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呼ばれない花嫁は、契約の言葉で公爵家を縛る  作者: swingout777


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家訓の頁

 屋敷は静かだった。

 夕方になると、いつもなら厨房の火の気配や、侍女たちの足音が廊下に混じる。けれど今日は、その音が薄い。私の耳が敏感になっているのか、それとも屋敷全体が“私の不在”に合わせて息を潜め始めているのか――どちらにしても、胸の奥が落ち着かない。


 執事は夕刻の予定を淡々と告げた。


「奥様。明日の午前、馬車を用意いたします。公爵家への往復は半日ほど。……念のため、護衛を」


「いらない」


 私は即答した。

 護衛が悪いわけではない。けれど“私が守られる側”になると、話が歪む。公爵家はそれを待っている。守られる奥様。名のない奥様。守られるほど薄まる存在。


「エイドがいる」


 私は付け足す。

 隣でエイドが視線を上げた。彼は黙って頷く。その頷きは、護衛の承諾ではなく――「対等に立つ」という承諾だ。


 執事は一瞬だけ口を開きかけ、閉じた。

 言いたいことはある。危険だ、と。相手は公爵家だ、と。

 でも彼は言えない。いや、言わない。言葉が足りないのではなく、言葉が“届かない”ことを、もう感覚で理解している。


「承知いたしました。……奥様」


 最後の呼称が、また胸を削る。

 私は笑顔を作らず、静かに頷いた。


 執事が去ったあと、客間には私とエイドだけが残った。

 夕陽が床に長い影を落とす。影は二本あるのに、影の主の一方が薄い気がする。そんな錯覚が、ずっと離れない。


 エイドが椅子の背に手を置いたまま、じっと黙っている。

 言いたいことがある顔だ。言葉が出ない顔だ。


「……言って」


 私が促すと、彼は息を吸った。


「公爵家へ行くのはいい」


 彼は一語一語、確かめるように言う。


「でも、俺は――」


 そこで止まる。

 言いたいのは「君を守る」だろう。

 でもその言葉の中にあるはずの“君”が、彼の中で輪郭を失っている。


 彼は苛立ったように額を押さえた。


「……俺は、お前の」


 お前。

 それは呼称であって、名ではない。

 彼がそれを使うのは、悪意ではない。悪意がないからこそ、怖い。名が失われていく過程は、こうして「便利な代替」を呼び寄せる。


 私は、胸の奥がひりつくのを堪えて、言った。


「大丈夫。私は“奥様”じゃない。リュシアだよ」


 口に出すと、喉が少し痛む。

 でも、音が出た。

 私はまだ、自分の名を言える。言えるうちは、ここにいる。


 エイドの瞳が揺れた。

 彼は今、私の名を聞いたはずなのに――その音が彼の中に定着しない。水の上に字を書いたみたいに、すぐに滲んで消えていく。


「……りゅ、」


 彼の唇が形を作る。

 けれど音にならない。

 舌が動く前に、何かが止める。


 苛立ちが彼の顔に浮かぶ。拳が震える。

 私はその苛立ちが、私に向いていないことを知っている。向いているのは“奪う仕組み”だ。それでも、苛立ちの火花が私の皮膚を焦がす。


「無理に言わなくていい」


 私は言った。

 言うほどに、彼は自分を責める。自分を責めるほど、自己犠牲へ傾く。

 その傾きが、公爵家の思う壺だ。


「無理に言わない。代わりに――取り返す」


 私は立ち上がった。

 屋敷には、まだ私の“家”が残っている。

 名が消されるなら、名に関する知恵を探す。契約の穴を探す。私の家が古いのは、こういう時のためだ。


「どこへ」


「書庫」


 私は言った。

 書庫は屋敷の奥、普段使わない廊下の先にある。家訓、系譜、契約の写し。古い紙が眠る場所。

 私の父が生きていた頃、時々そこに閉じこもっていた。私はその背中を、遠くから見ていただけだ。


 書庫の扉は重い。鍵は執事が管理している。

 けれど鍵束を持ってきた侍女は、私を見て一瞬止まり、結局「奥様」と呼んで鍵を差し出した。

 それが、扉を開けるための許可みたいで腹が立つ。


 書庫の中は、紙の匂いが濃かった。

 乾いたインク、古い皮革、わずかなカビ。

 棚には背表紙が並び、薄い埃が夕陽に浮いている。


「どれを探す」


 エイドが言った。

 彼は書庫の空気に慣れていないらしく、眉を寄せている。それでも私の後ろに立つ姿勢は、迷わない。


「契約。……と、名」


 私は棚を見回した。

 “名”に関する書は、系譜と戸籍と儀礼の類に紛れている。

 でも私が欲しいのは、そういう綺麗な本ではない。契約の“抜け道”が書かれた、現実のための汚れた知恵だ。


 父が触っていた棚の位置を思い出す。

 最上段の左端、飾りのような厚い背表紙。実は中身が薄い偽装本。子どもの頃、あれを引き抜こうとして叱られたことがある。


 私は踏み台に乗り、腕を伸ばした。

 偽装本の背を押す。

 かちり、と小さな音がして、棚の奥が少しだけ動いた。


「……隠し棚」


 エイドが呟く。


 私は奥の板を引き、薄い冊子を取り出した。

 背表紙はない。手製の綴じ。紙は黄ばんでいる。

 表紙に、父の筆跡があった。


『契約解釈覚え書き』


 胸が一度だけ強く打つ。

 父は、こういうものを残していた。残していてくれた。

 私はその冊子を机の上に広げる。


 中には、契約文の抜粋と注釈が並んでいた。

 「定義」「例外」「優先順位」。

 まるで、私に向けた手紙みたいに、必要な箇所だけが簡潔に書かれている。


 ページをめくる。

 父の文字は、冷たいくらい整っている。


『契約における最重要は“定義”である。

 定義が曖昧な条項は、力ある者に都合よく運用される。

 しかし同時に、定義は“言葉の牢”でもある。

 牢を作った者は、牢の形で裁ける』


 私は息を飲んだ。

 牢を作った者は、牢の形で裁ける。

 その発想は、私の中で火花になった。


 さらにページをめくる。


『「無償提供」とは何を指すか。

 金銭か、労務か、名か。

 提供される対象が曖昧な場合、受益者の利益を以て対象を定義し直せ。

 利益を得た者を“提供者”とせよ』


 私は指で文字をなぞった。

 まるで、明日のために書かれたような注釈。

 公爵家の定義条項――従属=無償提供。

 利益を得た者を提供者とせよ。

 つまり、名を奪って利益を得た側が“無償で差し出す側”になる。


 エイドが、背後から覗き込んだ。


「……これ、父上の」


「うん」


 私は頷いた。

 父はもういない。けれど言葉が残っている。

 言葉は、名が消されかけても残る。なら私は――言葉で、名を取り戻す。


 私は冊子を閉じ、胸に抱えた。


「これで戦える」


 エイドが、私を見た。

 彼の目に、恐怖ではなく決意が宿る。

 名を呼べないままでも、彼は“選ぶ”ことができる。そういう目だ。


「明日、行く」


 私が言うと、エイドが頷く。


「俺も行く」


「うん。対等に」


 私は答えた。

 その言葉を口にするたび、黒紋が疼く気がする。嫌がっているのか、反応しているのか。

 どちらでもいい。私は折れない。


 書庫を出る前に、私は手袋を外した。

 薬指の黒紋が、夕陽に照らされて濃く見える。


 そして気づいた。


 線が増えたのではない。

 線が、形になっている。


 黒い紋が、ゆっくりと“文字”に寄っていく。

 読めないはずの形が、どこかで見た筆致に似ている。


 ――私の名の形に。


 背中に冷たいものが走った。

 吸い込まれる。

 私の名が、紋の中に取り込まれていく。


 私は息を吸って、指を強く握り締めた。


「……まだ渡さない」


 声は小さかった。

 けれど言葉は、確かにこの世界に落ちた。


 黒紋が、返事をするように、脈を打った。

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