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呼ばれない花嫁は、契約の言葉で公爵家を縛る  作者: swingout777


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2/20

呼べない問い

 庁舎を出た瞬間、空気が少しだけ軽く感じた。

 救済が成立した――その事実だけが、石の建物に押し潰されかけていた胸を、ほんの僅か持ち上げる。


 冬の終わりの空は薄く白い。雲の奥に陽があるのに、暖かさは届かない。

 契約庁舎の階段を下りるたび、靴底が石を叩く乾いた音がした。生きている音だ、と私は思った。たったそれだけのことが、やけに嬉しい。


 隣でエイドが息を吐いた。深く、長く。

 さっきまで張り詰めていた肩の線が、ようやく少しだけ緩む。


「……止まった」


 彼が呟く。何が、と聞くまでもなかった。期限の砂が落ちる感覚。骨の奥に刺さっていたカウントが、ようやく止まったのだ。


「よかった」


 私は短く言った。

 よかった、という言葉が薄く感じるほど、私たちが踏んできた縁は細かった。救済婚なんて名のついた紐で縫い止めなければ、すぐに切れてしまう命だった。


 エイドが私を見る。

 目は真っ直ぐなのに、どこか迷子みたいだ。安堵の次に来るはずの喜びが、どこに置けばいいのか分からない顔をしている。


「……ありがとう」


 その一言が、妙に重い。

 私は頷きかけて――指先の熱に気づいた。


 黒紋。

 手袋の内側で、脈を打つみたいに疼く。


 私は指を握り直し、無理やり視線を逸らした。ここで手袋を外して確かめたい衝動はある。でも、確認したところで何が変わる。変わるなら、今ここで変えたい。


「まだ終わりじゃない」


 私は自分に言い聞かせるように言った。


「終わりじゃない、って」


 エイドが眉を寄せた。

 彼は救われたと思っている。救われたのは事実だ。だからこそ、ここで「代償」を突きつけるのは残酷に思えた。けれど、知らないまま進めば、もっと残酷になる。


「契約は成立した。でも、代償が“動いてる”」


 私が言うと、エイドの表情が凍る。

 彼は一瞬、庁舎の方を見た。引き返して破棄してしまいたい、という衝動が顔に出ている。


「……リュシア。もう一度……」


「破棄はできない」


 私は静かに言った。

 さっき自分で言い切った言葉だ。ここで揺らいだら、彼はそれを理由に自分を差し出そうとする。そうなる未来だけは、私が許せない。


 沈黙が落ちた。

 風が、二人の間を通り抜ける。衣の端が揺れ、髪が頬に貼りついた。


 その時だった。


「奥様」


 背後から声がした。

 私は振り返る。庁舎の門の内側、朱塗りの掲示板の前で、契約係の小役人がこちらに向かって手を振っていた。


 奥様。

 私は今、そう呼ばれる立場になった。慣れない響きに、ほんの少しだけ肩が強張る。


「はい」


 私が返事をすると、役人は一度頷き、書類を差し出した。


「救済婚契約の控えです。お受け取りください。――ええと」


 役人が書類の上を指で追う。

 次の瞬間、彼の指が止まった。


「……」


 紙を見つめる目が泳ぐ。

 まるで、そこに書かれているはずのものが見えないみたいに。


「どうしました?」


 私が問うと、役人はぎこちなく笑った。


「いえ、その……奥様の、お名前を……」


 言いかけて、口が止まる。

 そして彼は、困ったように眉を下げた。


「すみません。……失礼しました。奥様、こちらに」


 代わりに、奥様、と言い直す。

 その瞬間、私の背筋が冷える。黒紋が手袋の内側で脈を打った気がした。


 エイドが一歩前に出た。


「彼女の名は――」


 エイドの唇が動く。

 確かに、動くのに。


 音が出ない。


「……?」


 彼自身が驚いた顔をした。

 自分の口が自分のものじゃないみたいに。言葉の先が、見えない壁に当たって砕けたみたいに。


 私は、役人の視線がこちらに集まる前に、素早く書類を受け取った。


「ありがとうございます」


 礼を言い、役人を下がらせる。

 役人は何度も頭を下げながら、庁舎の中へ戻っていった。その背中は、「何か変だ」と気づきながら、気づかなかったことにしようとしている背中だった。


 私は控えを見下ろす。

 上段には、被救済者の名前がある。エイド。間違いなく書かれている。


 そして――契約者、リュシア。

 のはずの欄。


 そこに、薄い空白がある。


 紙は確かに、印刷されている。枠もある。項目もある。

 なのに肝心の部分だけ、最初から刷られていなかったみたいに、白い。


 冷たい汗が背中を流れた。

 名を抹消。――これは比喩ではない。現象だ。


「見せて」


 エイドが控えを覗き込む。

 彼の瞳が、空白を捉えた瞬間、顔から血の気が引いた。


「……何で……」


 それは、怒りでも悲鳴でもなく、子どものような困惑だった。

 理解できないものに遭遇したときの顔。


 私は紙を折り畳み、胸元へしまった。


「これで確定」


 私は言った。

 自分に釘を刺すように。


「代償が、動いてる」


 エイドは拳を握り締める。爪が掌に食い込む音がするほど強く。


「止められるのか」


 彼は、私ではなく、自分に問うように言った。


「……止める」


 私は断言した。

 止められるかどうかはまだ分からない。でも、止めると決めない限り、止まるはずがない。


 歩き出す。

 庁舎から離れるほどに、胸の中の重みが増していく。救済を得たはずなのに、代償が足元を引く。救いの裏側が、早くも牙を見せている。


 王都の街路は賑わっていた。

 露店の呼び込み、馬車の軋み、人々の笑い声。生きている街の音が、私たちだけを置き去りにする。


 私はふと、呼ばれていないことに気づいた。


 すれ違う人々は、エイドにだけ視線を向ける。

 騎士だ、貴族だ、と。

 そして私を見る視線は、どこかで切れる。見ているのに、見えていないような切れ方。


 私の存在は、彼の横にある「影」へ変わり始めている。


「家に戻ろう」


 私は言った。

 屋敷に戻り、契約を読み直し、穴を探す。

 何より――この現象を、私一人の身体で抱え込まないために。


 エイドは、返事の前に一度だけ私を見た。

 そして、息を吸って――


「……君の、名前は」


 まただ。

 さっき庁舎で彼が言いかけた問い。今度は、確かに口に出ている。けれど、その問いは、まるで本人にとっても意味を失いかけている。


 彼は続けようとして、止まる。

 名前、という概念そのものが、彼の中で剥がれ落ち始めているみたいに。


 私は胸の奥が、ひやりとした。


 代償は私だけじゃない。

 彼の側からも、“私の名”へ届く道が消されていく。


 私は立ち止まって、彼の手首を掴んだ。

 強く。逃げられないように。


「エイド」


 私は彼を呼ぶ。これはまだ呼べる。

 呼べるうちに、刻む。


「聞いて。私の名は――」


 言おうとして、喉の奥が詰まった。

 まるで、音の出口に薄い膜が張っている。破ればいいのに、破れない。


 私は唇を噛む。血の味がする。

 それでも音は出ない。


 エイドが、私を見つめる。

 焦りと恐怖が、瞳の奥で渦を巻く。彼は、私が何を言おうとしているか分かっている。分かっているのに、聞けない。


 その瞬間、背後で馬車の車輪が軋んだ。


 通りを横切る黒塗りの馬車。

 窓には薄いカーテンがかかり、内側は見えない。けれど馬車の扉に刻まれた紋章だけは、はっきり見えた。


 金の縁取りを施した、公爵家の紋。


 偶然のはずがない。

 救済婚は慈善ではない。交換だ。そして交換の場には、必ず、利益を得る者がいる。


 馬車は、私たちの前をゆっくり通り過ぎた。

 その速度が、見せつけるように感じられた。


 黒紋が、手袋の内側で脈打った。

 まるで、馬車に返事をしているみたいに。


 私は息を吸い込み、喉を押し開けようとした。

 けれど、音は出ない。出せない。


 代わりに私ができたのは、彼の手を握り返すことだけだった。


「……後で。必ず言う」


 私は、さっきと同じ言葉を繰り返した。

 繰り返すほどに、嘘みたいに薄くなる言葉。


 エイドは、微かに頷いた。

 そして、見えない敵を睨むみたいに、馬車が消えた方向を見た。


 ――守る。

 彼の目はそう言っていた。守るべきものを、まだ呼べないまま。


 私は、心の中で自分の名を繰り返す。

 忘れないために。消されないために。奪われないために。


 リュシア。

 リュシア。

 リュシア――


 黒紋が、返事をするように、もう一度脈を打った。

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