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呼ばれない花嫁は、契約の言葉で公爵家を縛る  作者: swingout777


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9/20

定義から攻めなさい

 契約庁を出たとき、空が少しだけ低く見えた。

 雲が厚い。光が届かない。けれど足元は不思議と軽い。鍵を手に入れたからだ。扉を開ける鍵。公の場で言葉を通す鍵。


 馬車に乗り込むと、エイドがすぐ隣に座った。

 彼は私を見て、何かを言いかけて――止まる。


「……」


 沈黙が落ちる。

 沈黙はもう、私たちの敵ではない。沈黙の中で、私は思考できる。言葉を研ぐことができる。


「書記官、協力してくれる」


 私が言うと、エイドの眉が僅かに上がった。


「庁が動くのか」


「動く。ただし条件付き」


 私は、書記官の目の色を思い出しながら言った。疲れた目。けれど死んでいない目。制度の中でしか動けない人間の、ぎりぎりの決意。


「公式の場が必要」


 エイドの拳が、膝の上で硬くなる。


「更新儀式」


 彼が呟いた。

 公爵家がちらつかせた言葉。三日という期限。


「そう」


 私は頷いた。


「公爵家が“安定化”って言ってるあの場。あそこなら、定義条項の矛盾を“公式に”示せる。庁は、それを手続きに落とし込める」


 エイドは窓の外を見た。

 王都の通りが流れていく。誰も私たちの戦いを知らない顔で、買い物をし、笑い、怒っている。平然とした日常が、逆に私たちの異常を際立たせる。


「行けば……お前が」


 また、お前。

 でも今は責めない。彼は必死だ。名が出ないことを、彼自身が一番苦しんでいる。


「名が、消える」


 彼はやっと言った。

 “名”という単語だけを掴み、必死に口に出した。

 それが精一杯の、抵抗だ。


「行く」


 私は即答した。


「だからこそ、行く。追い込まれた場所で、逆に裁く」


 馬車が屋敷へ着くまでの間、私は頭の中で順序を組み立てた。

 感情ではなく、手続きで刺す。

 相手が制度を盾にするなら、こちらは制度の“矛盾”で盾を割る。


 屋敷に戻ると、執事が玄関で頭を下げた。


「お帰りなさいませ、エイド様……そして」


 そこで止まる。

 やはり止まる。

 呼べないことが、屋敷の習慣になり始めている。呼べないことが“普通”になり始めている。


 私の喉がひりついた。


「ただいま」


 私が先に言う。

 自分で自分を屋敷に固定する。私がここにいる、と言葉で釘を打つ。


 執事はほっとしたように息を吐き、言った。


「……奥様。公爵家より再度、使いの者が」


 再度。

 嫌な予感が背骨を這う。


 応接間に通されると、公爵家の侍従が座っていた。背筋が真っ直ぐで、表情がない。

 表情がないのは礼儀のためではない。相手を“人”として扱わないためだ。相手を手続きとして処理するための顔だ。


「お時間をいただき感謝いたします」


 侍従は淡々と告げた。


「当家より、更新儀式の正式日程をお伝えに参りました。三日後、午前。遅刻は規定により不履行とみなされます」


 規定。

 不履行。

 言葉が冷たい。冷たいほど、従わせやすい。


 私は表情を変えずに言った。


「伺います」


 侍従の眉が僅かに動いた。

 抵抗しないのか、という驚き。

 抵抗すれば、抵抗した者として処理できるのに、という苛立ち。


「……奥様は賢明です」


 侍従は褒めるように言った。

 賢明。便利な言葉。従う者を褒め、従わない者を愚かと呼ぶための言葉。


 侍従が去ったあと、応接間に沈黙が残った。

 その沈黙を、エイドが割った。


「三日後……」


 彼の声は低い。

 期限が近いほど、名は削られる。

 公爵家はそれを知っている。知っているから期限を切る。追い込めば追い込むほど、相手は“奥様”に落ちていく。


 私は指先を握り締めた。

 黒紋が疼く。昨日より深い。文字に寄る速度が増している。

 まるで、更新儀式に向けて“準備”しているみたいに。


「……リュシア」


 突然、エイドが私の名を呼んだ。

 音が、落ちた。はっきりと。

 私は息を止める。信じられない。今、確かに聞こえた。


 けれど次の瞬間、エイドは顔を歪めた。


「今の……」


 彼は自分の口に触れた。

 出たはずの音が、彼の中から滑り落ちていく。記憶の上で、今呼んだことが薄れる。

 まるで、世界が「それは許さない」とでも言うように。


 私は静かに言った。


「呼べた。……まだ、残ってる」


 呼べた事実は、釘だ。

 まだ戦える釘。

 私はそれを胸に打ち込む。


 夜、私は書庫へ入った。

 父の覚え書きを開き、必要な箇所に付箋を貼る。定義。矛盾。受益者。提供者。無償。

 付箋が増えるたびに、戦いが形になる。


 その最中、薬指の黒紋がじわりと熱を持った。

 私は手袋を外し、指を見た。


 黒い線が、今度は明確に“文字の骨格”を作り始めている。

 まるで、私の名を構成する線だけを選び出し、そこに絡め取ろうとしている。


 恐怖が、喉の奥を冷やす。

 私は深呼吸し、震えを押し込めた。


「まだ渡さない」


 私は小さく言った。

 言葉にすると、少しだけ指が軽くなる気がする。契約が嫌がっているのか、私が抵抗しているのか。どちらでもいい。抵抗は、ここにある。


 翌朝、私は再び契約庁へ出向いた。

 書記官に必要書類の形式を確認するためだ。公の場で矛盾を示すには、形式がいる。形式は鎧だ。


 書記官は、私を見るなり、机の引き出しから用紙を出した。


「更新儀式に合わせて、照会の申請を同時提出してください。矛盾点の提示、論理の流れ、そして――」


 彼は言葉を切り、こちらをまっすぐ見た。名は呼べないのに、視線は逃げない。


「公に通すなら、“定義”から攻めなさい」


 その一言が、刃を研ぐ音みたいに響いた。


「相手は感情を嫌います。感情を“未熟”として処理します。だから、言葉の順番を間違えない。定義、適用、利益、矛盾。――その順です」


 私は頷いた。

 父の覚え書きと同じ方向。

 制度の中で刺すための道。


 書記官は最後に、低い声で付け足した。


「……間に合わなければ、更新されます」


 私は紙を受け取り、言った。


「間に合わせる」


 それは誓いだった。

 犠牲ではない誓い。対等として、選び直す誓い。

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