空白の名簿
屋敷の門が見えたとき、私はようやく息を吐けた。
王都の通りには音が多すぎる。生きている音が、こちらの不安を薄めてくれるどころか、逆に際立たせる。私たちだけが異物で、街の賑わいはそれを隠してくれない。
門番が、エイドに向けて姿勢を正す。
「お帰りなさいませ、エイド様」
次に、私へ視線が移る。
門番の口が開きかけ、止まった。
「……」
喉が詰まったように、声が出ない。目がわずかに泳ぐ。
そして門番は、ぎこちなく頭を下げた。
「……お帰りなさいませ、奥様」
奥様。
私は返事の代わりに軽く頷いた。そこに悪意はない。むしろ門番の顔には、困惑があった。呼べない、という現象が自分に起きていることを、彼自身が理解できていない。
エイドが門番を見た。何か言いかけて、止める。
今ここで指摘すれば、門番は慌てるだけだ。慌てた結果、噂が増える。噂が増えれば、私の“名”はさらに不安定になる――そんな確信が、黒紋の疼きと一緒に胸に落ちた。
屋敷の中は、いつも通りの匂いがした。
磨かれた木の廊下、乾いた布の匂い、微かに漂う香草。
いつも通りであることが、怖い。世界は平然と回り続ける。私が削れていっても、何も変わらない顔で。
玄関に出てきた執事が、深々と頭を下げた。
「お帰りなさいませ、エイド様……そして――」
執事の声が途切れる。
口を動かしているのに、言葉が出ない。唇が形を作り、舌が動き、けれど音だけが欠けている。まるで、そこだけ切り取られたみたいに。
執事は一度目を閉じ、咳払いをした。
「……奥様。お部屋へご案内いたします」
私は静かに頷いた。
冷たいものが腹の底へ沈んでいく。奥様。奥様。奥様――呼称の便利さは、人の存在を薄くする。名前がなくても呼べる。その事実が、残酷だった。
客間へ向かう廊下で、侍女たちがすれ違いざまに頭を下げた。
エイドに「様」をつけ、私には同じように「奥様」。
誰も私の名を使わない。
その中に、古参の侍女がいた。小さい頃からこの屋敷にいる、私を「リュシアお嬢様」と呼んでくれていた人だ。
私は、彼女の顔を見た。
彼女は、私を見返した。目の奥が揺れる。何かを言いたいのに、言えない顔だ。
「……お、お」
彼女の唇が震える。
声が出かけて、止まる。
私は目を逸らさなかった。逸らしたら、そこで“私”が終わってしまう。
「……ただいま」
私が先に言った。
それは自分の存在を、この屋敷に縫い止めるための言葉でもあった。
侍女は、泣きそうな笑みを作って頭を下げた。
そして、やはり言った。
「……お帰りなさいませ、奥様」
奥様。
胸の中で何かがきしむ音がした。
客間に入ると、執事が紅茶の用意を指示し、静かに下がった。
扉が閉まる。屋敷の音が遠のく。
その瞬間、私は手袋を外した。
薬指の黒紋は、昨日より深い。
線が増えている。絡みつき、文字の形に寄っていく。読めないのに、読まれそうだ。
私は指先を押さえた。冷たさはない。熱もない。ただ、そこに“ある”という確信だけが、皮膚の下で脈を打つ。
「見せて」
エイドが言った。
私は黙って手を差し出す。彼の指が私の薬指に触れた瞬間、黒紋が微かに疼いた。
エイドの顔が歪む。痛みに似た表情だ。
「……これは」
彼は言いかけて、止まる。
言葉が続かない。彼の中で、概念が欠けている。
“リュシア”という言葉が、彼の記憶の棚から滑り落ちそうになっている。
私は、背筋が冷たくなった。
「エイド」
私は強く呼んだ。
彼が「はい」と返す。その返事はまだある。まだ繋がっている。
「あなたの中から、私の“名”が消え始めてる。そうでしょ」
エイドは目を伏せた。
否定できない仕草だった。拳を握り、開き、また握る。焦りが指先に出ている。
「……今朝までは、当たり前に呼べた」
彼の声は低い。怒りではなく、恐怖。
自分の意思ではどうにもならないものへの恐怖。
「今は、口に出そうとすると、……空白がある。霧みたいな」
「それが代償」
私は言った。
吐き出すほどに、言葉が刃になる。自分に刺さる刃。けれど言わなければ、現象に飲まれる。
「名を抹消するって、こういうこと。……私がこの屋敷で、すり減っていく」
エイドが顔を上げた。
その目に、怒りが宿る。ようやく怒りが、正しい方向を向く。
「誰が」
誰が、ではない。
何が、だ。
仕組みが。制度が。契約が。
「公爵家」
私は昨日見た馬車を思い出して答えた。
紋章。黒塗りの扉。ゆっくり通り過ぎた速度。
「契約庁は中立を装ってる。けど、救済婚を“流通”させるのは公爵家。利益を得るのも、きっとあっち」
私は立ち上がった。
客間の机の引き出しを開け、古い帳簿を取り出す。この屋敷の出入り、使用人の名簿、贈答の記録――すべて、名で管理されている。名は、この屋敷の骨組みだ。骨組みが抜けたら、家は形を保てない。
私は帳簿を開いた。
自分の欄を探す。すぐ見つかるはずだった。私の名は、ここにある。幼い頃から、家の行事も支出も、私の名で記録されている。
ページをめくる。
指先が乾く。
紙の擦れる音が、やけに大きい。
見つけた。
――枠はある。
項目もある。
けれど、その欄だけが、白い。
「……」
私は息を止めた。
昨夜の控えの空白は、まだ「奇妙な誤記」に見えた。だがこれは違う。屋敷の帳簿だ。私の手も、執事の手も、侍女の手も触れてきた記録だ。ここから私の名が消えるなんて、ただの印刷の不備で起きるはずがない。
エイドが横から覗き込み、顔を強張らせた。
「……そこ、本当は」
彼は言いかけて、止まる。
“本当は、君の名がある”と言いたいのに、言えない。
私は帳簿の空白に指を当てた。
紙の感触は、他の場所と変わらない。
変わらないのに、そこだけが異様に冷たく感じる。まるで、世界がそこから私を剥がし取った跡みたいに。
私は小さく笑ってしまった。
笑うつもりなんてなかったのに。喉の奥が震えて、変な音が出た。
「見て。これが、“名の抹消”」
私の声は、驚くほど落ち着いていた。
落ち着いているのは、覚悟が固まったからだ。怖い。でも怖いままでは、何もできない。
私は帳簿を閉じた。
そしてエイドの方を向く。
「エイド。あなたは助かった。けど私は、このままだと“助けた記録”ごと消える」
エイドが、首を振る。
必死に。子どもみたいに。
「そんなの、助かったことにならない」
その言葉に、私は少しだけ救われた。
彼が、私を「影」ではなく「人」として見ている証だから。
私は頷く。
「だから、救い方を変える」
エイドが息を飲んだ。
私は続ける。
「契約は破らない。破れば、あなたの期限が戻る。――でも契約の言葉で、契約を裁く」
黒紋が、薬指で脈を打つ。
まるで「そうしろ」と言っているみたいに。
私は帳簿を抱え、立ち上がった。
「まず、契約書の原本を取り寄せる。控えじゃない、“定義条項”まで含んだ完全な写しが必要」
エイドが一歩近づく。
「俺が行く」
「一人で行かない」
私は即座に否定した。
彼が一人で突っ込めば、すべてが“彼のための自己犠牲”に見える。そうなる道は、避けなければならない。
「一緒に行く。対等に。……私は、私の名で立つ」
言い切った瞬間、喉の奥が少しだけ軽くなった。
音が戻ったわけじゃない。でも、ここからなら押し返せる気がした。
その時、廊下の向こうで小さな声がした。
執事が誰かに指示している声。受け取った書類を確認する声。
「……こちらの名簿、更新されておりますが……」
声が、止まる。
次の言葉が続かない。
その沈黙が、屋敷全体に染み込むみたいに広がっていく。
私は、帳簿の空白をもう一度見た。
枠だけが整っている白。
そこに、私の人生の細部が丸ごと削られている。
そして理解した。
これは始まりだ。
放っておけば、空白は増える。
私の名だけじゃない。私の“私”が、世界から削れていく。
私は薬指を握り締めた。
――消される前に、奪い返す。
帳簿の私の欄は、最後まで、完全な空白のままだった。




