家訓の頁
屋敷は静かだった。
夕方になると、いつもなら厨房の火の気配や、侍女たちの足音が廊下に混じる。けれど今日は、その音が薄い。私の耳が敏感になっているのか、それとも屋敷全体が“私の不在”に合わせて息を潜め始めているのか――どちらにしても、胸の奥が落ち着かない。
執事は夕刻の予定を淡々と告げた。
「奥様。明日の午前、馬車を用意いたします。公爵家への往復は半日ほど。……念のため、護衛を」
「いらない」
私は即答した。
護衛が悪いわけではない。けれど“私が守られる側”になると、話が歪む。公爵家はそれを待っている。守られる奥様。名のない奥様。守られるほど薄まる存在。
「エイドがいる」
私は付け足す。
隣でエイドが視線を上げた。彼は黙って頷く。その頷きは、護衛の承諾ではなく――「対等に立つ」という承諾だ。
執事は一瞬だけ口を開きかけ、閉じた。
言いたいことはある。危険だ、と。相手は公爵家だ、と。
でも彼は言えない。いや、言わない。言葉が足りないのではなく、言葉が“届かない”ことを、もう感覚で理解している。
「承知いたしました。……奥様」
最後の呼称が、また胸を削る。
私は笑顔を作らず、静かに頷いた。
執事が去ったあと、客間には私とエイドだけが残った。
夕陽が床に長い影を落とす。影は二本あるのに、影の主の一方が薄い気がする。そんな錯覚が、ずっと離れない。
エイドが椅子の背に手を置いたまま、じっと黙っている。
言いたいことがある顔だ。言葉が出ない顔だ。
「……言って」
私が促すと、彼は息を吸った。
「公爵家へ行くのはいい」
彼は一語一語、確かめるように言う。
「でも、俺は――」
そこで止まる。
言いたいのは「君を守る」だろう。
でもその言葉の中にあるはずの“君”が、彼の中で輪郭を失っている。
彼は苛立ったように額を押さえた。
「……俺は、お前の」
お前。
それは呼称であって、名ではない。
彼がそれを使うのは、悪意ではない。悪意がないからこそ、怖い。名が失われていく過程は、こうして「便利な代替」を呼び寄せる。
私は、胸の奥がひりつくのを堪えて、言った。
「大丈夫。私は“奥様”じゃない。リュシアだよ」
口に出すと、喉が少し痛む。
でも、音が出た。
私はまだ、自分の名を言える。言えるうちは、ここにいる。
エイドの瞳が揺れた。
彼は今、私の名を聞いたはずなのに――その音が彼の中に定着しない。水の上に字を書いたみたいに、すぐに滲んで消えていく。
「……りゅ、」
彼の唇が形を作る。
けれど音にならない。
舌が動く前に、何かが止める。
苛立ちが彼の顔に浮かぶ。拳が震える。
私はその苛立ちが、私に向いていないことを知っている。向いているのは“奪う仕組み”だ。それでも、苛立ちの火花が私の皮膚を焦がす。
「無理に言わなくていい」
私は言った。
言うほどに、彼は自分を責める。自分を責めるほど、自己犠牲へ傾く。
その傾きが、公爵家の思う壺だ。
「無理に言わない。代わりに――取り返す」
私は立ち上がった。
屋敷には、まだ私の“家”が残っている。
名が消されるなら、名に関する知恵を探す。契約の穴を探す。私の家が古いのは、こういう時のためだ。
「どこへ」
「書庫」
私は言った。
書庫は屋敷の奥、普段使わない廊下の先にある。家訓、系譜、契約の写し。古い紙が眠る場所。
私の父が生きていた頃、時々そこに閉じこもっていた。私はその背中を、遠くから見ていただけだ。
書庫の扉は重い。鍵は執事が管理している。
けれど鍵束を持ってきた侍女は、私を見て一瞬止まり、結局「奥様」と呼んで鍵を差し出した。
それが、扉を開けるための許可みたいで腹が立つ。
書庫の中は、紙の匂いが濃かった。
乾いたインク、古い皮革、わずかなカビ。
棚には背表紙が並び、薄い埃が夕陽に浮いている。
「どれを探す」
エイドが言った。
彼は書庫の空気に慣れていないらしく、眉を寄せている。それでも私の後ろに立つ姿勢は、迷わない。
「契約。……と、名」
私は棚を見回した。
“名”に関する書は、系譜と戸籍と儀礼の類に紛れている。
でも私が欲しいのは、そういう綺麗な本ではない。契約の“抜け道”が書かれた、現実のための汚れた知恵だ。
父が触っていた棚の位置を思い出す。
最上段の左端、飾りのような厚い背表紙。実は中身が薄い偽装本。子どもの頃、あれを引き抜こうとして叱られたことがある。
私は踏み台に乗り、腕を伸ばした。
偽装本の背を押す。
かちり、と小さな音がして、棚の奥が少しだけ動いた。
「……隠し棚」
エイドが呟く。
私は奥の板を引き、薄い冊子を取り出した。
背表紙はない。手製の綴じ。紙は黄ばんでいる。
表紙に、父の筆跡があった。
『契約解釈覚え書き』
胸が一度だけ強く打つ。
父は、こういうものを残していた。残していてくれた。
私はその冊子を机の上に広げる。
中には、契約文の抜粋と注釈が並んでいた。
「定義」「例外」「優先順位」。
まるで、私に向けた手紙みたいに、必要な箇所だけが簡潔に書かれている。
ページをめくる。
父の文字は、冷たいくらい整っている。
『契約における最重要は“定義”である。
定義が曖昧な条項は、力ある者に都合よく運用される。
しかし同時に、定義は“言葉の牢”でもある。
牢を作った者は、牢の形で裁ける』
私は息を飲んだ。
牢を作った者は、牢の形で裁ける。
その発想は、私の中で火花になった。
さらにページをめくる。
『「無償提供」とは何を指すか。
金銭か、労務か、名か。
提供される対象が曖昧な場合、受益者の利益を以て対象を定義し直せ。
利益を得た者を“提供者”とせよ』
私は指で文字をなぞった。
まるで、明日のために書かれたような注釈。
公爵家の定義条項――従属=無償提供。
利益を得た者を提供者とせよ。
つまり、名を奪って利益を得た側が“無償で差し出す側”になる。
エイドが、背後から覗き込んだ。
「……これ、父上の」
「うん」
私は頷いた。
父はもういない。けれど言葉が残っている。
言葉は、名が消されかけても残る。なら私は――言葉で、名を取り戻す。
私は冊子を閉じ、胸に抱えた。
「これで戦える」
エイドが、私を見た。
彼の目に、恐怖ではなく決意が宿る。
名を呼べないままでも、彼は“選ぶ”ことができる。そういう目だ。
「明日、行く」
私が言うと、エイドが頷く。
「俺も行く」
「うん。対等に」
私は答えた。
その言葉を口にするたび、黒紋が疼く気がする。嫌がっているのか、反応しているのか。
どちらでもいい。私は折れない。
書庫を出る前に、私は手袋を外した。
薬指の黒紋が、夕陽に照らされて濃く見える。
そして気づいた。
線が増えたのではない。
線が、形になっている。
黒い紋が、ゆっくりと“文字”に寄っていく。
読めないはずの形が、どこかで見た筆致に似ている。
――私の名の形に。
背中に冷たいものが走った。
吸い込まれる。
私の名が、紋の中に取り込まれていく。
私は息を吸って、指を強く握り締めた。
「……まだ渡さない」
声は小さかった。
けれど言葉は、確かにこの世界に落ちた。
黒紋が、返事をするように、脈を打った。




