表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
呼ばれない花嫁は、契約の言葉で公爵家を縛る  作者: swingout777


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

14/20

見ないでいる

 「更新を」


 その言葉が落ちてから、会場の空気が変わった。

 白が、濃くなる。

 矛盾しているのに、そう感じた。白は薄い色のはずなのに、濃くなる。視界を塗りつぶす。私の輪郭を消す。


 契約庁の役人が、朱印台を机の中央へ寄せた。

 公爵家の女性が優雅に手を添え、儀式の手順を読み上げる。

 その声は、祈りみたいに整っている。祈りはいつだって、誰かを黙らせる。


「更新は、契約の安定化のため。代償の均衡を維持するため。――規定により」


 規定。

 均衡。

 安定化。

 これらの言葉が積み重なるたび、私の喉の奥の膜が厚くなる。


 私は机の端に置いた照会文の束に手を伸ばそうとした。

 指先が、ほんの僅か震えた。

 震えは恐怖ではない。恐怖はもう十分ある。

 これは、存在が薄くなる感覚の震えだ。自分の手なのに、自分の手じゃないみたいな。


 視線が、私を避ける。

 役人の目が、私の顔を通り過ぎる。書類の束を見ているのに、私の手元だけは見ない。見ないというより、“見えないことにしている”目だ。


 公爵家の女性は、私を見ながらも見ていない。

 奥様という枠を見ている。名のない枠。

 枠が薄まれば、枠も見なくていい。彼女にとって私は、最終的には“空白”になるのが正しい。


 私の背後で、エイドの呼吸が荒くなるのが分かった。

 怒りだ。

 怒りが、酸素を奪う。

 怒りが強いほど、彼は自分を壊す。名を呼べないことが、その怒りの出口を塞いでいる。


「……やめろ」


 エイドが低く言った。

 声が震えている。

 彼がこんな声を出すのは、よほどだ。


 公爵家の女性が、微笑みを崩さずに振り返った。


「何を、でしょう」


 何を、でしょう。

 分かっているくせに。

 分かっているからこそ、丁寧に返す。丁寧な言葉で、相手の怒りを“無礼”に変えるために。


 エイドが一歩前へ出かける。

 私は袖を掴んだ。強く。

 掴むことで、彼を止めるためではない。彼を、こちらの手順に戻すためだ。


 エイドが振り返る。

 目が赤い。怒りで、ではない。悔しさでだ。


「……君が」


 彼は言いかけて止まった。

 君、の先が続かない。

 名がない。

 名がないことが、今この場でどれだけ致命的か、彼は理解している。理解しているから、壊れそうだ。


 私は小さく首を横に振った。

 言葉はいらない。ここでは言葉が刃になる。

 代わりに私は、手順を示す。


 私は机の上の書類の束を、順番どおりに並べた。

 照会文(公文形式)。

 契約原本写し(赤線)。

 追記の写し(伏せたまま)。

 父の覚え書き(付箋付き)。


 順番。

 定義→適用→利益→矛盾。

 そして追記。


 並べるだけで、呼吸が少しだけ戻る。

 手順は、私の背骨だ。

 背骨が折れなければ、私はまだ立てる。


 書記官が端から近づいてきた。

 彼の目が、机の上の配置を見て、僅かに頷く。

 ――順番は合っている。

 その無言の合図が、私の心を支えた。


「照会文、読み上げます」


 私は言った。

 声が出る。よかった。

 名が出なくても、声が出る。声が出るなら、言葉を刺せる。


 公爵家の女性が、微笑んだ。


「どうぞ。奥様」


 奥様。

 その呼び方に、私はもう怒りすら湧かなくなりかけている。

 怒りが湧かないのは、諦めではない。怒りを言葉に変える準備だ。


 私は照会文の一枚目を持ち上げた。

 紙が、軽い。軽すぎる。

 まるで、私の手の力が落ちているみたいに。


 読み上げようとした瞬間、喉の奥の膜が厚くなった。

 言葉が出ない。

 出そうとしても、音が紙の手前で止まる。


 私は歯を食いしばった。

 ここで止まるな。止まったら更新される。止まったら空白になる。


 エイドが背後で、息を吸う音がした。

 助けたい音。叫びたい音。

 でも叫べば、負ける。彼もそれを分かっている。分かっているから、音が苦しい。


 書記官が、机の端に指を置いた。

 彼が小さく、形式の声で言った。


「契約庁として、照会を受理しております。読み上げを許可します」


 許可。

 その一言が、喉の膜を少しだけ薄くした。

 制度が、私の言葉に場所を与えた。

 場所があるなら、言葉は通る。


 私は、息を吸った。


 ――定義から。


 そう心の中で繰り返し、照会文の冒頭を目で追う。


『本照会は、救済婚契約における定義条項の解釈及び適用範囲に関するもの――』


 口を開く。

 音が落ちる。

 落ちた音が、自分のものかどうか一瞬分からない。

 でも落ちた。落ちたなら、続けられる。


 その瞬間、周囲の視線が少しだけこちらに集まった。

 見ないでいた目が、手続きとしてこちらを“見ざるを得ない”目に変わる。

 これが、形式の力。


 私は読み上げた。

 定義。

 適用。

 利益。

 矛盾。


 ただし、まだ核心には届いていない。

 核心を出すには、順番がある。

 順番を崩したら、相手は“混乱”として処理する。

 順番を守れば、相手は反論の形を失う。


 私は次の頁へ指をかけた。

 そこで、ふと気づく。


 公爵家の女性の微笑みが、少しだけ薄くなっている。

 彼女は、これはただの儀式では終わらないと分かり始めている。

 分かり始めているから、次の手を打とうとする。


 彼女が、朱印台に指を置いた。

 さりげなく。

 読み上げの間に、更新手続きを進める気だ。

 言葉が遅れれば、朱が先に落ちる。


 私は次の頁をめくった。

 喉の膜が、また厚くなる。

 息が詰まる。


 ――ここで止まるな。


 私は心の中で自分の名を呼ぶ。

 リュシア。

 リュシア。

 リュシア――


 その瞬間、薬指の黒紋が熱を持った。

 まるで「今だ」と言うように。


 私は、最後の武器――伏せていた追記の写しへ、指を伸ばした。


 まだ、出すには早い。

 でも、出さなければ、更新が先に進む。


 指先が紙に触れかけた、その刹那。


 公爵家の女性が、優しい声で言った。


「更新を、先に」


 優しい声ほど、恐ろしい。

 その言葉が、朱印台を押し出す合図になる。


 私は息を吸い、次の言葉を準備した。

 順番どおりに、刺す言葉を。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ