今度は、はっきり
「……リュシア」
音が落ちた。
誰かが呼んだ、ではない。
エイドが、自分の意思で、私の名を呼んだ。
その一音が会場の白を割り、私の輪郭を世界へ引き戻した。
喉の奥に張りついていた膜が、音と一緒に剥がれていく。息が、肺の奥まで届く。
名を呼ばれるというのは、こんなにも生々しい。
エイドは一度だけ唇を噛み、続けた。
「俺は、救われるだけで終わりたくない。……犠牲で生き延びたくない」
その言葉は、私の言葉をなぞっているようでいて、もう彼自身のものだった。
同じ言葉でも、発する人が変われば意味が変わる。
彼は今、私の隣へ降りてきた。救われる側から、選ぶ側へ。
エイドは私が置いた紙――新しい契約案に、指を置いた。
『期限:なし』
『関係:対等』
その二行が、ただの文字ではなく、道になる。
「これを選ぶ」
彼は言った。
選ぶ、という動詞が胸に刺さる。
選んだのは、私ではない。彼だ。だから、対等だ。
私は頷いた。
頷くだけで喉が震える。涙はまだ落ちない。落とすなら、全部が終わってから。
「……うん。今日からは、そうしよう」
エイドの指が私の指に触れた。
触れた瞬間、薬指の黒紋が脈を打った。
いつもの苛立つ脈ではない。冷たくも熱くもない、ただの“確定”の脈。
私は手袋を外し、薬指を見た。
黒紋はまだある。消えてはいない。
けれど、その線の形が変わっていた。
私の名を飲み込む器ではなく、守りの輪郭に寄っている。刃のような鋭さが、少し丸くなった。
書記官が一歩前へ出る。
形式の声で言った。
「契約庁として、新契約案を受理します。旧契約の更新は停止。新契約は当事者双方の意思に基づき成立――」
彼は言葉を切り、役人へ視線を送った。
役人が記録紙を広げ、ペンを走らせる。
公の場で“書かれる”。
私の名が、今度は空白ではなく、記録として落ちる。
書記官は続ける。
「条項は簡潔であるほど望ましい。曖昧な定義は支配を生む。よって『期限:なし』『関係:対等』を中核条項として明記――」
役人が頷き、記録を取る。
公爵家の女性は、椅子の背に指を置いたまま動けなかった。
動けないのは、恐怖だけではない。
彼女の“言葉”が効かなくなったからだ。慈善の仮面の言葉は、もう誰も信じない。
そして何より、彼女は自分の家の当主を呼べない。呼べないまま、場の中心から落ちていく。
当主は――名が落ちないまま、そこにいた。
署名欄の白は消えない。
周囲の役人が何度も「当主のお名前を」と促すが、促されるほど空白が際立つ。
「……」
当主は口を動かす。
でも音にならない。
口の形が、名の形に届かない。
名を奪う側が、名を持てない側に落ちる。
因果応報は、派手な雷ではなく、静かな無音として落ちるのだと私は思った。
会場の端で、小さな声が上がった。
「……私の名、書ける」
別の声が続く。
「呼べた。久しぶりに、呼べた」
救済婚で名を奪われていた人たちだろう。
名が戻り始めている。
一度消えかけたものが、戻るには時間がかかる。けれど、戻ると決まった。戻る方向が確定した。
書記官が淡々と告げる。
「本件に伴い、公爵家の契約運用は調査対象です。既存契約については、定義条項の対象限定および主体確定を行い、同様の不具合――名の抹消が生じないよう、運用を改めます」
不具合。
そう呼んでしまえば、慈善の仮面は最後まで“正しさ”を装れる。
でも、もうどうでもいい。
重要なのは、言葉が戻ること。名が戻ること。選び直せること。
私は机の上の契約案に、ペンを取った。
さっき、招待状の余白には書けなかった。
けれど今は、手が止まらない。
私は署名欄に、自分の名を書いた。
リュシア
インクが紙に染み、線が乾いていく。
文字が定着する。
定着するということは、この世界が私を認めているということだ。
エイドが続けて署名する。
そして、私の方を見た。
名を呼べた目だ。
名を呼べる人の目は、迷わない。
「……リュシア」
彼はもう一度呼んだ。
確かめるために。
この世界に、私の名を刻むために。
私は、ようやく笑った。
笑っても、崩れない。
崩れないのは、名が戻ったからだ。
「うん」
私は頷く。
薬指の黒紋が、静かに脈を打つ。
今度の脈は、痛みではない。
束縛でもない。
ただ、誓いの鼓動だった。
――今度は、はっきり呼べた。私の名を。




