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呼ばれない花嫁は、契約の言葉で公爵家を縛る  作者: swingout777


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20/20

今度は、はっきり

 「……リュシア」


 音が落ちた。

 誰かが呼んだ、ではない。

 エイドが、自分の意思で、私の名を呼んだ。


 その一音が会場の白を割り、私の輪郭を世界へ引き戻した。

 喉の奥に張りついていた膜が、音と一緒に剥がれていく。息が、肺の奥まで届く。

 名を呼ばれるというのは、こんなにも生々しい。


 エイドは一度だけ唇を噛み、続けた。


「俺は、救われるだけで終わりたくない。……犠牲で生き延びたくない」


 その言葉は、私の言葉をなぞっているようでいて、もう彼自身のものだった。

 同じ言葉でも、発する人が変われば意味が変わる。

 彼は今、私の隣へ降りてきた。救われる側から、選ぶ側へ。


 エイドは私が置いた紙――新しい契約案に、指を置いた。

 『期限:なし』

 『関係:対等』

 その二行が、ただの文字ではなく、道になる。


「これを選ぶ」


 彼は言った。

 選ぶ、という動詞が胸に刺さる。

 選んだのは、私ではない。彼だ。だから、対等だ。


 私は頷いた。

 頷くだけで喉が震える。涙はまだ落ちない。落とすなら、全部が終わってから。


「……うん。今日からは、そうしよう」


 エイドの指が私の指に触れた。

 触れた瞬間、薬指の黒紋が脈を打った。

 いつもの苛立つ脈ではない。冷たくも熱くもない、ただの“確定”の脈。


 私は手袋を外し、薬指を見た。

 黒紋はまだある。消えてはいない。

 けれど、その線の形が変わっていた。

 私の名を飲み込む器ではなく、守りの輪郭に寄っている。刃のような鋭さが、少し丸くなった。


 書記官が一歩前へ出る。

 形式の声で言った。


「契約庁として、新契約案を受理します。旧契約の更新は停止。新契約は当事者双方の意思に基づき成立――」


 彼は言葉を切り、役人へ視線を送った。

 役人が記録紙を広げ、ペンを走らせる。

 公の場で“書かれる”。

 私の名が、今度は空白ではなく、記録として落ちる。


 書記官は続ける。


「条項は簡潔であるほど望ましい。曖昧な定義は支配を生む。よって『期限:なし』『関係:対等』を中核条項として明記――」


 役人が頷き、記録を取る。


 公爵家の女性は、椅子の背に指を置いたまま動けなかった。

 動けないのは、恐怖だけではない。

 彼女の“言葉”が効かなくなったからだ。慈善の仮面の言葉は、もう誰も信じない。

 そして何より、彼女は自分の家の当主を呼べない。呼べないまま、場の中心から落ちていく。


 当主は――名が落ちないまま、そこにいた。

 署名欄の白は消えない。

 周囲の役人が何度も「当主のお名前を」と促すが、促されるほど空白が際立つ。


「……」


 当主は口を動かす。

 でも音にならない。

 口の形が、名の形に届かない。

 名を奪う側が、名を持てない側に落ちる。

 因果応報は、派手な雷ではなく、静かな無音として落ちるのだと私は思った。


 会場の端で、小さな声が上がった。


「……私の名、書ける」


 別の声が続く。


「呼べた。久しぶりに、呼べた」


 救済婚で名を奪われていた人たちだろう。

 名が戻り始めている。

 一度消えかけたものが、戻るには時間がかかる。けれど、戻ると決まった。戻る方向が確定した。


 書記官が淡々と告げる。


「本件に伴い、公爵家の契約運用は調査対象です。既存契約については、定義条項の対象限定および主体確定を行い、同様の不具合――名の抹消が生じないよう、運用を改めます」


 不具合。

 そう呼んでしまえば、慈善の仮面は最後まで“正しさ”を装れる。

 でも、もうどうでもいい。

 重要なのは、言葉が戻ること。名が戻ること。選び直せること。


 私は机の上の契約案に、ペンを取った。

 さっき、招待状の余白には書けなかった。

けれど今は、手が止まらない。


 私は署名欄に、自分の名を書いた。


 リュシア


 インクが紙に染み、線が乾いていく。

 文字が定着する。

 定着するということは、この世界が私を認めているということだ。


 エイドが続けて署名する。

 そして、私の方を見た。


 名を呼べた目だ。

 名を呼べる人の目は、迷わない。


「……リュシア」


 彼はもう一度呼んだ。

 確かめるために。

 この世界に、私の名を刻むために。


 私は、ようやく笑った。

 笑っても、崩れない。

 崩れないのは、名が戻ったからだ。


「うん」


 私は頷く。

 薬指の黒紋が、静かに脈を打つ。

 今度の脈は、痛みではない。

 束縛でもない。


 ただ、誓いの鼓動だった。


 ――今度は、はっきり呼べた。私の名を。

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