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呼ばれない花嫁は、契約の言葉で公爵家を縛る  作者: swingout777


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18/20

最初に消えたのは

 決め台詞のあと、会場は一瞬、呼吸を忘れたみたいに静まった。

 静けさは勝利の合図ではない。

 静けさは、制度が“結果”を選ぶ前の沈黙だ。


 公爵家の女性は、微笑みを作ることすら忘れていた。

 目だけが鋭く、喉だけが動く。

 言葉を探している。逃げ道を探している。

 でも逃げ道は、今この机の上にある文字が塞いだ。


 ――『提供者:公爵家』


 書記官が役人の一人に合図した。

 役人は記録紙を広げ、ペンを走らせる準備をする。

 公の場で“書かれる”ことは、もう覆せない。


「……これは、誤りです」


 公爵家の女性が、やっと言った。

 誤り。

 それは“間違い”ではなく、“なかったこと”にしたい時の言葉だ。


「契約が自動追記するなど、前例が――」


「前例ならあります」


 書記官が淡々と遮った。


「古い契約、強制条項、均衡補強。庁内記録にも残っています。――そして何より、ここに痕跡がある」


 彼は追記の写しを指で叩いた。

 紙が小さく鳴る。

 その音が、裁きの木槌みたいに聞こえた。


 公爵家の女性が朱印台に手を伸ばす。

 更新さえすれば、すべては元に戻る――そう信じている手だ。

 でも、その手が途中で止まった。


 止まったのは、躊躇ではない。

 指が、動かない。


「……?」


 女性は自分の手を見下ろし、眉を寄せた。

 動かそうとする。動かない。

 まるで、見えない糸で指先が縛られているみたいに。


 会場の空気が、ひとつだけ揺れた。

 小さな揺れが、波紋になる。


 契約庁の役人が、女性に向かって形式の声で言った。


「公爵家代表として、確認の署名をお願いします」


 署名。

 公の場に残る証。

 これまで公爵家は、署名する側だった。署名させる側だった。


 女性は笑みを作ろうとし、作れなかった。

 代わりに、短く言う。


「……当然です」


 当然です、と言いながら、手が動かない。

 ペンを取ろうとして、指先が滑る。

 滑るというより、掴めない。

 掴めないのは、紙が悪いのではない。彼女の手が悪いのでもない。

 ――名前が、掴めないのだ。


 私は息を止めた。

 黒紋が、薬指で脈を打つ。

 その脈が、机の上の紙へ向かって流れた気がした。


 書記官が低く言った。


「“提供者”の主体確定に伴い、義務の適用が開始された可能性があります」


 適用。

 義務。

 言葉が、現実を引っ張り出す。


 公爵家の女性の顔色が変わった。

 彼女は自分の喉に指を当てる。

 何かを言おうとしている。

 でも、言葉の先が詰まっている。


「……当主を」


 彼女はやっと言う。

 当主。

 人の名ではなく、肩書で呼ぶ。

 肩書でしか呼べない。

 それが、今起きていることの答えだ。


 侍従が慌てて扉の方へ走る。

 扉が開き、黒い服の男が入ってきた。公爵家当主――あるいはそれに準ずる“制度の顔”。


 男は会場に入るなり、空気の異変を嗅ぎ取った。

 視線が追記の紙へ落ちる。

 赤線の定義条項へ落ちる。

 そして、私へ向く。


 その視線は、初めて“敵意”だった。

 慈善の仮面ではない。

 支配者が、自分の縄張りを荒らされた時の目だ。


「これは何だ」


 当主が低く問う。

 彼の声は、会場の白を切り裂く。


 書記官が形式の声で答える。


「主体確定照会に伴う、契約の追記及び適用です。提供者は公爵家。無償提供義務の主体も同様。――更新手続きは停止」


「停止など許すか」


 当主が吐き捨てた。

 吐き捨てた言葉は、公の場で滑る。

 滑った言葉は、記録される。


 役人がペン先を動かす。

 当主の言葉が、紙に落ちる。

 紙に落ちた言葉は、帰らない。


 当主は朱印台へ手を伸ばし、力任せに押し切ろうとした。

 けれど――手が止まる。

 今度は力で押しても動かない。

 指が、見えない壁にぶつかる。


「……ふざけるな」


 当主が低く唸った。

 唸りは怒りの音だ。

 怒りは、支配が効かない証拠だ。


 その時、役人が形式の声で言った。


「公爵家当主として、署名を」


 当主はペンを取った。

 取ったはずなのに、ペン先が紙に触れた瞬間、動きが止まる。

 文字を書こうとする。

 最初の一画が、落ちない。


 当主が眉を寄せる。

 何度も書こうとする。

 書けない。


 会場の空気が、微かにざわめいた。

 ざわめきは、噂の種だ。噂は支配者を殺す。

 ここは公の場。公の場で“書けない”ことは、致命的だ。


 当主が怒鳴ろうとした。

 けれどその怒鳴りも、途中で止まった。


「――おい、こいつ……」


 こいつ。

 名を呼べない。

 当主が初めて、誰かを名で呼べない側に落ちた。


 私は喉の奥が熱くなるのを感じた。

 因果応報。

 奪った者が奪われる。

 ただ、それを喜びとして味わう余裕はない。私の名も薄い。私もまだ危険の中にいる。


 私は息を吸い、最後の楔を打つ。


「契約は、均衡を保つ」


 私は静かに言った。


「あなたが言った言葉です。均衡なら、奪った側も同じだけ支払うべき」


 当主が私を睨む。

 目だけが怒りで燃えている。

 でも言葉が、形にならない。

 形にならないのは、名が掴めないからだ。


 その瞬間、私はふと、胸の奥が軽くなるのを感じた。

 薄い膜が、少しだけ剥がれた感覚。


 私は思わず、自分の口の中で名を転がした。


「……リュ、」


 音が出た。

 まだ全部ではない。

 でも音が出た。

 私の名が、戻り始めている。


 エイドが私を見る。

 彼の瞳が揺れる。

 彼は今、私が何を言おうとしているのか分かっている。分かっているのに、まだ名を呼べない。悔しさが滲む。


 その悔しさの向こうで、彼は当主を見た。

 守る目だ。

 救われる側の目ではない。選ぶ側の目だ。


 役人が、記録紙の一箇所を指で押さえた。

 当主の署名欄。

 そこだけが、白い。


 白い。

 私の欄が空白だった時と同じ白。

 枠はある。項目もある。

 なのに、肝心の部分だけが抜け落ちている。


 私は息を止めた。

 そして理解した。


 ――最初に消えたのは、当主の“名”だった。

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