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呼ばれない花嫁は、契約の言葉で公爵家を縛る  作者: swingout777


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空白の名簿

 屋敷の門が見えたとき、私はようやく息を吐けた。

 王都の通りには音が多すぎる。生きている音が、こちらの不安を薄めてくれるどころか、逆に際立たせる。私たちだけが異物で、街の賑わいはそれを隠してくれない。


 門番が、エイドに向けて姿勢を正す。


「お帰りなさいませ、エイド様」


 次に、私へ視線が移る。

 門番の口が開きかけ、止まった。


「……」


 喉が詰まったように、声が出ない。目がわずかに泳ぐ。

 そして門番は、ぎこちなく頭を下げた。


「……お帰りなさいませ、奥様」


 奥様。

 私は返事の代わりに軽く頷いた。そこに悪意はない。むしろ門番の顔には、困惑があった。呼べない、という現象が自分に起きていることを、彼自身が理解できていない。


 エイドが門番を見た。何か言いかけて、止める。

 今ここで指摘すれば、門番は慌てるだけだ。慌てた結果、噂が増える。噂が増えれば、私の“名”はさらに不安定になる――そんな確信が、黒紋の疼きと一緒に胸に落ちた。


 屋敷の中は、いつも通りの匂いがした。

 磨かれた木の廊下、乾いた布の匂い、微かに漂う香草。

 いつも通りであることが、怖い。世界は平然と回り続ける。私が削れていっても、何も変わらない顔で。


 玄関に出てきた執事が、深々と頭を下げた。


「お帰りなさいませ、エイド様……そして――」


 執事の声が途切れる。

 口を動かしているのに、言葉が出ない。唇が形を作り、舌が動き、けれど音だけが欠けている。まるで、そこだけ切り取られたみたいに。


 執事は一度目を閉じ、咳払いをした。


「……奥様。お部屋へご案内いたします」


 私は静かに頷いた。

 冷たいものが腹の底へ沈んでいく。奥様。奥様。奥様――呼称の便利さは、人の存在を薄くする。名前がなくても呼べる。その事実が、残酷だった。


 客間へ向かう廊下で、侍女たちがすれ違いざまに頭を下げた。

 エイドに「様」をつけ、私には同じように「奥様」。

 誰も私の名を使わない。


 その中に、古参の侍女がいた。小さい頃からこの屋敷にいる、私を「リュシアお嬢様」と呼んでくれていた人だ。


 私は、彼女の顔を見た。

 彼女は、私を見返した。目の奥が揺れる。何かを言いたいのに、言えない顔だ。


「……お、お」


 彼女の唇が震える。

 声が出かけて、止まる。


 私は目を逸らさなかった。逸らしたら、そこで“私”が終わってしまう。


「……ただいま」


 私が先に言った。

 それは自分の存在を、この屋敷に縫い止めるための言葉でもあった。


 侍女は、泣きそうな笑みを作って頭を下げた。

 そして、やはり言った。


「……お帰りなさいませ、奥様」


 奥様。

 胸の中で何かがきしむ音がした。


 客間に入ると、執事が紅茶の用意を指示し、静かに下がった。

 扉が閉まる。屋敷の音が遠のく。

 その瞬間、私は手袋を外した。


 薬指の黒紋は、昨日より深い。

 線が増えている。絡みつき、文字の形に寄っていく。読めないのに、読まれそうだ。


 私は指先を押さえた。冷たさはない。熱もない。ただ、そこに“ある”という確信だけが、皮膚の下で脈を打つ。


「見せて」


 エイドが言った。

 私は黙って手を差し出す。彼の指が私の薬指に触れた瞬間、黒紋が微かに疼いた。


 エイドの顔が歪む。痛みに似た表情だ。


「……これは」


 彼は言いかけて、止まる。

 言葉が続かない。彼の中で、概念が欠けている。

 “リュシア”という言葉が、彼の記憶の棚から滑り落ちそうになっている。


 私は、背筋が冷たくなった。


「エイド」


 私は強く呼んだ。

 彼が「はい」と返す。その返事はまだある。まだ繋がっている。


「あなたの中から、私の“名”が消え始めてる。そうでしょ」


 エイドは目を伏せた。

 否定できない仕草だった。拳を握り、開き、また握る。焦りが指先に出ている。


「……今朝までは、当たり前に呼べた」


 彼の声は低い。怒りではなく、恐怖。

 自分の意思ではどうにもならないものへの恐怖。


「今は、口に出そうとすると、……空白がある。霧みたいな」


「それが代償」


 私は言った。

 吐き出すほどに、言葉が刃になる。自分に刺さる刃。けれど言わなければ、現象に飲まれる。


「名を抹消するって、こういうこと。……私がこの屋敷で、すり減っていく」


 エイドが顔を上げた。

 その目に、怒りが宿る。ようやく怒りが、正しい方向を向く。


「誰が」


 誰が、ではない。

 何が、だ。

 仕組みが。制度が。契約が。


「公爵家」


 私は昨日見た馬車を思い出して答えた。

 紋章。黒塗りの扉。ゆっくり通り過ぎた速度。


「契約庁は中立を装ってる。けど、救済婚を“流通”させるのは公爵家。利益を得るのも、きっとあっち」


 私は立ち上がった。

 客間の机の引き出しを開け、古い帳簿を取り出す。この屋敷の出入り、使用人の名簿、贈答の記録――すべて、名で管理されている。名は、この屋敷の骨組みだ。骨組みが抜けたら、家は形を保てない。


 私は帳簿を開いた。

 自分の欄を探す。すぐ見つかるはずだった。私の名は、ここにある。幼い頃から、家の行事も支出も、私の名で記録されている。


 ページをめくる。

 指先が乾く。

 紙の擦れる音が、やけに大きい。


 見つけた。


 ――枠はある。

 項目もある。


 けれど、その欄だけが、白い。


「……」


 私は息を止めた。

 昨夜の控えの空白は、まだ「奇妙な誤記」に見えた。だがこれは違う。屋敷の帳簿だ。私の手も、執事の手も、侍女の手も触れてきた記録だ。ここから私の名が消えるなんて、ただの印刷の不備で起きるはずがない。


 エイドが横から覗き込み、顔を強張らせた。


「……そこ、本当は」


 彼は言いかけて、止まる。

 “本当は、君の名がある”と言いたいのに、言えない。


 私は帳簿の空白に指を当てた。

 紙の感触は、他の場所と変わらない。

 変わらないのに、そこだけが異様に冷たく感じる。まるで、世界がそこから私を剥がし取った跡みたいに。


 私は小さく笑ってしまった。

 笑うつもりなんてなかったのに。喉の奥が震えて、変な音が出た。


「見て。これが、“名の抹消”」


 私の声は、驚くほど落ち着いていた。

 落ち着いているのは、覚悟が固まったからだ。怖い。でも怖いままでは、何もできない。


 私は帳簿を閉じた。

 そしてエイドの方を向く。


「エイド。あなたは助かった。けど私は、このままだと“助けた記録”ごと消える」


 エイドが、首を振る。

 必死に。子どもみたいに。


「そんなの、助かったことにならない」


 その言葉に、私は少しだけ救われた。

 彼が、私を「影」ではなく「人」として見ている証だから。


 私は頷く。


「だから、救い方を変える」


 エイドが息を飲んだ。

 私は続ける。


「契約は破らない。破れば、あなたの期限が戻る。――でも契約の言葉で、契約を裁く」


 黒紋が、薬指で脈を打つ。

 まるで「そうしろ」と言っているみたいに。


 私は帳簿を抱え、立ち上がった。


「まず、契約書の原本を取り寄せる。控えじゃない、“定義条項”まで含んだ完全な写しが必要」


 エイドが一歩近づく。


「俺が行く」


「一人で行かない」


 私は即座に否定した。

 彼が一人で突っ込めば、すべてが“彼のための自己犠牲”に見える。そうなる道は、避けなければならない。


「一緒に行く。対等に。……私は、私の名で立つ」


 言い切った瞬間、喉の奥が少しだけ軽くなった。

 音が戻ったわけじゃない。でも、ここからなら押し返せる気がした。


 その時、廊下の向こうで小さな声がした。

 執事が誰かに指示している声。受け取った書類を確認する声。


「……こちらの名簿、更新されておりますが……」


 声が、止まる。

 次の言葉が続かない。

 その沈黙が、屋敷全体に染み込むみたいに広がっていく。


 私は、帳簿の空白をもう一度見た。

 枠だけが整っている白。

 そこに、私の人生の細部が丸ごと削られている。


 そして理解した。


 これは始まりだ。

 放っておけば、空白は増える。

 私の名だけじゃない。私の“私”が、世界から削れていく。


 私は薬指を握り締めた。


 ――消される前に、奪い返す。


 帳簿の私の欄は、最後まで、完全な空白のままだった。

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