表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
呼ばれない花嫁は、契約の言葉で公爵家を縛る  作者: swingout777


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

8/20

通すための鍵

 赤線を引いた条項の上で、ペン先が乾いた。

 私はインク瓶の蓋を閉め、紙束を重ねた。視界の端で、エイドがずっとその赤線を見ている。まるで、そこに剣の鍔があるみたいに。握れば戦える、と信じている目だ。


 その夜、屋敷はさらに静かになった。

 静かというより――私を避けている。

 足音が遠回りになる。声が廊下の角で止まる。私が通ると、皆が「奥様」と言って頭を下げるのに、目だけが泳ぐ。呼べないのは、口だけじゃない。視線まで、私の名を避け始めている。


 夕食の席で、執事が献立を告げた。


「エイド様、本日は――」


 滑らかに出る。

 次に、私へ視線が移る。


「……」


 執事の口が開く。息が漏れる。音にならない。

 彼は一度だけ目を伏せ、やっと言った。


「……奥様」


 その呼称が落ちた瞬間、胸の奥がきしんだ。

 奥様は、私の名前じゃない。奥様は、私の代替だ。代替が定着すれば、本物は消える。


 私は箸を置き、エイドを見た。


「明日、契約庁へ行く」


 エイドが頷く。


「俺も行く」


 対等。

 その確認があるだけで、喉が少しだけ楽になる。


 その夜更け、私の部屋の戸が叩かれた。

 執事の声がする。


「……奥様。至急、お届け物が」


 届け物。

 嫌な予感が、背筋を冷やした。


 扉を開けると、執事は封筒を両手で差し出した。封蝋の色が昨日と同じ。公爵家の赤。

 私は受け取るだけで、薬指の黒紋が脈打つのを感じた。


 封を切る。


 中の紙は短い。短いほど、恐ろしい。


『安定化のため、契約更新の事前相談を。

 期限は三日。以後は、規定に従い手続きを進めます』


 相談。

 事前。

 それらしい言葉で包んだ脅迫だ。


 契約更新。

 あれをしたら、私は完全に“名を抹消”される。屋敷でも、街でも、エイドの記憶の中でも、私はただの空白になる。


 紙を握る指が強張った。

 私は深呼吸し、燃えるような怒りを押し込める。


「三日」


 口に出すと、余計に現実になる。


 エイドが背後から覗き込んだ。

 彼の顔が暗くなる。怒りの前に、恐怖が来る。自分が救われることで、私が失われる恐怖。


「行くな」


 彼が絞り出す。

 行くな、は私を守る言葉だ。でも、同時に私を“閉じ込める”言葉にもなる。私はそこに引っかかりたくない。


「行く」


 私は短く答えた。


「ただし、更新じゃない。裁きに行く」


 エイドの眉が僅かに寄った。

 裁き――その言葉は強い。強いけれど、それを“公の場”で通すには形がいる。形がない強さは、暴力になる。暴力になれば、相手は制度で潰す。


 だから必要なのは、鍵。

 公式手続きの鍵。

 契約庁の中で、言葉を「通す」ための鍵。


 翌朝、契約庁へ向かう馬車の中で、エイドが不意に言った。


「……昨夜、夢を見た」


「夢?」


 私が訊くと、彼は頷いた。


「誰かが名前を呼んでた。俺をじゃない。……お前を」


 また、お前。

 でも彼の声は必死だった。名を掴みたい声だ。


「呼びたかったのに、呼べなかった。……喉が、凍ったみたいに」


 喉が凍る。

 それは私も同じだ。名を言おうとすると、薄い膜が張る。破れない膜。


「まだ消えてない」


 私は言った。

 自分にも言い聞かせる。


「まだ戦える」


 契約庁の前は、相変わらず人が多かった。

 救済を求める人、更新に怯える人、取消を願う人。

 そして、その全員を等しく無表情で流す受付。


 私は受付で、短く告げた。


「契約書原本の閲覧と、定義条項の解釈に関する照会を」


 受付の役人が視線を上げる。

 その視線が私に触れた瞬間、口が止まる。喉が詰まる。

 やがて役人は、エイドの方へ向き直り、言った。


「……エイド様。照会の申請者は――」


 申請者は、私だ。

 なのに私へ向ける言葉がない。

 その事実が、怒りを呼ぶ。怒りは言葉にならないと、ただの熱になる。


 私は一歩前へ出た。


「申請者は私です」


 言い切る。

 自分の名を言えなくても、主語は言える。私はまだ「私」でいられる。


 役人の目が揺れる。

 だが彼は、機械的に書類を取った。


「……担当窓口へ回します。少々お待ちを」


 待合に通される。

 椅子に座った途端、私は自分の存在が薄いことに気づいた。

 周囲の視線が、私を通り抜けていく。見えているのに、見えないふりをする視線。

 視線というより、世界の習性が私を避けている。


 呼び出しがあった。


「……ええと」


 名前が呼ばれるはずの場面で、係員が詰まる。

 そして諦めたように言う。


「救済婚、エイド様の――同伴者の方」


 同伴者。

 私は歯を食いしばった。


 窓口の奥にいたのは、昨日と同じタイプの目をした書記官だった。

 疲れた目。だけど、完全に死んではいない目。

 私の持ってきた照会書を読み、眉を寄せる。


「定義条項の解釈照会……ですか」


 彼は言葉を選ぶように、ゆっくり言った。


「通常、この手の照会は……公爵家経由で来ます」


「でしょうね」


 私は微笑まずに返した。

 公爵家が握っているなら、庁が逆らう理由はない。逆らうのは損だ。庁は損をしない。


 書記官は紙束をめくり、目を上げた。


「あなたは……」


 口が止まる。

 名が呼べない。

 彼は一度咳払いし、続けた。


「……契約者の方ですね。契約者は、照会の権利を持っています。ただし」


 ただし。

 その「ただし」が鍵だ。


「公式の手続きで通す必要があります。感情論では通りません」


「分かってる」


 私は即答した。

 だからここに来た。


 書記官は少しだけ驚いたように私を見た。

 そして、机の引き出しから一枚の用紙を出した。


「定義条項に関する照会は、“矛盾”を示す必要があります。矛盾がなければ、定義は定義のまま。――力のある側のままです」


 矛盾。

 父の覚え書きにあった、循環の穴。提供者/受益者/無償。

 私は頷いた。


「示せる」


 書記官の眉が僅かに動いた。


「……示せるなら、こちらも動けます」


 動けます、という言葉が、思ったより強かった。

 この書記官は、ただの歯車ではない。歯車でありながら、歯車が噛み合う向きを選べる人間だ。


 私は、契約原本の写しを机に広げ、赤線を引いた箇所を示した。


「従属=無償提供。提供の対象が曖昧。受益者が“必要”と言えば何でも提供になる。――これ、定義として不健全。運用次第で無限に膨らむ」


 書記官は視線を落とし、紙の上を追った。

 指先が止まる。

 その止まり方が、私に確信を与えた。ここが穴だ。


「……確かに。対象限定がない」


 彼が小さく呟く。


「しかも受益者が利益を得る構造が固定されている。定義が、片側の利益を前提にしてる」


 私は息を整えた。

 ここからだ。ここで言葉を組み替える。


「だから、逆にできる」


 私は言った。

 声は静か。でも、芯がある。


「利益を得た側を“提供者”として定義すれば、同じ条項で縛れる。牢を作った側が、牢に入る」


 書記官の目が、はっきり私を捉えた。

 名は呼べないのに、視線は私を認識した。

 その瞬間だけ、私は“人”に戻った気がした。


 書記官は、ゆっくり頷いた。


「……通せます」


 短い言葉。

 それが鍵だった。


「ただし、公式の場が必要です。更新儀式、または公爵家立会いの審問。公爵家の言葉の上で、同じ言葉で裁く。そういう形になります」


 私は頷いた。

 まさに、私が望む形。


 私は立ち上がり、書記官へ頭を下げた。


「協力してくれますか」


 書記官は少しだけ逡巡し、そして言った。


「私は“制度”に従います。……ただ、制度は言葉でできている。言葉が矛盾しているなら、正すのも制度です」


 その答えは、十分だった。

 私は笑わずに、深く息を吐いた。


 鍵は手に入った。

 “通すための鍵”。


 廊下へ出ると、エイドが待っていた。

 彼は私を見て、何かを言おうとして――また止まる。


「……君の」


 名が出ない。

 でも今は、止まってもいい。鍵はある。次は“公の場”で、言葉をぶつける。


 私は小さく頷いて言った。


「行ける。ここ、逆にできる」


 自分の言葉で、もう一度確かめた。

 そして私は、薬指の黒紋が脈を打つのを感じながら、次の戦いへ歩き出した。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ