表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
呼ばれない花嫁は、契約の言葉で公爵家を縛る  作者: swingout777


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

6/20

救ってあげたのよ

 公爵家の門は、王都の空気と同じ色をしていた。

 灰色の石。金の縁取り。磨かれた鉄。すべてが「清潔」と「正しさ」を演出している。ここに来る人間が、罪悪感を抱かないで済むように。あるいは――罪悪感を抱く者を、自然に黙らせるために。


 馬車を降りると、足元の砂利が小さく鳴った。

 その音が、やけに大きく感じる。自分がここにいることを、世界に告げてしまうみたいで。


 エイドが先に降り、私へ手を差し出した。

 私はその手を取らない。取ってしまえば、私は守られる側に固定される。ここは戦場だ。私は“隣に立つ”ために来た。


 私は一人で降り、並んで歩いた。


 玄関前には侍従が控え、丁寧すぎるほど丁寧に頭を下げた。


「エイド様。……そして」


 侍従の視線が私へ移る。

 口が開く。音が落ちる前に、喉が詰まる。


「……奥様。ようこそお越しくださいました」


 奥様。

 また、その便利な札。

 私は笑顔を作らず、静かに頷いた。ここで反応すれば、相手の目的に飲まれる。


 通された応接間は、白い。

 白い壁、白いカーテン、白い陶器。白は罪を隠す色だと、私は子どもの頃に誰かから聞いた。汚れが目立つからこそ、汚れを許さない。汚れた者を、外に追い出せる。


 テーブルには焼き菓子が並び、花は香りを主張しすぎない。

 完璧だ。完璧すぎて、吐き気がする。


「お待たせいたしました」


 扉が開き、女性が入ってきた。

 公爵家当主の妹――あるいは茶会を取り仕切る“慈善の顔”。名前はまだ知らない。知る必要があるかどうかも、分からない。知った途端に、こちらの名が消えるなら、知識は武器ではなく鎖になる。


 彼女は、柔らかい笑みを浮かべた。

 肌も声も、柔らかい。柔らかいものほど、刃が深く刺さる。


「救済婚、ご成立おめでとうございます」


 祝福の言葉。

 それを言う口が、まるで“判決”を読み上げるみたいに正確だった。


「お招きいただきありがとうございます」


 私が形式的に返すと、彼女は嬉しそうに目を細めた。


「いえいえ。救済婚は、皆さまが安心して暮らすための制度ですもの。……ね、エイド様」


 エイドが頷く。

 彼の頷きは、礼儀としての頷きだ。肯定ではない。ここで否定すれば、彼女はそれを“救われた者の反抗”として処理するだろう。そんな扱いにさせない。


 私の薬指の黒紋が、手袋の下で微かに疼いた。

 ここに入ってから、ずっとだ。空気そのものが契約に反応している。まるで、この屋敷が契約の延長にあるみたいに。


「本日は、“安定化”についてご説明に参りました」


 彼女は紅茶を注ぎながら言った。

 安定化。便利な言葉。人を縛る手順を、揺れないように固定することを、こう呼ぶ。


「安定化、とは」


 私が問うと、彼女はにこやかに答えた。


「簡単に申しますと、契約の負担を双方が理解し、スムーズに運用できるようにすることです。救済婚は、慈善ではなく交換。正しく運用されれば、誰も不幸になりません」


 不幸になりません。

 その言葉が、私の背骨を冷やした。

 不幸の定義を、あなたが握っているだけだろう。


 彼女は小さな紙片を取り出した。

 契約庁が使う説明用の抜粋だろう。丁寧に要点がまとめられている。


「救済婚では、被救済者に“期限停止”という利益が与えられます。その代わりに、契約者は――ええ、相応の代償を負います」


 代償、という言葉だけが一瞬、硬くなる。

 柔らかな声に、芯が通る。


「代償は、契約の健全性を保つためのもの。負担が片側に偏ると、契約は歪みます。ですから、一定の“均衡”が必要なのです」


 均衡。

 それは本当に均衡なのか。

 片側が命を得て、片側が名を失う。

 命と名は、同じ重さではない。――いや、同じ重さだと押し付けるのが、この制度だ。


 私は紅茶に口をつけた。

 熱いのに、味がしない。舌が緊張している。


「……奥様」


 彼女が呼んだ。

 奥様、と。

 私の名は呼ばれない。呼べない。呼ぶ必要がない、という顔をして。


「屋敷の皆さまも、慣れるまで少し戸惑うかもしれません。でも、それは“正常な反応”です。救済婚は特別な契約ですから」


 正常。

 正常だと言えば、異常は異常ではなくなる。

 私が感じている恐怖も、ただの通過儀礼にされる。


 私は息を整えた。

 ここで感情を爆発させたら、負ける。相手はそれを待っている。感情で動いた側を“未熟”として処理し、制度の正しさを強化する。


「契約書の原本を確認したいです」


 私は言った。

 彼女の手が、紅茶のカップの取っ手で一瞬止まる。


「もちろん。ですが、原本は公爵家が管理しており……」


 管理している。

 つまりここが、制度の中枢。契約庁ではなく、公爵家が握っている。


「抜粋ではなく、全文を」


 私は重ねる。


 彼女は微笑みを崩さないまま、頷いた。


「ええ。誤解が生まれないように、全文をご覧いただくのは良いことです。お持ちいたしますね」


 侍従が扉を開け、彼女は軽い足取りで出ていった。

 その背中は、「理解のある善意」そのものだった。

 善意ほど、反論しづらいものはない。


 扉が閉まった瞬間、エイドが低く言った。


「……やっぱり、ここが握ってる」


「うん」


 私は短く答えた。


「でも、言葉の牢は、言葉でしか壊せない」


 父の覚え書きの文が、胸の内で反響する。

 牢を作った者は、牢の形で裁ける。


 侍従が戻ってきた。

 重い革表紙の冊子を抱えている。契約原本――正確には、公爵家が保管する“公式写し”だ。


「こちらでございます」


 冊子が机に置かれる。

 私は手袋を外し、ページをめくった。紙の質が、庁舎の控えより上等だ。上等な紙で縛られるほど、腹が立つ。


 条項。期限停止。婚姻関係。扶養義務。身元保証。

 そして――定義条項。


 私は指先でその項目をなぞった。


『従属者:受益者の指示に従い、無償で提供する義務を負う』


 無償提供。

 ここにある。ここが核だ。ここが刃だ。


 私は読み進める。

 「提供」の対象が曖昧だ。金銭、労務、名誉、名。どこにも限定がない。

 曖昧な定義は、力ある者のためにある。力ある者が、その時々の都合で対象を変えられる。


 そしてその曖昧さは――逆にできる。

 利益を得た者を提供者とせよ。父の言葉が、背中を押す。


 私は顔を上げた。

 侍従は無表情で立っている。監視役だ。ここで声に出してはならない。

 言葉は、まだ胸の中にしまっておく。


 その時、再び扉が開いた。

 彼女が戻ってくる。微笑みをそのまま連れて。


「いかがです? 奥様。少しでも不安が解けましたか」


 私は契約書を閉じた。

 不安は解けない。解かない。不安は武器だ。ここで解けたふりをしたら、次に削られる。


「……一つだけ」


 私は穏やかな声を作った。


「この“無償提供”は、何を指すのですか」


 彼女は一瞬、目を細めた。

 質問の意図を測る視線。

 そして、柔らかく笑った。


「それは、必要なものすべて、です」


 必要なものすべて。

 つまり、あなたが必要だと言えば、私の名だって必要になる。

 この制度は、そう言っている。


 私は小さく頷いた。

 穏やかな顔の裏で、決意が固まる。


 牢の形で裁く。

 必要なものすべて、という曖昧さを、逆に縛りに変える。


 彼女はカップを持ち上げ、優しく言った。


「安心なさいませ。あなたは――ええ、奥様は、もう苦しまなくていいのです」


 奥様。

 名のない呼び方。

 私は笑わなかった。代わりに、ゆっくり返した。


「苦しむのは、嫌いです」


 彼女は、少しだけ驚いた顔をした。

 すぐに微笑みへ戻る。慈善の仮面は強い。


「まあ。ですが、救済とはそういうものです。救われるためには、少しの我慢が必要ですから」


 私は、その言葉を胸に刻んだ。

 “救済”の正体。

 我慢を強いること。黙らせること。従わせること。


 彼女は最後に、まるで褒めるみたいに言った。


「エイド様も、良い方に救われましたね。奥様がとてもお強い」


 そして、微笑みのまま、さらりと落とした。


「……私たちが、救ってあげたのよ」


 その一言が、客間の空気を一段冷やした。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ