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呼ばれない花嫁は、契約の言葉で公爵家を縛る  作者: swingout777


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4/20

宛名のない招待状

 午後の光は、窓硝子を通ると妙に冷たく見えた。

 屋敷の中庭に残る雪が、陽に溶けきれず白いまま揺れている。いつもの景色なのに、今日はどこか“貼り付けられた背景”みたいだった。私がこの屋敷から滑り落ち始めている――その感覚が、景色の輪郭まで薄くする。


 執事が、書類を抱えて客間へ入ってきた。

 いつもなら、扉の前で名を呼ぶ。

 「リュシアお嬢様、失礼いたします」

 その声が、私の一日の始まりと終わりを区切っていた。


 けれど執事は、扉の前で一度、沈黙した。

 口を開き、閉じ、また開いて――結局、どこにも音が落ちないまま、扉をノックした。


「……失礼いたします」


 呼びかけが、削られている。

 私は息を整えた。ここで苛立ってはいけない。彼らは悪くない。悪いのは、名を奪う仕組みだ。


「どうぞ」


 私が答えると、執事は深々と頭を下げた。


「奥様。こちら、今日届いた請求書と――招待状でございます」


 招待状、という単語に、エイドの視線が上がった。

 彼は客間の端に立ち、私と執事のやり取りを見守っている。見守る、というより、今の自分にできる唯一の抵抗がそれしかない顔だ。


 執事は机に書類を並べた。

 まず、請求書。次に、来客予定の確認。最後に、封蝋が押された厚い封筒。


 私は請求書の宛名を見て、喉の奥が冷えた。


『宛名:奥様』


 品目、金額、支払い期日。すべて正確で丁寧だ。

 なのに、宛名だけが“人”を指していない。肩書だけが漂っている。どこにでも貼れる札。誰にでも被せられる布。


「……昨日までは」


 私が呟くと、執事は困ったように眉を下げた。


「申し訳ございません。私も、書こうとしたのですが……」


 執事はペンを持つ手を軽く握り締める仕草をした。

 書けない。書こうとすると、指が止まる。

 その“止まり方”を、私はもう知っている。


「いえ。あなたのせいじゃない」


 私は言って、請求書を重ねた。

 次の書類は、来客の席札案だった。晩餐会の席順。いつもなら、私の名がここにある。貴族の世界は、名で編まれている。


 けれど席札案にも、同じ文字があった。


『奥様』


 奥様、奥様、奥様。

 同じ札が、私の席の周囲にいくつも配置されている。

 まるで、誰がそこに座っても同じだと言われているみたいで、胃の奥がきしんだ。


 エイドが机へ近づいてきた。

 席札案の「奥様」を見た瞬間、彼の口元が強張る。


「……これは」


 彼が言いかけて止まる。

 “おかしい”と言いたいのに、言葉が見つからない。いや、言葉はある。けれど、その言葉の先――私の名が、欠けている。


 私は息を吐いた。


「加速してる」


 昨日は控えの空白だけだった。今日は請求書。席札。

 このまま進めば、屋敷全体が“私の名がない前提”で回り始める。

 そうなったら私は、ここにいても、いない。


 執事が視線を落とした。


「奥様……その、失礼を承知で申し上げます。これは、契約庁での……」


「救済婚」


 私は言った。

 執事の表情が小さく歪む。知っているのだ。救済婚が、どういうものか。慈善の衣をまとった契約が、何を奪うのかを。


「はい……」


 執事は、言葉を飲み込んだ。

 それ以上を言えば、屋敷の者として踏み込んではいけない領域に触れる。彼は、それを分かっている。


 私は封蝋の封筒へ手を伸ばした。

 赤い封蝋に刻まれた紋章――金の縁取りの、公爵家の紋。


 心臓が一度だけ強く打つ。

 昨日、通りを横切った黒塗りの馬車。あの紋。

 偶然じゃない。ここまで露骨に“名を奪う”現象が進んだところで、こうして手紙が届く。まるで、餌を撒いて釣り糸を引くみたいに。


 私は封を切る前に、エイドを見た。


「あなた、これ見た?」


 エイドは首を振る。

 彼の目は鋭い。怒りが、今ははっきり方向を持っている。


「開ける」


 私は言った。

 開けなければ、相手の土俵を想像で補強するだけだ。

 相手が仕掛けた言葉の罠なら、言葉で解体する。


 封蝋が割れる。

 乾いた音が、客間に響いた。

 中から出てきたのは、厚い招待状だった。紙は上質で、文字は美しい。余白の取り方まで計算され尽くしている。美しいものほど、恐ろしい。


 私は最初に、宛名を見た。


 ――空白。


 書かれているはずの場所が、綺麗に白い。

 枠はある。装飾もある。けれど肝心の名前だけが、最初から存在しなかったように消えている。


 息が止まった。


 その空白が、昨日の控えと同じだ。

 私の名を奪うことが、手紙の作法にさえ組み込まれている。


 招待状の本文を読む。


『救済婚ご成立、誠に慶ばしく存じます。

 つきましては、契約の安定化に関するご説明のため、当家にて茶会を催します。

 お二人でのご出席を賜れれば幸いです。』


 契約の安定化。

 それは優しい言葉だ。

 安定化という名の支配強化。

 名を奪う現象を「不具合」ではなく「仕様」として押し通すための説明会。


 エイドが、私の手元を覗き込む。

 宛名の空白に目を落とした瞬間、彼の肩が硬くなった。


「……呼べないだけじゃない。最初から、居ない扱いだ」


 彼の声は、低い。

 怒りが、刃の形になっている。


 私は招待状を机に置き、手のひらを強く押しつけた。

 紙が、冷たい。

 その冷たさが、私の背骨に伝わってくる。


 エイドが、私の前に立つ。


「行くな」


 言い切った。

 彼は私を守ろうとしている。守ろうとすること自体は、嬉しい。

 けれど、その守り方が“私を閉じ込める”方へ向かうなら、それは同じ支配だ。


「行く」


 私は静かに返した。


 エイドが息を飲む。

 反論しようとして、言葉が詰まる。彼の中で、私の名が欠けていることが、ここでも邪魔をする。怒りの矛先が、行き場を失いかける。


 私は、彼の手を取った。

 握る。逃げないように。逃げさせないように。


「一人では行かない。あなたと行く。……対等に」


 エイドの指が、私の指を強く握り返す。

 握り返す力が、まるで誓いみたいだ。

 名を呼べない代わりに、体温で繋ぐ。


「でも――」


「相手の目的は分かってる」


 私は遮った。


「“安定化”って言葉で、名の抹消を正当化する。私が奥様になっていけば、名を奪ったことすら、誰も疑わなくなる。……それを、止める」


 黒紋が、手袋の下で脈打った。

 私の決意に反応したのか、それとも笑っているのか。

 どちらでもいい。私は、この現象を受け入れない。


 私は招待状をもう一度見た。

 宛名の空白。

 そこに、自分の名を想像で書き足してみる。リュシア。

 心の中で書いた文字は、紙の白に吸い込まれていく。


 なら、吸い込ませない。

 紙の上に、現実に刻む。


 私は招待状の余白に、ペンを取った。

 インク瓶が机にある。執事が置いていったものだ。


 ペン先を紙に当てる。

 指先が一瞬、冷たくなる。黒紋が熱くなる。


 ――書けるか?


 私は息を吸い、書いた。


 リュ――


 そこで、ペン先が止まった。

 指が、動かない。

 まるで、見えない手に押さえつけられたみたいに。


 私は歯を食いしばる。

 エイドが私の肩に手を置く。止めるためではない。支えるための手だ。


「……書けない」


 私は呟いた。

 書けない。呼べない。記録できない。

 名は奪われることで、世界から消えるのではなく、“世界に触れる手段”そのものを奪われていく。


 私はペンを置き、招待状を折り畳んだ。


「だから、行く」


 私はもう一度言う。

 公爵家の顔を見て、言葉を聞いて、条項を確かめる。

 そして――奪い返す道を見つける。


 エイドは頷いた。

 彼の頷きは、迷いを含んでいない。

 ただ、名を呼べないことだけが、彼の中で棘になっている。


「……君の、名前は」


 またその問いが落ちる。

 落ちるたびに、問いが“穴”になる。

 その穴が大きくなれば、私は彼の世界から消える。


 私は笑う代わりに、彼の指を強く握った。


「まだ言える。……まだ言わせる」


 自分に言い聞かせるように。

 そして私は、宛名のない招待状を胸に抱きしめた。


 空白は、挑発だ。

 なら私は、空白を裁きに変える。

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