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呼ばれない花嫁は、契約の言葉で公爵家を縛る  作者: swingout777


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7/20

定義という牢

 公爵家の応接間を出たとき、私は背中の皮膚が少し軽くなった気がした。

 呼吸ができる。空気がある。――それだけで、人は救われた気になる。あの部屋は、そういうふうに作られていた。


 玄関ホールを抜け、門へ向かう廊下で、侍従が先導する。

 足音が響く。規則正しい音。規則正しい世界。そこから外れる者を、静かに排除するための音。


 私の横でエイドが拳を握っている。

 白くなるほど強く。

 怒りを飲み込んでいるのが分かる。飲み込むほどに、拳が硬くなる。


 門を出て馬車に乗り込むまで、彼は一言も喋らなかった。

 喋れば、怒りが溢れる。

 溢れた怒りが、彼の中の“自己犠牲”へ向かうのが怖いのだろう。怒りを制御できない自分を、彼は信用していない。


 馬車が走り出し、窓の外の景色が流れていく。

 公爵家の門が遠ざかり、王都の通りが戻ってくる。露店の声、子どもの笑い。生きている世界は、こちらの戦いを知らない。


 その瞬間、エイドが低く吐き出した。


「……ふざけるな」


 声は静かだった。

 静かすぎて、逆に怖い。怒りが燃え尽きたのではない。燃え広がる前の、酸欠の音だ。


「救ってあげた、だと」


 彼は言葉を噛む。

 唇の端が震えている。


「俺は確かに助かった。期限は止まった。……でも」


 そこで彼は詰まった。

 “でも、君の名が消える”と言いたいのに、言えない。

 怒りの矛先にするべきものが、言葉の手前で欠ける。その欠け方が、彼をさらに苛立たせる。


 私は、ゆっくり息を吸った。

 ここで彼の怒りを否定しない。

 否定したら、怒りは自罰へ向かう。


「うん。ふざけてる」


 私は同意した。

 同意することで、怒りが“外”へ向く道を作る。


 エイドが私を見た。

 目の中に、熱がある。熱があるのに、どこか怯えている。自分が熱くなるほど、失うものがあると知っている顔だ。


「“均衡”だとか言ってたな」


 彼は続けた。


「救われる代わりに代償がある。交換だ。……それは分かる。分かるが」


 拳が膝の上で震える。


「名を奪うのが均衡? お前が――」


 またそこで止まる。

 お前、という言葉が出たことが、彼自身を苛立たせた。名を呼べないからこそ、呼称が荒くなる。それが自分の心を壊すと知っている。


 私は目を閉じる。

 黒紋が手袋の下で微かに疼いた。まるで、今の会話を聞いているみたいに。


「均衡って言葉は便利だよ」


 私は穏やかに言った。


「均衡って言えば、何でも正当化できる。奪う側が“必要”って言ったら、奪われる側は黙るしかなくなる」


 エイドの喉が鳴る。

 彼は黙って頷いた。理解している。理解しているから、怒りが増す。


 私は、膝の上に置いた小さな包みをほどいた。

 父の覚え書き。あの黄ばんだ冊子。

 紙は軽いのに、重い。言葉が詰まっている。


「これ」


 私は冊子を差し出した。

 エイドが受け取り、表紙の文字を見て、目を細める。


「契約解釈……覚え書き」


「父の」


 私は答えた。


「あなたが怒ってくれてよかった。怒りは武器になる。……でも武器は、振り回すと自分を傷つける。だから、これで形にする」


 エイドは黙ってページをめくった。

 馬車の揺れに合わせて紙が擦れる。

 その音が、妙に落ち着く。世界が言葉に戻ってくる音だ。


 彼の視線が一つの箇所で止まる。

 眉が寄る。息が止まる。

 そして、ゆっくり読み上げた。


「『定義が曖昧な条項は、力ある者に都合よく運用される。しかし同時に、定義は“言葉の牢”でもある。牢を作った者は、牢の形で裁ける』」


 読み終えた瞬間、エイドが顔を上げた。

 目の奥の熱が、今度は“方向”を持っている。

 怒りが、刃の形から槍の形へ変わる。


「……裁けるのか」


 その問いは、私に向けられている。

 けれど同時に、彼自身へ向けた問いでもあった。

 救われるだけの人間で終わりたくない、という目だ。


「裁く」


 私は断言した。


「契約を破るんじゃない。破ればあなたの期限が戻る。だから、契約の言葉で、契約を縛る側を縛る」


 エイドが冊子をめくり、次の頁に目を落とす。


「『“無償提供”の対象は、受益者の利益を以て定義し直せ。利益を得た者を“提供者”とせよ』」


 彼はそこまで読んで、息を吐いた。

 ようやく息が、肺まで届いたみたいに。


「……公爵家が得た利益」


「名」


 私は言った。


「私の名を奪って、“奥様”に固定して、管理しやすくする。従わせやすくする。……それが利益」


 エイドの顎が硬くなる。

 拳が、今度は震えていない。固まっている。決意の硬さだ。


「なら、公爵家が“提供者”になる」


「うん」


 私は頷いた。


「“従属=無償提供”の定義がある限り、牢はそこにある。……作った人間が、その牢で裁かれる」


 馬車が大きく揺れた。

 外の道が石畳に変わったのだろう。揺れは増したけれど、私の心は逆に落ち着いていく。方向が定まると、人は揺れに耐えられる。


 屋敷の門が見えた。

 門番が頭を下げる。相変わらず、私を「奥様」と呼ぶことだけが、正確すぎる。


 客間に戻ると、私は公爵家で見た契約原本の写しを机に広げた。

 写しは、こちらが持ち帰れるように“許可”されたものだ。許可された時点で罠がある。だからこそ、罠を使う。


 私はペンを取った。

 手袋を外すと、黒紋が夕刻の光に濃く浮かぶ。

 文字に寄っている。私の名の形に。

 腹の奥が冷える。けれど今は、それを恐怖のままにしておかない。


 私は定義条項の箇所を開いた。


『従属者:受益者の指示に従い、無償で提供する義務を負う』


 私はそこに、真っ直ぐ赤線を引いた。

 躊躇なく。

 逃げ道を塞ぐように。


「ここが牢」


 私は言った。

 自分に言い聞かせる。エイドにも言い聞かせる。


「ここを、逆にする」


 エイドが、私の横で頷いた。

 彼はまだ私の名を呼べない。

 けれど今、彼は私の隣に立っている。それだけで十分だ。名を取り戻すのは、ここからだ。


 私は赤線の上に、小さく書き足した。


「――利益を得た者が、提供者」


 黒紋が、薬指で脈を打った。

 まるで、その言葉を契約が聞き取ったみたいに。


 私は息を吸い、心の中で自分の名を繰り返す。


 リュシア。

 リュシア。

 リュシア――


 赤線の引かれた条項が、まるで“次の戦い”を待っているみたいに見えた。

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