな人。
きれいな赤。
そのまま終わる1日なら良かったのに。
不規則な息。
口から漏れるすきま風のような雑音が、壁に跳ね返り反響する。
足元はすでに血で汚れ、自分自身との境目がない。
頭が開かれるような痛み。
空気を吸えているのかさえわからず、無様に口を開閉。
私は餌を待っている鯉のようだ。
痛みを紛らわせようと床を転がる。
ぶつかる腕、新しく流れる血。
痛い。
何が。
痛い。
わからない。
頬を流れる涙に、私は気づかない。
「お嬢さん、大丈夫か」
「なあに?」
「なあに、じゃねっつーの」
見上げる私の両脇に手を入れて、よいしょって持ち上げる。
そのまま、シーツの乱れた寝台に座らされた。
「おら、どこもかしこも傷だらけじゃんか」
兵士は自分が痛いと言わんばかりに、しかめっ面で薬を塗ってくれた。
染みるはずの薬が、不思議と痛みを和らげてくれる。
温かい兵士の手。
「全く、嫁入り前の女の子にさせるこっちゃねーのにな…」
酷く顔を歪めた兵士。
それは笑顔ではないことくらい、私にだってわかる。
きれいだったのに、私のせい?
「ごめんね」
「なんで、お嬢さんが謝る」
「あなたの顔が変だから」
「やかましい」
今度はちゃんときれいに笑った。
きれいなものが汚れることはない。
いや、そうじゃなくて。
私はあなたに笑って欲しかっただけなのかも。
夕焼けも青空も、あなたにはかなわない。
血まみれで傷だらけで。
それでも世界が美しいと信じれる理由。
「今日はあれはないの?」
「あれ?」
「飴」
「…ぶはっ」
吹き出して豪快に笑う兵士。
笑われているのに、不快ではない私。
「気に入ったのか? うちの3つになる娘もお気に入りだぞ?」
「ええ、きれ…、美味しかったわ」
「そうかそうか、また今度持ってきてやる」
相棒に内緒でな、と子供のように。
はじめての約束。
私自身をも、少しだけ温かくしてくれた約束。
果たされることはなかったけれど。
ある日。
何も変りばえのないはずの、ある日。
兵士さんは違う顔だった。
きっと、あなたが相棒と呼んでいた人。
兵士は言う。
お前のせいだと。
兵士は言う。
お前のせいだと。
兵士は叫ぶ。
返してくれと。
あなたは私のために、姉や母達に掛け合ってくれたそうね?
ならあんたが食べろと、簡単に言われたのでしょう?
あの人達はあなたのようにきれいじゃないの。
きれいも汚いも、もうわからないのよ。
ねえ、私用の食物を本当に食べたの?
馬鹿ね、馬鹿だわ。
止めてよ。
なんの冗談、笑えないわ。
私はそんなこと頼んでないじゃない。
約束が違う。
飴、くれるんでしょう?
私は泣かなかった。
違う、泣けなかった。
悲しいを知りたくないから。
失った大きさをわかりたくないから。
「…嘘つき」
空気に溶けて消えた。
それから数年。
人と話すことはなかった私。
その日も何でもない、予兆も予感もしなかったありふれた日。
嘘。
あなたが死んだ日から、悪い夢ばかりみるの。
どうしたらいいんだろう。
敵国に嫁ぎなさい。
一度も話したことのない父が、初めてかけてくれた言葉。
わかりました、応えた声。
届く前に遠ざかる背中。
ああ、世界は汚い。