表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
呼ばれない花嫁は、契約の言葉で公爵家を縛る  作者: swingout777


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

13/20

更新を

 扉の向こうは、白かった。

 白い壁、白い天井、白いテーブルクロス。白は正しさの色だ。正しさを名乗る者が、自分の汚れを見ないための色。


 長机の上には契約書が並び、銀の燭台が静かに光っている。

 儀式。

 誰かの人生を縛るための、静かな舞台。


 公爵家の女性――あの慈善の笑みを浮かべる人が、中央に立っていた。隣には契約庁の役人たち。書記官もいる。彼は端の方に控え、手元の書類を整えている。目線だけが、私に「順番を守れ」と釘を刺す。


「ようこそ」


 公爵家の女性は、柔らかく言った。

 柔らかさの裏に、当然がある。更新されるのが当然。私が“奥様”として落ち着くのが当然。そうすれば皆が安心する。そういう当然。


「本日は、更新手続きのためにお越しいただきました」


 お越しいただきました。

 丁寧な言葉ほど、逃げ道を塞ぐ。


 エイドが一歩前へ出ようとした。

 私は袖を掴んで止めた。

 ここで彼が前に出れば、“救われる側”として扱われる。公爵家はそれを待っている。彼を救済の象徴にし、私を代償の影にする。


 私は一歩、前へ出た。

 胸の奥が冷たくなる。

 視線が、私を通り抜ける感覚がある。見られているのに、見られていない。存在が薄い。


 公爵家の女性の視線は、私の肩のあたりで止まった。

 人を見ているのではなく、“枠”を見ている目だ。


「……奥様」


 彼女はそう呼んで、微笑んだ。

 奥様。名のない札。


 私は息を吸い、喉の奥の膜を押し開けるように言った。


「更新の前に、照会を」


 空気が一瞬止まった。

 公爵家の女性の笑みが、ほんの僅かだけ硬くなる。


「照会?」


「定義条項の解釈に関する照会です」


 私は“私”を削った。

 個人の感情に見えないように。

 書記官が整形した形のまま、言葉を置く。


 契約庁の役人が書類を受け取ろうとした、その瞬間。


「おやめなさい」


 公爵家の女性は、柔らかく言った。

 やめなさい。命令なのに、叱るみたいな声。

 慈善の仮面は、命令を優しさに変える。


「儀式の場で、余計なことをすると、契約が不安定になります。……安定化のために、私たちはここにいるのですから」


 安定化。

 またその言葉。

 不安定を嫌うのは、守るためではない。支配を崩したくないだけだ。


 私は視線を逸らさなかった。

 順番を守る。定義から攻める。

 でも、定義を語る前に“場”を奪われたら終わる。


 書記官が一歩前へ出た。

 彼は公爵家の女性に頭を下げ、形式の声で言った。


「照会は、契約者の権利です。規定に基づき、受付いたします」


 公爵家の女性の笑みが薄くなる。

 けれど、すぐに戻る。

 戻るほどに、恐ろしい。


「そう。規定に基づくなら、もちろん」


 彼女は軽く頷いた。


「ですが、儀式は儀式。更新の手続きが先です。照会は、その後でもよろしいでしょう?」


 順番を逆にする。

 更新を先に。

 更新されたら、私は消える。照会の権利すら空白になる。


 私は歯を食いしばった。

 喉の奥が熱くなる。

 声を荒げたい。怒鳴りたい。ここで暴れたら、皆が私を見てくれる。

 でもそれは負けだ。感情として処理される。未熟として片付けられる。奥様として黙らされる。


 だから私は、言葉の順番だけを守る。


「照会が先です」


 私は静かに言った。


 契約庁の役人が困ったように視線を泳がせる。

 公爵家の女性は微笑んだまま、少しだけ首を傾けた。


「奥様。あなたは、とてもお強い」


 褒め言葉の形をした針。


「でも、強い方ほど、苦しくなります。救われるためには、少しの我慢が必要ですから」


 あの言葉。

 救われるための我慢。

 我慢を強いるのが救済の正体。


 私は深呼吸し、机の上に置かれた契約書へ視線を落とした。

 赤い印。黒い文字。白い紙。

 ここで更新されれば、私の名は確実に削られる。


 エイドが、私の背後で息を吸った。

 彼は今、怒りを抱えている。公爵家の言葉が、彼の中の誠実さを踏みにじっている。

 でも彼は、前に出ない。私が止めたからではない。彼自身が“対等”を理解したからだ。


 契約庁の役人が、書記官を見た。

 書記官が小さく頷く。

 そのやりとりが一瞬で終わる。制度の歯車が、ぎりぎりのところで噛み合う音がした気がした。


「……照会は受理します」


 役人が形式の声で言った。


「ただし、儀式進行上、更新手続きと並行で行います」


 並行。

 同時。

 それなら、間に合う。間に合わせる。


 私は、持参した書類の束を机に置こうとした。

 その瞬間、指先が冷たくなる。

 黒紋が脈を打つ。

 喉の奥の膜が厚くなる。


 ――名前が、遠い。


 私はふと、自分の口が、うまく動いていないことに気づいた。

 音は出る。言葉は出る。

 でも、私の中の“自分”が薄い。

 紙の上の空白が、喉へ移ってきたみたいだ。


 公爵家の女性が、ゆっくりと机の端へ手を置いた。

 そこに置かれていたのは、更新用の朱印台。


「では」


 彼女は微笑みを深くして言った。


「更新を」


 その二文字が落ちた瞬間、

 会場の白さが一段増した気がした。

 私の名が、白に溶ける予感がした。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ