恋とは何と捉えるか
案内された畑の作物が食い荒らされている。見るも無惨な光景に、カッセルズ王国の《聖女》であるアンジェリカは嘆息した。
性質の悪いことに、作物の一番美味しい部分ばかりが刳り抜くように食われている。地方の農村には魔物の恐れるものなど存在しないので、魔物たちは怯える村人たちを横目に悠々と作物を食べていくのだ。
アンジェリカにとって、それは残念なことに見慣れた光景だった。
王国ではこの数十年、動物や魔物による食害が続いている。理由は判明していないが、動物や魔物たちの個体数の急激な増加によるものだった。
魔物たちに食い荒らされた分の食料を他国に頼るばかりだった王国だが、この数年は様子が違っている。それは、アンジェリカの存在によるものだった。
カッセルズ王国の《聖女》アンジェリカ。アンジェリカは、驚異的な植物魔法の才能でもって王国を救っている。
アンジェリカが佇む後ろでは、畑の持ち主である農家が苛々と待っている。
「おい、早くしてくれ《聖女》様」
「はい、お待ちくださいませ」
答えながら、アンジェリカはこっそりと呼吸を整えた。
全ての魔法使いにとって、とくに女性にとって、保有する魔力というのは月の動きに影響される。今日は新月であり、魔法を使うには最も向かない日程だった。
すでに何度か魔法を行使して、どんどん体調が悪化している。アンジェリカのそういう様子を察して、隣にいたディーン・カッセルズが案じて声をかけた。
「大丈夫かい、アンジェリカ? 無理はしないんだよ」
ディーンはこの国の王太子であり、アンジェリカの婚約者でもあった。愛しい青年に、アンジェリカは真っ白な顔で微笑みかけた。
「問題ありません、ディーン様」
アンジェリカは、もともと孤児の平民である。王太子であるディーンと簡単に婚約できる身分ではない。
王太子が本来この王国の公爵令嬢と婚約していたのを解消して、ディーンとアンジェリカは婚約したのだ。愛する男の隣にいるために、アンジェリカは結果を出し続けなければいけなかった。
けれど魔法に向かない日であることを承知の上で、アンジェリカの日程を組んだのはディーンだった。愛する男ではあるが、ディーンがそういう気の利かない一面があることをアンジェリカは知っていた。
「……いきます」
宣言してから、アンジェリカは莫大な魔法を練り上げた。
同時に体の中からごっそりと魔力が抜けていく。命まで抜かれているようだ、とアンジェリカは思った。
アンジェリカがいくつかの呪文を唱えれば、無残な有様だった畑が見る見る活気を取り戻していく。動物や魔物たちに食われた先から芽が伸び、花が咲き、見る見る果実が実る。
そういう、奇跡のような光景を、アンジェリカ以外は感慨もなく眺めていた。
魔法の行使を終えると同時に、アンジェリカは倒れ込んだ。喉の奥の違和感に咳き込めば、口を押さえた手にべったりと血がこびり付く。
一方で農家の男は、アンジェリカが修復したばかりの畑にずかずかと入り込んだ。実った茄子の様子を確認してから、ちらりとディーンに視線を向ける。
「やぁ、すっかり実りましたな。ありがとうございます」
男が礼を言ったのは、魔法を使ったアンジェリカではなく隣で立っていただけのディーンだった。そしてディーンも、男からの礼を当たり前のように受け入れている。
「人びとの困り事に対処するのは、貴族として当たり前のことです」
得意げにそういうディーンを、アンジェリカは霞む視線で見上げた。
愛する、男だった。ちょっと抜けていて、でも王太子として色々な努力をしている、何よりも優しい男だった。
そういう、本来の婚約者である公爵令嬢から奪い取ってまで婚約にこぎ着けた、アンジェリカが愛したはずのディーンに覚える違和感を、アンジェリカは今日も振り払った。
血で汚れた手と口元をハンカチで拭って、ディーンと農家の男に微笑みかける。
「畑がお戻りになられたようで、よろしゅうございました」
「でもなぁ……」
農家の男が、アンジェリカに渋い顔をする。
「去年あんたが魔法を使ったときは、もっと立派な茄子が実っただろう。またあれくらいできないのか」
無理だ。アンジェリカは今日だけでもう四回も広大な畑を復活させているし、そういう日がもう二週間も続いている。
拒否しようとしたアンジェリカよりも早く、ディーンがアンジェリカに話しかけた。
「何とかならないかな、アンジェリカ。僕たちは未来の国王夫妻として、国民の困り事には応えなくてはいけないからね」
「ディーン、様……」
アンジェリカが言葉を続けるよりも、体力の限界が来る方が早かった。ぐらりと視界が揺れる。
霞むアンジェリカの視界に、ディーンの焦った顔が見えた。
それからアンジェリカが目覚めたのは、なんと三日も経ったあとだった。いつの間にか移動させられていた大病院の寝台の横では、ディーンが椅子に座ってうたた寝している。
アンジェリカが目覚めるまでの間、ディーンが見舞いにきていたらしい。ディーンの端正な横顔を、アンジェリカはそっと撫でた。
色々と気が利かないのは事実だ。アンジェリカが未来の王族としての勉強をそれなりに修めた頃から、本来であればディーンが行うべき政務もアンジェリカが肩代わりするようになっている。
それでも、ディーンの優しさを知っているから、アンジェリカはディーンを愛することを辞めることができなかった。アンジェリカの魔法力に眼をつけた公爵家の老翁に無理やり娶られそうになったアンジェリカを、誰よりも怒り守り一緒に戦ってくれたのはディーンである。
何よりも、アンジェリカとディーンは愛し合っている。アンジェリカとディーンの間には色々な問題があるけれど、愛があればきっと乗り越えられるとアンジェリカは信じていた。
そうしているうちに、ディーンは眼が覚めたらしい。アンジェリカと眼が合って、恥ずかしそうに微笑んだ。
そうしてディーンは、アンジェリカに言うのである。
「倒れるだなんて大袈裟だよ、アンジェリカ」
「……」
言葉を失うアンジェリカに、何でもない顔でディーンが続ける。
「そうやってか弱いアピールしたいのかも知れないけれど、逆効果だからね。王族ってのは大変なんだから」
「で、ですがお医者様が、あまり連続で莫大な魔法を行使するのは体に良くないと……」
「王族である僕よりも、医者を信じるって言うのかい?」
当たり前のように言われてしまえば、アンジェリカは口を噤むしかなかった。両親が事故で亡くなるまでは田舎の村で平和に暮らしていたアンジェリカは、実のところこの王国の身分制度というものがどれほど厳密なものなのか理解できていない。
それでも、アンジェリカは言い返した。何も言い返さずにはいられなかったからだ。
「王族であるあなたが、専門家であるお医者様よりも多くの医療知識を持っているのですか?」
途端にディーンは、ひどく冷たい顔をした。振り返って控えていた騎士に声をかける。
「《聖女》アンジェリカは頭に血が上っているようだ。少し頭を冷やさせてやれ」
「えっ……」
ひどく事務的に、騎士たちがアンジェリカの腕を取った。無理やり立たされて、アンジェリカが悲鳴を上げる。
「お待ちください……お待ちください、ディーン様!」
そうしてアンジェリカは、ひどくあっさりと、体調も整わないまま牢に入れられることになったのだ。
ろくな治療も受けられないまま病院から退院させられてしまったので、アンジェリカは生死の境を彷徨うことになる。その間、アンジェリカはずっと、ディーンと出会った頃の夢を見ていた。
アンジェリカは、田舎の平和な村で生きていた。王都に来たのは、両親が事故で亡くなったからだ。
優しかったはずの村人たちは、両親が亡くなった途端に様子を変えた。魔力の大きさに体が追いつかず体調を崩してばかりであり、体力がなく力仕事の一つもできないアンジェリカを疎み始めたのだ。
そうして村の権力者に無理やり嫁がされそうになったアンジェリカは、やむを得ず王都に逃げ出して子どもでも稼げる仕事を探すことになる。そこで、魔力の大きさを見いだされて王立学園に放り込まれたのだ。
王立学園の貴族たちは、アンジェリカに冷たかった。
場違いな田舎娘が来たと疎まれたのだ。王立学園には平民の子どももいたけれど、彼らだって爵位を持たないだけでそれなりの家柄の子どもばかりだった。
それでいて、アンジェリカは賢かった。入学して早々に学年の一割に食い込む成績を取り、すぐに同級生たちを追い越して高位貴族の令息令嬢たちに並ぶようになった。
なぜアンジェリカがこれほど賢かったのか、アンジェリカ自身にも判らない。ただアンジェリカが、両親の教育方針によって田舎娘には見合わないほどの作法と教養を備えていたのは事実だった。
そのうち学年順位が一桁の前半に入るようになり、これで認められるとアンジェリカは浮かれたけれど、現実は厳しかった。田舎の平民出身の小娘が下手に目立ったことが不味かったようで、いよいよ本格的に嫌がらせが始まったのだ。
そういうときに、助けてくれたのがディーンだった。アンジェリカが嫌がらせを受けていると間に入り、アンジェリカが私物を壊されたり捨てられたりしたら援助してくれた。
追い詰められたところを救い上げられたアンジェリカは、あっという間にディーンを好きになった。そのときにはディーンは公爵令嬢の婚約者がいたのだから、良くないことだとは判っていたけれど愛してしまった。
愛していたから、アンジェリカはディーンのために惜しみなく魔法を使った。人びとが困っているから助けてくれと言われて、請われるままに魔法を使った。
愛さえあれば何ごともどうにかなると、アンジェリカは本当に信じていたのだ。
「ディーン様……」
牢の中でアンジェリカの心が折れそうになると、ディーンが顔を出した。
「あなたが牢に入ってしまったから、僕は困っているんだ。ほら、色々と仕事を任せていたでしょう?」
そう言われたから、アンジェリカは牢の中でも仕事を引き受けた。ディーンの役に立ってさえいれば、ディーンから愛し続けて貰えると思い込んでいたからだ。
アンジェリカはただ、愛して欲しかった。ディーンに、ディーンから、何よりも、世界よりもアンジェリカを愛して欲しかったのだ。
だってアンジェリカの両親は、もう死んでしまったから。アンジェリカを何よりも世界よりも愛してくれていた両親は、もうこの世にいない。
幼い頃に両親を喪ったアンジェリカは、どこかで愛に飢えていたのかも知れなかった。
そういうアンジェリカの牢に、思わぬ客が訪れる。ディーンの元婚約者である公爵令嬢だった。
「もうお止めなさいな」
公爵令嬢は言った。彼女の瞳に怒りはなく、ただ哀れみがあった。
「あなた、王太子殿下との婚約を解消してわたくしの妹になりなさい。強大な魔法力を持つあなたを、公爵家が上手く守って差し上げます」
思いがけない提案に、アンジェリカは呆然とした。ほとんど自失して、公爵令嬢に問いかける。
「わ、わたしが、わたくしが、……ディーン様の婚約者でなくなったら、次の婚約者は誰になるのですか」
「さて、他の誰ぞが王太子妃になるでしょう。わたくしは既に別の方と婚約を結んでしまいましたが」
「だ、駄目です!」
アンジェリカは悲鳴のような声を上げた。
「それは、嫌です。頑張ります。もっと頑張ります。だから、ディーン様のことは、誰にも渡したくない」
そういうアンジェリカを、公爵令嬢は、ひどく哀れんだ視線で見た。
「殿下にもう少し頼り甲斐があったら、愛だけでどうにかなったのかも知れませんわね」
「頼り甲斐がなくたって、殿下はお優しいです! わたくしを愛してくれます! わたくしには、それだけで十分です」
うーん、と公爵令嬢は首を傾げた。
公爵令嬢はアンジェリカが前に見たときよりも、随分と気安くて、無邪気な様子だった。未来の王太子妃という立場ではなくなったからかも知れなかった。
「あなたには、後ろ盾がございませんでしょう。平民の娘を妃にするのであれば高位貴族家に養子入りさせるべきだったのに、殿下はそれをなさいませんでしたから」
公爵令嬢の口調は軽かった。本当に、婚約が解消されたことをどうでも良いと思っているのだ。
「それでは、良いように使われてしまいますわよ」
二人の問題を見ていたように言い当てられて、アンジェリカはぎくりとした。
「あの王太子殿下はそういう方ですから。妃の後ろ盾に何かしらの高位貴族家がいれば、殿下に対して睨みを利かせられるのですけれどね」
「わ、わたし、わたくしが……、頑張ります。何とかします」
「何ともなりませんわよ。あれは殿下の根っからの性格だもの」
ころころ、と公爵令嬢は笑った。
「殿下と婚約を解消して、新しい殿方と婚約して、しみじみと思いましたわ。殿方には頼り甲斐というものが必要なのよ」
すっ、と公爵令嬢は立ち上がった。言いたいことを言い終わったのだろう。
「気が変わったなら、いつでも連絡しなさい。わたくし、あなたを妹と呼ぶのを楽しみにしているわ」
さて、それからしばらく経ち、アンジェリカは牢から出されることになった。皮肉なことに、しばらく魔法を使わなかったことで、アンジェリカの体調はずいぶんと安定していた。
「元気になったようで、良かったよ」
ディーンはにこにこと上機嫌だった。
「じゃあ、次に行って貰いたい町があるんだけど」
そう言ったディーンが口にした町の名前に聞き覚えがあったので、アンジェリカは唖然とした。
「そ、その町は、わたくしが三週間ほど前に訪れた町ではありませんか?」
「そうだよ、また被害が出たらしくてね」
「それでは、キリがありません」
アンジェリカは懇願した。
「周辺国では、魔物の個体数管理のために騎士や兵士を多めに雇ったり、冒険者の育成を国を挙げて支援したり、魔物避けや柵の開発に力を入れているようです。わたくしだっていつまでも元気とは限りませんし、わたくしが一時凌ぎをしている間に、何かしら次の手を打つべきです」
自分の対応が一時凌ぎに過ぎないことは気づいていたので、アンジェリカは色々と調べていたのだ。
そもそも魔物の個体数が増えたのも、しばらく戦争が起こっていないことで兵力が解体され、同時に魔物に対応出来る騎士や兵士が減ったのが原因だった。魔物に対応出来る人間が減ったことで、この王国ではじわじわと魔物が勢力を増したのだ。
恒久的な対策を考えるのであれば、個人の力に頼るのではなく、組織の体制を整えるべきだ。そう訴えるアンジェリカに、ディーンが曖昧に微笑んだ。
「もちろん、判っているとも。ただ、お金がかかるからね」
「わたくしが対応を始めてから数年が経ちますが、食糧自給率は以前より三割ほど向上したと聞いております。少しでも良いのです、浮いたお金を魔物対策に回せませんでしょうか」
ディーンが面倒くさげな顔をする。その顔が、アンジェリカを牢に放り込む直前ととてもよく似ていたので、アンジェリカはびくりとした。
「煩いなぁ、アンジェリカがいるんだから良いでしょう?」
取り繕うように言って、ディーンが手を挙げる。また騎士が動くかとアンジェリカは怯えたが、ディーンの近くには補佐官が近づいただけだった。
ディーンが補佐官に何ごとかを命令する。すぐにアンジェリカに向き直って、ディーンは微笑んだ。
「さぁ、予定通り町に行こう。アンジェリカが動けなかったから、色々と予定が滞ってしまったんだ。安心して、僕もついていくよ」
あなたがついてきて、何の意味があるのだと言いかけた言葉を、アンジェリカはそっと飲み込んだ。
アンジェリカの体調は以前に比べて随分と回復していたので、動物や魔物に荒らされた広大な畑の復活は恙なく行われた。やはり町の人びとは、アンジェリカではなく王太子であるディーンに感謝の言葉を述べた。
ホテルに戻ってから、ディーンが思いついたように言った。
「そうだ、この町は少し先に有名な湖があるらしいよ。行ってみようよ」
一度、アンジェリカはディーンの言葉を聞き逃した。回復したとは言えまた莫大な魔力を消費したので、アンジェリカは疲れていたのだ。
だからアンジェリカは、薄らと微笑んで首を振った。
「いいえ、ディーン様。わたくしはホテルで休んでおります。どうぞ、お一人でお楽しみくださいませ」
「え、嫌だよ。アンジェリカがいなくちゃ詰まらないじゃない」
ディーンはすでに決めたらしい。勢いよくソファから立ち上がった。
「ディーン様、わたくしは疲れておりますから」
「ちょっと魔法を使っただけでしょう? 大丈夫、大丈夫。大袈裟だよ」
ディーンが顎で命じれば、騎士がアンジェリカの腕を掴む。
途端にアンジェリカは硬直して、抵抗することができなくなった。騎士に牢に放り込まれたときに、折れるかと思うほど強く腕を掴まれたのを思い出したのだ。
何も言えないアンジェリカを引きずるようにして、ディーンは上機嫌で馬車に乗り込んだ。
湖に向かう道中で、ディーンは調子良くあれこれと話しかけた。アンジェリカは馬車の揺れによる吐き気と戦っていたので、ほとんど何も反応ができなかった。
そうすると、ディーンが鼻を鳴らす。
「どうしたの、ちょっと無理に連れてきちゃったから怒ってるの? そうやって不機嫌になって他人に気を使わせようとするのは止めたほうが良いよ、もう大人なんだから」
そういう言葉を、アンジェリカは聞き流した。かき混ぜられたようなアンジェリカの脳内では、牢の中で聞いた公爵令嬢の言葉が何度も回っていた。
湖に着けばディーンは、ぐったりとしたアンジェリカを引きずり回すようにして散歩を始めた。アンジェリカはどうにか笑顔を保っていたが、頭の痛みと気持ち悪さと靴擦れした足の痛みと戦っていた。
アンジェリカが生返事になる度に、ディーンが不機嫌に声を低くする。
「ちょっとアンジェリカ、聞いてる? ひとの言葉を無視するだなんて、見苦しいから止めた方が良い。僕はアンジェリカのために言っているんだからね」
そんな言葉は、すでにアンジェリカの耳には入らなかった。疲労のあまり耳鳴りし始めたので、アンジェリカには何も聞き取れなかったのだ。
ただ、ディーンが機嫌を損ねたのは判った。
ディーンが機嫌を損ねれば、また牢に入れられるかも知れない。だからアンジェリカは、ディーンに対して精一杯上機嫌に見えるように微笑んだ。
けれどアンジェリカの顔色は紙のように真っ白だったし、足は限界だった。いよいよアンジェリカは立ち止まった。
「どうしたの、アンジェリカ? 大丈夫かい?」
アンジェリカの愛した、ひどく優しく、気遣わしげな声で、ディーンが問いかける。アンジェリカは吐き気ごと何度も唾を飲み込んで、ようやく声を出した。
「ごめんなさい、頭と、足が痛くて……、どこかで座りませんか」
「僕だって歩いて疲れてる、アンジェリカだけじゃないんだよ」
おそらくそんなようなことをディーンは言ったけれど、アンジェリカには聞き取れなかった。
せめてもと、その場で地べたにハンカチを敷いて靴を脱ぐ。ハンカチ越しに石やら枝やらの感覚があって痛かったけれど、それでも靴を履いたままになっているよりマシだった。
いきなり靴を脱ぎ始めたアンジェリカに、ディーンは随分と驚いたようだ。
「ちょっと、何をしてるの? はしたない、これだから平民は作法がなっていないな」
ディーンが何を言っているのか、アンジェリカには判らなかった。ただ、ガンガンと頭の中で音を鳴らされているような痛みと、吐き気で、その場で吐き戻さないようにするだけで精一杯だった。
訳が判らないまま、どうにか口にする。
「先に、……先に、行ってくださいませ」
「また気分が悪いフリかい? そうやって他人の気を引こうとしないで――」
ディーンの言葉が途切れた。アンジェリカは言葉は聞き取れなかったけれど、ディーンが口を噤んだのには気づいた。
どうにか顔を上げて、ディーンを見る。ディーンの視線を追って振り返る。
二人の後ろには、二十人ほどの帝国騎士たちが並んでいた。
「ぇ、……」
アンジェリカは一瞬、体調不良も忘れた。騎士の中央から、一人が進み出る。
そして男は、ひどく美しい礼をした。
「ご機嫌よう、アンジェリカ様。お迎えに上がりましたよ」
途端にディーンが、アンジェリカを睨みつけた。
「何だ、お前が帝国騎士たちを引き入れたのか! 酷い裏切りだぞ」
「ち、違う、違います……!」
慌てて、アンジェリカは否定した。帝国の男が、二人を興味深く見守っている。
「皇帝陛下が、アンジェリカ様をご所望です。抵抗するようであれば、力尽くでもお連れさせて頂きます」
とたんにアンジェリカは、真っ青になった。アンジェリカには何一つ心当たりがなかったし、この大陸で帝国がどれほど絶対的な権力を持っているのかも知っている。
あまりの恐ろしさに、アンジェリカは震えだした。
「デ、ディーン様……」
明らかに眼に見えるほど震えながら、アンジェリカはディーンに縋りついた。
アンジェリカは植物魔法が得意ではあったが、彼女自身の性格もあって攻撃的な魔法はほとんど使えない。何よりも植物と相性が良いぶん、アンジェリカは血や戦闘行為というものと極端に相性が悪かった。
そして、帝国の貴族たちというのは魔法力の強さで知られている。王国の騎士たちとて当たり前に魔法が使えるが、帝国の騎士は一人で王国の騎士二十人をあっさりとなぎ払うのだという。立っているのもやっとなほど体調の悪いアンジェリカがどうこうできる相手ではなかった。
一方でディーンは、攻撃魔法の鋭さで知られている。アンジェリカの《聖女》としての仕事に王太子であるディーンが同行するのは、交渉の他に護衛の役割もあった。
このところ問題が出てきてはいたけれど、ディーンは優しい男だ。そして何よりも、自分たちは愛し合っている。
だからアンジェリカは、ディーンに縋りついたのだ。きっと守ってくれると、アンジェリカは信じていた。
そしてディーンは、――そんなアンジェリカの腕を、あっさりと振り払った。
元々の体調の悪さもあって、アンジェリカは倒れ込む。ほとんど四つん這いになって見上げたディーンは、すでに何歩か後退したところだった。
「冗談じゃない、帝国の騎士なんかとやり合えるか! おいお前たち、僕を守れ!」
王太子であるディーンとその婚約者であるアンジェリカには、大勢の護衛がついていた。その数は、およそ四十人。
その四十人が、王太子ディーンの命令に従ってディーンを守るように取り囲んだ。座り込んだままのアンジェリカのことなど、最初からいないように。
「ディーン様……?」
呆然と見上げるアンジェリカと、ディーンの眼が合った。
ディーンの眼に、迷いはなかった。罪悪感も、痛痒もなかった。
ただ、当たり前みたいに。自分自身が正義であると疑わない表情で。
「なんだ、ちょっと魔法が得意なだけのただの平民と、王太子である僕の価値が同じだなんて思うな!」
四十人の護衛のうちの誰一人として、アンジェリカの元には残らなかった。ろくに戦えもしない女が、たった一人で二十人の帝国騎士の元に残される。
それを、アンジェリカは、呆然と眺めていた。
脱力して、立ち上がることもできなかった。胸のうちに渦巻いているのが怒りなのか、絶望なのか、それすらも判らなかった。
ディーンを愛していた。本当に本当に愛していた。良くないことだと理解しながら、それでも愛してしまった。
そういう、アンジェリカの恋が。気づかないうちにもう随分と傷ついて、ひび割れて、それでもアンジェリカが大事に大事に抱え込んでいた、恋が。
このときに、本当に決定的に、アンジェリカの恋は壊れて砕け散ったのだった。
そういう、アンジェリカを、帝国の騎士たちが随分と気の毒げに眺めていた。誰一人として剣に手も添えなかった。
中央の男が咳払いして、アンジェリカの正面に回り込んだ。
「あぁー……アンジェリカ様。いいや、アンジェリカ」
男から手を伸ばされて、アンジェリカはびくりと震えた。王国の騎士たちから乱暴に扱われたことを思い出したのだ。
そろりと触れた男の手は、思いがけず優しく、温かかった。
「わたしは、あなたの兄だ。正確には従兄だけど……、多分、本当に兄になることになる。迎えに来たよ、アンジェリカ」
そうしてアンジェリカは、あれよという間に帝国に迎え入れられることになる。
もしや捕虜として酷い扱いを受けることになるのではないかと思っていたアンジェリカは、随分と拍子抜けすることになる。アンジェリカは帝国のシーグローヴ侯爵家のご令嬢として扱われたのだ。
正確にはアンジェリカは、いまの侯爵の姪らしい。侯爵の妹が、アンジェリカの母なのだそうだ。けれど数日もしないうちに、養子縁組の手続きをしたのでアンジェリカは正式にシーグローヴ侯爵令嬢になった。
シーグローヴ侯爵家の人びとは、会うなりアンジェリカを抱きしめた。
「迎えに行くのが遅れてごめんね、アンジェリカ」
両親が亡くなって以来、久しぶりに触れた家族の熱は温かかった。
それはアンジェリカの求めていた、絶対的な、何よりも大切な、裏切らない愛だった。だからアンジェリカは落ち着いてしまって、すとんとディーンに興味を失ってしまったのだ。
聞けばアンジェリカの母は、帝国で災害に巻き込まれて行方不明になったのだという。シーグローヴ侯爵家が探し出したときには、アンジェリカの母は記憶を失い、カッセルズ王国で一人の男に恋をしていた。
その男が身分は持たないながらも誠実で、それなりに裕福で、何よりもアンジェリカの母を本当に愛し抜いている男だったので、シーグローヴ侯爵家は無理にアンジェリカの母を連れ戻すことはしなかったのだ。彼女が幸せならばそれで良いと考えたらしい。
そしてアンジェリカの母は恋した男と結婚し、アンジェリカが生まれた。シーグローヴ侯爵家は、アンジェリカの夫伝いに記憶を失ったままのアンジェリカの母と何も知らないアンジェリカに支援をし続けた。
アンジェリカの母の記憶は最後まで戻らなかった。けれど貴族令嬢として学んだ知識や作法はそっくりそのまま覚えていたので、アンジェリカの母は手間暇を惜しまずアンジェリカを教育したのだ。
「アンジェリカの父は、わたしたちが接触して初めて自分が妻にした女性の正体を知ったようだ。平民の女性を妻にしたつもりでいたらしい。彼は実のところ、マクパートランド王国の元第二王子でね」
いきなり魔法大国として知られた王国の名前が出てきたので、アンジェリカはぎょっとした。
アンジェリカの父は、第二王子でありながら下手に優秀だったので、次期国王に祭り上げられるところだったのだ。そしてそのために、仲の良い兄である第一王子の命が危険に晒されていた。
そういった事情で、政争を嫌って早々に王族籍から離れた男だった。それからは第一王子からの依頼をこなしながら、魔法の才能を生かして旅をしていたらしい。
そうやってマクパートランド王家とシーグローヴ侯爵家は、三人の家族を見守っていた。事情が変わったのは、両親が事故で亡くなったからだ。
密かに調査されたが、事件性のない純然たる事故だった。そうして一人になったアンジェリカが魔法の才能を見いだされてカッセルズ王国の貴族社会に関わり、王太子との婚約に至るまでを様子見していた。
「アンジェリカがそのまま幸せになってくれるのであれば、我々は関わらないつもりだったんだ」
ところが、アンジェリカの血筋を知らないカッセルズ王家や貴族たちはアンジェリカを軽んじ始めた。無理な魔法の使用を強要し、その功績を認めずに侮り続けた。
決定的なのが、カッセルズ王国が戦争の準備をし始めたことだ。
「カッセルズ王国の西に、小さくて豊かな王国があるだろう。右を見ても左を見ても羊を育てている国民しかいないような、あの長閑な王国だ」
カッセルズ王国の兵力は、それほど強くない。けれど戦い慣れない小さな王国であれば、簡単に相手取れると考えたのだ。
その話を聞いて、アンジェリカは真っ青になった。
「し、知りませんでした……」
「それはそうだろう。アンジェリカが植物魔法を使ってくれなくなったら、カッセルズ王国は困るだろうからね」
アンジェリカが王国の食糧自給率を上げたことで、王国は以前ほど食糧事情を心配する必要がなくなった。そうして生まれた予算で、王国は農業への支援ではなく戦争の準備を始めたのだ。
「そんな……、お金さえかければ、カッセルズ王国の農業の状況はもっと改善するのに!」
「まぁ、地道な支援はお金がかかるからね」
だから、と義父になったシーグローヴ侯爵は締めくくった。
「大切なアンジェリカを、戦争の一端などに関わらせるわけにはいかない。だから皇帝から許可を取って、アンジェリカを迎えに行ったのさ」
そういう、話を聞いて、アンジェリカはしばらく呆然としていた。
それからアンジェリカはしばらくの間、ただぼんやりと昼近くまで寝て、そのあとも寝台で転がっているだけの生活を繰り返した。
メイドたちが毎食持ってきたし家族からも食堂に誘われたが、アンジェリカはほとんど何も食べなかった。ただ、今までの自分の行いについて考えていた。
アンジェリカは、ディーンを愛した。愛して、愛して、愛したから、本来の婚約者である公爵令嬢がいることを知りながらディーンと仲良くするのを止めなかった。ディーンと婚約したときには舞い上がるような気持ちだった。
ディーンを愛していたから、幾らでも魔法を使った。勉強は楽しかった。明らかにおかしな量の政務を押しつけられても黙ってこなした。貴族たちからどれほど嫌がらせをされても、殺されそうになっても、ディーンの前で笑っていられた。
全部、全部、ディーンを愛していたからだ。
そしてそのディーンへの愛で、王太子の婚約を壊してしまった。どれほど力を尽くしても人びとには感謝されず、挙げ句に王国を戦争に導きかけた。
はは、とアンジェリカは笑った。
「……わたし、何やってたんだろ」
アンジェリカは、何度もディーンからの仕打ちを夢に見た。特にディーンから見捨てられた瞬間の場面などは、もう嫌というほど夢に出てきた。
そうやって憔悴していくアンジェリカを、繰り返し訪れる男がいた。
不敬にも、アンジェリカはその男を寝転がったまま出迎えた。
「……わたしに利用価値なんかありませんよ。《聖女》の看板は下ろしましたから」
ひどく攻撃的な声で、アンジェリカは言い放った。冷え冷えとした視線を向けられても、男は動じなかった。
男は帝国の第二皇子で、名をマイルズ・ヘーゼルダインと言った。
「嫌だなぁ、利用しようとなんてしてないさ」
「じゃあ何です?」
それ以外にないだろうと言わんばかりのアンジェリカに、マイルズは噴き出すように笑って言った。
「実は一時期、名前を変えて王国の学園に通っていてね。噂のシーグローヴのお姫様がどんなものか、興味があったんだ」
「……じゃあ、とんだ馬鹿女で幻滅したでしょう」
「まぁ、馬鹿なのは事実だね。男を見る眼がない、男運が悪い」
あっけらかんと言い切ってから、マイルズは片目を瞑って見せた。
「でも、わたしはあなたが好きだよ。だから、わたしなんかどうだい。少なくとも、ディーンなんかよりはよっぽど頼りになると思うけど」
アンジェリカがじっとりと睨みつければ、マイルズが参ったというように両手を上げる。
「信じてないでしょう。きみは自分で気づいていないようだけれど、元マクパートランド第二王子と元シーグローヴ侯爵令嬢からの教育があったからと言って、平民として生きてきた女の子が王立学園であれだけ追い上げるのは驚異的だよ。何度か主席も取っていたでしょう。翌日に差し向けられた何人かの暗殺者から守ってあげたのはわたしだけど、気づいてなかったね」
「それは……」
気づいていなかった。途端に刺々しい態度を取っていたのが気まずくなって、アンジェリカは寝台の上に座り直した。
「ありがとう、ございました……」
「やぁ、不満そうだ」
くすくすと笑ってから、マイルズは声音を改めた。
「きみは努力していたね。毎日毎日、〇時を過ぎるまで寮の部屋に明かりが点いていた。血管が切れて腕が血だらけになるくらい、何度も何度も繰り返し魔法を練習していたのも知っている」
「……どうして知っているのですか」
「ちょっと、引かないの! 言ったでしょう、最初から君に興味があったんだって」
ごほん、と少々大袈裟に咳払いをして、マイルズはぴんと人差し指を立てた。
「きみの大好きな、真実の愛だよ。どうしても信じられないならば、政略ということにしても良い。どちらも身分を失っていたとはいえ、マクパートランド王国の元第二王子とシーグローヴ侯爵家の元ご令嬢の間に生まれた子どもなら、わたしにとっても十分以上に価値がある。シーグローヴ侯爵家はもちろんだけど、マクパートランド王国の国王も、きみに会いたがっていまは一生懸命に仕事を片付けているところだよ」
政略と言われて、アンジェリカはディーンの元婚約者であった公爵令嬢を思い浮かべた。
ディーンと婚約していたときも、婚約を解消したあとも、公爵令嬢は一貫してディーンに必要以上の興味はないようだった。そしてディーンも、公爵令嬢に興味がなかった。
嫌っていたわけではない。婚約を嫌がっていたわけでもない。ただ、お互いに興味がなかったのだ。
アンジェリカの中で政略と言えば、そういう印象だった。だからアンジェリカは、ぐっと唇を曲げた。
「……わたし、結婚するなら本当に愛するひととが良いわ」
「あはは、あれだけ痛い目に遭っているのに、そこは曲げられないんだ」
マイルズは心底おかしげに笑ってから、アンジェリカに手を差し出した。
「良いよ、じゃあここから恋を始めよう。わたしはもうきみに恋をしているから、あとはきみがわたしに恋をするだけだ」
マイルズから差し出された手を、アンジェリカは微妙なものを見る眼で見下ろした。
しばらく経ったところで、マイルズは強引にアンジェリカの手を取った。無理やりぶんぶんと手を振って、にこりと笑う。
「はい、契約成立! とりあえず婚約は仮ってことにしておこうか」
「……いま、この瞬間に判ったわ。わたし、あなたを好きにはならない気がする」
アンジェリカの物言いに、マイルズはやはり、本当に面白そうに笑ったのだった。
アンジェリカの予測に反して、アンジェリカは思ったよりもあっさりとマイルズに好意を持つようになる。それは最初の印象とは違って、マイルズが気遣いのできる男だったからだ。
マイルズは魔力が極端に大きいために体調を崩しやすいアンジェリカの不調にいち早く気づき、彼女に無理をさせないようにあちこち手配をした。それだけのことであっさりと絆される自分が情けなくて、アンジェリカはたびたび唇を曲げていたという。
ちなみにアンジェリカがマイルズと正式な婚約を結ぶまでの間に、ヘーゼルダイン帝国にはカッセルズ王国から繰り返し《聖女》アンジェリカの返還要請が届いた。これを帝国は、シーグローヴ侯爵およびマクパートランド国王とアンジェリカの血縁証明書付きで突き返した。
この数年でアンジェリカの魔法に頼り切りになっていた王国は、アンジェリカがいなくなったことでアンジェリカが《聖女》になる前よりも何倍もの食害の被害を出したらしい。これによってアンジェリカは、王国に災厄を齎す魔女だったのだとひどく忌み嫌われているそうだ。
そういう、もろもろを、アンジェリカは知らなかった。これ以上アンジェリカが傷つく必要はないと、周囲が徹底的に情報を遮断したからだ。
落ち着いた頃合いに、アンジェリカはシーグローヴ侯爵家の長男から婚約者を紹介されて驚くことになる。それは例の、ディーンと婚約していた公爵令嬢だったのだ。
あら、と公爵令嬢もアンジェリカと同じく驚いてから、くすくすと笑った。
「本当に姉妹になったわね」
ちなみにアンジェリカが、その奇跡のような植物魔法を行使したのは、その後の人生ではただ一度だけ。カッセルズ王国から流れてきた二億の魔蝗によって帝国の田畑が何もかも食い荒らされた、有史以来最大級の大災害のときだけだった。
つ、疲れたー! 『肝心なときに逃げ出す男』って思いつきを形にしようとしただけなのにすっごい長くなっちゃった
ディーンに関しては、なるべく『ガチでそこらにいる無神経男』を目指しました。こういう男いるよね、って笑ってください
伽藍さんは昨日親知らずを抜いたので甚だしくテンサゲでございます。どうにも生え方が悪くて二進も三進も行かないらしく、お医者様に何度か『抜かないで何とかなりませんか』って訊いたけど駄目でした
歯医者にいるときって神に祈りますわよね。神に祈るのはだいたいお腹痛いときか歯医者で治療を受けているときです
【活動報告:20260927】
https://mypage.syosetu.com/mypageblog/view/userid/799770/blogkey/3714596/
【過去作品:作者ID+総合評価降順】
https://yomou.syosetu.com/search.php?userid=799770&order=hyoka




