呼べない問い
庁舎を出た瞬間、空気が少しだけ軽く感じた。
救済が成立した――その事実だけが、石の建物に押し潰されかけていた胸を、ほんの僅か持ち上げる。
冬の終わりの空は薄く白い。雲の奥に陽があるのに、暖かさは届かない。
契約庁舎の階段を下りるたび、靴底が石を叩く乾いた音がした。生きている音だ、と私は思った。たったそれだけのことが、やけに嬉しい。
隣でエイドが息を吐いた。深く、長く。
さっきまで張り詰めていた肩の線が、ようやく少しだけ緩む。
「……止まった」
彼が呟く。何が、と聞くまでもなかった。期限の砂が落ちる感覚。骨の奥に刺さっていたカウントが、ようやく止まったのだ。
「よかった」
私は短く言った。
よかった、という言葉が薄く感じるほど、私たちが踏んできた縁は細かった。救済婚なんて名のついた紐で縫い止めなければ、すぐに切れてしまう命だった。
エイドが私を見る。
目は真っ直ぐなのに、どこか迷子みたいだ。安堵の次に来るはずの喜びが、どこに置けばいいのか分からない顔をしている。
「……ありがとう」
その一言が、妙に重い。
私は頷きかけて――指先の熱に気づいた。
黒紋。
手袋の内側で、脈を打つみたいに疼く。
私は指を握り直し、無理やり視線を逸らした。ここで手袋を外して確かめたい衝動はある。でも、確認したところで何が変わる。変わるなら、今ここで変えたい。
「まだ終わりじゃない」
私は自分に言い聞かせるように言った。
「終わりじゃない、って」
エイドが眉を寄せた。
彼は救われたと思っている。救われたのは事実だ。だからこそ、ここで「代償」を突きつけるのは残酷に思えた。けれど、知らないまま進めば、もっと残酷になる。
「契約は成立した。でも、代償が“動いてる”」
私が言うと、エイドの表情が凍る。
彼は一瞬、庁舎の方を見た。引き返して破棄してしまいたい、という衝動が顔に出ている。
「……リュシア。もう一度……」
「破棄はできない」
私は静かに言った。
さっき自分で言い切った言葉だ。ここで揺らいだら、彼はそれを理由に自分を差し出そうとする。そうなる未来だけは、私が許せない。
沈黙が落ちた。
風が、二人の間を通り抜ける。衣の端が揺れ、髪が頬に貼りついた。
その時だった。
「奥様」
背後から声がした。
私は振り返る。庁舎の門の内側、朱塗りの掲示板の前で、契約係の小役人がこちらに向かって手を振っていた。
奥様。
私は今、そう呼ばれる立場になった。慣れない響きに、ほんの少しだけ肩が強張る。
「はい」
私が返事をすると、役人は一度頷き、書類を差し出した。
「救済婚契約の控えです。お受け取りください。――ええと」
役人が書類の上を指で追う。
次の瞬間、彼の指が止まった。
「……」
紙を見つめる目が泳ぐ。
まるで、そこに書かれているはずのものが見えないみたいに。
「どうしました?」
私が問うと、役人はぎこちなく笑った。
「いえ、その……奥様の、お名前を……」
言いかけて、口が止まる。
そして彼は、困ったように眉を下げた。
「すみません。……失礼しました。奥様、こちらに」
代わりに、奥様、と言い直す。
その瞬間、私の背筋が冷える。黒紋が手袋の内側で脈を打った気がした。
エイドが一歩前に出た。
「彼女の名は――」
エイドの唇が動く。
確かに、動くのに。
音が出ない。
「……?」
彼自身が驚いた顔をした。
自分の口が自分のものじゃないみたいに。言葉の先が、見えない壁に当たって砕けたみたいに。
私は、役人の視線がこちらに集まる前に、素早く書類を受け取った。
「ありがとうございます」
礼を言い、役人を下がらせる。
役人は何度も頭を下げながら、庁舎の中へ戻っていった。その背中は、「何か変だ」と気づきながら、気づかなかったことにしようとしている背中だった。
私は控えを見下ろす。
上段には、被救済者の名前がある。エイド。間違いなく書かれている。
そして――契約者、リュシア。
のはずの欄。
そこに、薄い空白がある。
紙は確かに、印刷されている。枠もある。項目もある。
なのに肝心の部分だけ、最初から刷られていなかったみたいに、白い。
冷たい汗が背中を流れた。
名を抹消。――これは比喩ではない。現象だ。
「見せて」
エイドが控えを覗き込む。
彼の瞳が、空白を捉えた瞬間、顔から血の気が引いた。
「……何で……」
それは、怒りでも悲鳴でもなく、子どものような困惑だった。
理解できないものに遭遇したときの顔。
私は紙を折り畳み、胸元へしまった。
「これで確定」
私は言った。
自分に釘を刺すように。
「代償が、動いてる」
エイドは拳を握り締める。爪が掌に食い込む音がするほど強く。
「止められるのか」
彼は、私ではなく、自分に問うように言った。
「……止める」
私は断言した。
止められるかどうかはまだ分からない。でも、止めると決めない限り、止まるはずがない。
歩き出す。
庁舎から離れるほどに、胸の中の重みが増していく。救済を得たはずなのに、代償が足元を引く。救いの裏側が、早くも牙を見せている。
王都の街路は賑わっていた。
露店の呼び込み、馬車の軋み、人々の笑い声。生きている街の音が、私たちだけを置き去りにする。
私はふと、呼ばれていないことに気づいた。
すれ違う人々は、エイドにだけ視線を向ける。
騎士だ、貴族だ、と。
そして私を見る視線は、どこかで切れる。見ているのに、見えていないような切れ方。
私の存在は、彼の横にある「影」へ変わり始めている。
「家に戻ろう」
私は言った。
屋敷に戻り、契約を読み直し、穴を探す。
何より――この現象を、私一人の身体で抱え込まないために。
エイドは、返事の前に一度だけ私を見た。
そして、息を吸って――
「……君の、名前は」
まただ。
さっき庁舎で彼が言いかけた問い。今度は、確かに口に出ている。けれど、その問いは、まるで本人にとっても意味を失いかけている。
彼は続けようとして、止まる。
名前、という概念そのものが、彼の中で剥がれ落ち始めているみたいに。
私は胸の奥が、ひやりとした。
代償は私だけじゃない。
彼の側からも、“私の名”へ届く道が消されていく。
私は立ち止まって、彼の手首を掴んだ。
強く。逃げられないように。
「エイド」
私は彼を呼ぶ。これはまだ呼べる。
呼べるうちに、刻む。
「聞いて。私の名は――」
言おうとして、喉の奥が詰まった。
まるで、音の出口に薄い膜が張っている。破ればいいのに、破れない。
私は唇を噛む。血の味がする。
それでも音は出ない。
エイドが、私を見つめる。
焦りと恐怖が、瞳の奥で渦を巻く。彼は、私が何を言おうとしているか分かっている。分かっているのに、聞けない。
その瞬間、背後で馬車の車輪が軋んだ。
通りを横切る黒塗りの馬車。
窓には薄いカーテンがかかり、内側は見えない。けれど馬車の扉に刻まれた紋章だけは、はっきり見えた。
金の縁取りを施した、公爵家の紋。
偶然のはずがない。
救済婚は慈善ではない。交換だ。そして交換の場には、必ず、利益を得る者がいる。
馬車は、私たちの前をゆっくり通り過ぎた。
その速度が、見せつけるように感じられた。
黒紋が、手袋の内側で脈打った。
まるで、馬車に返事をしているみたいに。
私は息を吸い込み、喉を押し開けようとした。
けれど、音は出ない。出せない。
代わりに私ができたのは、彼の手を握り返すことだけだった。
「……後で。必ず言う」
私は、さっきと同じ言葉を繰り返した。
繰り返すほどに、嘘みたいに薄くなる言葉。
エイドは、微かに頷いた。
そして、見えない敵を睨むみたいに、馬車が消えた方向を見た。
――守る。
彼の目はそう言っていた。守るべきものを、まだ呼べないまま。
私は、心の中で自分の名を繰り返す。
忘れないために。消されないために。奪われないために。
リュシア。
リュシア。
リュシア――
黒紋が、返事をするように、もう一度脈を打った。




