扉の前
紙の余白に浮かんだ四文字を、私は何度も確かめた。
『提供者:公爵家』
読み間違えようがない。滲みも、揺らぎもない。契約が自分で書いた言葉だ。ならこれは、私の主張ではなく“制度の口”だ。
私はその写しを、机の上にそっと伏せた。
触れた瞬間に消えたり、意味が変わったりするのが怖い。馬鹿げている。馬鹿げているのに、黒紋が脈を打つたび、世界が不安定になる感覚がある。
名が消えるというのは、こういうことだ。確かなはずのものが、確かでいられなくなる。
「見せて」
エイドの声がした。
私は伏せていた紙をそっと戻し、彼の方へ滑らせた。
エイドは紙を見た瞬間、息を呑んだ。
目が、初めてはっきり光る。怒りでも恐怖でもない。勝ち筋が見えた人間の目だ。
「……契約が」
「うん。契約が書いた」
私は頷いた。
「これを“公の場”で読ませる。書記官が庁の形式に落とす。私たちは順番を守って提示する」
エイドは紙の上の文字を指でなぞりかけ、途中で止めた。
触れない。確定させない。
その慎重さが、胸にしみる。名を呼べなくても、彼は“私の戦い方”を理解している。
「これがあれば、相手は否定できない」
彼が低く言った。
「否定したら、制度そのものを否定することになる」
「そう」
私は短く笑った。
笑う余裕なんてない。でも、笑わないと折れそうだった。
書記官と詰めた手順を、私はもう一度頭の中で並べる。
定義→適用→利益→矛盾。
そして追記――“制度の自白”。
机の上には、準備するものが揃っていた。
照会文(公文形式)、契約原本の写し、父の覚え書き、そして追記が浮いた写し。
これらを更新儀式の場へ持ち込み、庁の人間が“手続きとして”提示する。公爵家の言葉の上で、公爵家の言葉を縛る。
それなのに、胸の奥が冷たい。
勝ち筋が見えても、恐怖が消えない。恐怖の正体は、単純だ。儀式が始まれば、代償が最大化される。私の名は、更新の瞬間に飲み込まれかける。
私は薬指の黒紋を見た。
線はもう、模様ではない。文字だ。
私の名の筆画に寄り添いながら、私の名を奪うための器になろうとしている。
「……今日、勝っても」
私が呟くと、エイドが私を見た。
「勝っても、戻らない部分があるかもしれない」
口にすると、喉が痛む。
でも言わなければ、恐怖に形がない。形のない恐怖は、心を食う。
エイドは一歩近づき、私の手を取った。
強くはない。逃げないための強さ。
私が“守られる側”にならないように、あくまで並ぶように。
「……それでも」
彼は言いかけて止まった。
名が、出ない。
その欠けが、彼の喉を締める。
彼は息を吸い、言葉を選び直した。
選び直す。その姿勢だけで、私は救われる。
「それでも、俺は――」
エイドの目が、まっすぐ私を捉える。
名がなくても、視線が名になる。
「犠牲で救われたくない」
その言葉は、私の言葉だ。
私が何度も繰り返した言葉を、彼が自分の口から言った。
それだけで、胸の奥の硬い部分が少しだけ溶けた。
「……対等に、選びたい」
エイドが続けた。
対等。
彼が初めて、その言葉を自分のものとして口にする。
私は小さく頷いた。
涙は出ない。出したら終わる気がした。代わりに私は、息を吐いて言った。
「うん。一緒に、選ぶ」
その瞬間、薬指の黒紋が脈を打った。
怒っているみたいに。あるいは、反応しているみたいに。
契約が嫌がるなら、なおさら正しい。
――更新儀式当日。
朝、侍女が衣装を整えに来た。
鏡の前で布を広げ、髪を整え、飾りを留める。
いつもなら「リュシア様、こちらを」と言ってくれる手が、今日に限って揺れている。
「……」
侍女の口が動く。
でも音が落ちない。
奥様、という呼称すら出てこない。
喉が詰まり、ただ息が漏れるだけ。
私は鏡越しに侍女を見た。
侍女の目が泣きそうに揺れる。
「大丈夫」
私はゆっくり言った。
「今日は“名前”を取り返しに行く」
言った瞬間、鏡の中の自分の輪郭が少しだけ薄く見えた。
まるで、私自身が“奥様”という札に貼り替えられつつあるみたいに。
廊下を歩くと、使用人たちが頭を下げる。
でも誰も、呼称を口にできない。奥様ですら。
ただ黙って頭を下げる。黙礼。無音の礼。
名が消えると、呼びかけも消える。
呼びかけが消えると、関係が消える。
関係が消えると――人は、いないのと同じになる。
私は足を止めかけ、エイドの袖を掴んだ。
怖い。今この瞬間に、私が消えたら。
勝つ前に、空白になったら。
エイドが私を見た。
口を開く。
名を呼ぼうとして、喉が詰まる。
でも彼は、諦めない。
「……君」
やっと、君が出た。
君でいい。今は君でもいい。呼びかけがあるだけで、私はこの世界に留まれる。
「行こう」
彼が言った。
馬車に揺られ、更新儀式の会場へ向かう。
公爵家の門が近づくほど、薬指の黒紋が熱くなる。
文字が脈を打つ。私の名を飲み込む器が、完成しようとしている。
会場の扉の前に立った。
石の廊下。白い壁。あの応接間と同じ匂い。
扉の向こうには、公爵家と庁の人間がいる。儀式の場がある。更新がある。裁きがある。
書記官が先に立っていた。
彼は私を見る。名は呼べない。けれど、目が言う。
――順番を守れ。定義から攻めろ。
私は頷いた。
息を吸う。
握った拳が震える。震えを止めるために、もう一度だけ心の中で自分の名を呼ぶ。
リュシア。
リュシア。
リュシア――
扉が、ゆっくり開いた。




