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呼ばれない花嫁は、契約の言葉で公爵家を縛る  作者: swingout777


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16/20

契約書を開く

 白い会場の空気が、張り詰めていた。

 追記の四文字が机の上に置かれたまま、誰もそれを“存在しない”ことにできなくなっている。存在しないことにできないものは、制度にとって一番怖い。制度は、存在しないことにできるものだけを扱えるからだ。


 公爵家の女性は、微笑みを保ったまま、朱印台を指先で撫でた。

 撫でる動作が、脅しになる。

 朱が落ちれば、更新が確定する。確定すれば、私の名はさらに削れる。彼女はそれを知っている。知っているから、撫でる。


「……奥様」


 またその札。

 名を呼ばず、札で縛る。

 私はその呼称を、もう憎むことすらしなかった。憎みは燃料になりすぎる。燃料は暴発する。暴発すれば、相手の思う壺だ。


 私は息を吸った。

 喉の膜は厚い。

 けれど今は、言葉の順番がある。順番が私を支える。


 書記官が一歩前へ出た。

 彼は形式の声を出す。感情のない声。感情がない声ほど、公に通る。


「契約庁として、更新儀式の進行を一時停止します」


 一時停止。

 その単語が落ちた瞬間、役人たちの背筋が伸びた。

 制度が自分でブレーキを踏んだ。

 それだけで、場の主導権が微かに揺れる。


 公爵家の女性の瞳が細くなる。

 笑みは崩さない。崩さないことで、主導権を保とうとする。


「停止、とは。儀式は規定に従って進行しております」


「規定に従っております」


 書記官は淡々と返した。


「だからこそ、照会の提示は規定に基づき優先されます。照会の主旨は、定義条項の適用範囲及び主体の確定です。主体が確定しないまま更新を行えば、契約の均衡が崩れます」


 均衡。

 相手の言葉を、こちらが先に使う。

 それだけで、相手の足場が少し削れる。


 公爵家の女性は紅茶でも飲むような仕草で首を傾げた。


「主体など、明白でしょう。救済婚は救う側が主体。エイド様は救われる側。奥様は、契約者として代償を負う側」


 枠を戻す。

 救う側/救われる側/代償側。

 その三角形へ戻したい。戻れば、私の名が消えていくのは“自然”になる。


 だから私は、枠の土台――定義を刺す。


「主体は、定義で決まります」


 私は静かに言った。

 自分の声が自分のものか、一瞬不安になる。

 でも音は落ちた。落ちたなら続けられる。


「救済婚の定義条項。『従属者は受益者の指示に従い、無償で提供する義務を負う』」


 私は契約書の写しを指で示した。赤線の引かれた箇所。

 視線がそこへ集まる。

 名が薄くても、条文はここにある。条文は私を裏切らない。まだ。


「無償提供――その対象が限定されていない」


 私は続ける。順番。定義→適用。


「限定がないなら、受益者が“必要”と言えば何でも提供になる。それは定義ではなく、権力です」


 公爵家の女性が口を開こうとする。

 遮られる前に、書記官が一歩前へ。


「照会文に基づき、利益の固定を示します」


 書記官は用紙を持ち上げ、形式の声で読み上げた。

 名の抹消による社会的存在の弱体化。管理の容易化。支配の安定化。

 言葉が並ぶほどに、会場の白が薄くなる気がした。白は汚れを隠す色だから、汚れの言葉が出れば出るほど、白は機能を失う。


 公爵家の女性は、薄く笑った。


「難しい言葉遊びはおやめなさい。奥様。救済婚は“愛”の形です。あなたが彼を救いたいから成立した。……それでいいではありませんか」


 愛。

 ここで愛を持ち出す。

 愛を持ち出せば、私は感情の人間になる。

 感情の人間になれば、制度は私を切り捨てられる。


 私は一瞬、言葉を失いかけた。

 名が薄い。喉の膜が厚い。

 でも、ここで止まったら負ける。


 エイドが背後で息を吸った。

 彼は今、何かを言いたい。叫びたい。

 でも叫べない。叫べば私の言葉が揺れる。彼もそれを理解している。理解しているから、痛そうだ。


 私は、呼吸を整えた。

 愛を否定しない。否定すると、愛が武器になる。

 愛を土台にしない。土台にすると、愛は奪われる。


「愛は、条文の代わりにならない」


 私は言った。

 淡々と。冷たく。

 冷たさは、今だけ必要な鎧。


「条文で裁く」


 その瞬間、書記官が伏せていた追記の写しへ手を伸ばした。

 彼がそれを机の中央へ滑らせる。

 全員の視線が、紙へ集まる。


 ――『提供者:公爵家』


 空気が、また止まった。


 公爵家の女性の笑みが、ついに薄く割れた。

 割れた隙間から、本音の色が覗く。

 苛立ち。

 そして――焦り。


「そのようなもの、偽造です」


 彼女は即座に言った。

 偽造。人の罪に落とす言葉。


 書記官が、形式の声で返す。


「契約書余白に発生した自動追記の痕跡です。庁として、紙の繊維圧・墨跡を確認しています。――誰かが書いたのではなく、契約が補強したものと判断します」


 判断。

 庁が言った。

 制度が言った。


 公爵家の女性が、朱印台を叩きそうな勢いで指を置く。

 けれど叩けない。叩けば感情が露見する。

 露見すれば、慈善の仮面が剥がれる。


 彼女は、息を整えて言った。


「仮に、それが本当だとしても。提供者が公爵家だとしても。救済婚の主体は変わりません。提供とは、救済のための補助的な義務。従属とは――」


 従属とは。

 彼女は、ここで言葉を組み替えようとしている。

 定義を別の言葉で塗り直そうとしている。


 私は、ここで最後の楔を打つ。


「定義は、定義のままです」


 私は言った。

 声が少しだけ震える。

 震えは、私がまだ人である証だ。


「提供者が公爵家なら、無償提供義務の主体は公爵家。従属者も公爵家。――同じ条項で縛られる」


 言葉が落ちる。

 場が揺れる。

 役人の視線が公爵家の女性へ移る。

 白い会場の中心が、少しだけずれる。


 公爵家の女性の目が、私に向いた。

 初めて“私”を見た目だった。

 札ではなく、人として。

 人として見てしまった瞬間、支配者の目は鋭くなる。


「……奥様」


 その呼称が、今度は刃になった。


「あなたは、本当にお強い。だからこそ、苦しくなるのです。契約は均衡を求めます。抵抗すればするほど、代償は――」


 代償。

 彼女はそれを“脅し”として言う。

 抵抗すれば消える。黙れば楽になる。

 そう言いたい。


 私は息を吸い、指先を机の上へ置いた。

 震えを止めるために。

 そして、最後の武器を使うために。


 私は、契約書を開いた。


 条文が並ぶ頁を、ゆっくりと。

 赤線の引かれた定義条項が見えるように。

 追記が見えるように。

 全員が逃げられないように。


 この場で、言葉の牢を完成させる。

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