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呼ばれない花嫁は、契約の言葉で公爵家を縛る  作者: swingout777


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12/20

扉の前

 紙の余白に浮かんだ四文字を、私は何度も確かめた。

 『提供者:公爵家』

 読み間違えようがない。滲みも、揺らぎもない。契約が自分で書いた言葉だ。ならこれは、私の主張ではなく“制度の口”だ。


 私はその写しを、机の上にそっと伏せた。

 触れた瞬間に消えたり、意味が変わったりするのが怖い。馬鹿げている。馬鹿げているのに、黒紋が脈を打つたび、世界が不安定になる感覚がある。

 名が消えるというのは、こういうことだ。確かなはずのものが、確かでいられなくなる。


「見せて」


 エイドの声がした。

 私は伏せていた紙をそっと戻し、彼の方へ滑らせた。


 エイドは紙を見た瞬間、息を呑んだ。

 目が、初めてはっきり光る。怒りでも恐怖でもない。勝ち筋が見えた人間の目だ。


「……契約が」


「うん。契約が書いた」


 私は頷いた。


「これを“公の場”で読ませる。書記官が庁の形式に落とす。私たちは順番を守って提示する」


 エイドは紙の上の文字を指でなぞりかけ、途中で止めた。

 触れない。確定させない。

 その慎重さが、胸にしみる。名を呼べなくても、彼は“私の戦い方”を理解している。


「これがあれば、相手は否定できない」


 彼が低く言った。


「否定したら、制度そのものを否定することになる」


「そう」


 私は短く笑った。

 笑う余裕なんてない。でも、笑わないと折れそうだった。


 書記官と詰めた手順を、私はもう一度頭の中で並べる。

 定義→適用→利益→矛盾。

 そして追記――“制度の自白”。


 机の上には、準備するものが揃っていた。

 照会文(公文形式)、契約原本の写し、父の覚え書き、そして追記が浮いた写し。

 これらを更新儀式の場へ持ち込み、庁の人間が“手続きとして”提示する。公爵家の言葉の上で、公爵家の言葉を縛る。


 それなのに、胸の奥が冷たい。

 勝ち筋が見えても、恐怖が消えない。恐怖の正体は、単純だ。儀式が始まれば、代償が最大化される。私の名は、更新の瞬間に飲み込まれかける。


 私は薬指の黒紋を見た。

 線はもう、模様ではない。文字だ。

 私の名の筆画に寄り添いながら、私の名を奪うための器になろうとしている。


「……今日、勝っても」


 私が呟くと、エイドが私を見た。


「勝っても、戻らない部分があるかもしれない」


 口にすると、喉が痛む。

 でも言わなければ、恐怖に形がない。形のない恐怖は、心を食う。


 エイドは一歩近づき、私の手を取った。

 強くはない。逃げないための強さ。

 私が“守られる側”にならないように、あくまで並ぶように。


「……それでも」


 彼は言いかけて止まった。

 名が、出ない。

 その欠けが、彼の喉を締める。


 彼は息を吸い、言葉を選び直した。

 選び直す。その姿勢だけで、私は救われる。


「それでも、俺は――」


 エイドの目が、まっすぐ私を捉える。

 名がなくても、視線が名になる。


「犠牲で救われたくない」


 その言葉は、私の言葉だ。

 私が何度も繰り返した言葉を、彼が自分の口から言った。

 それだけで、胸の奥の硬い部分が少しだけ溶けた。


「……対等に、選びたい」


 エイドが続けた。

 対等。

 彼が初めて、その言葉を自分のものとして口にする。


 私は小さく頷いた。

 涙は出ない。出したら終わる気がした。代わりに私は、息を吐いて言った。


「うん。一緒に、選ぶ」


 その瞬間、薬指の黒紋が脈を打った。

 怒っているみたいに。あるいは、反応しているみたいに。

 契約が嫌がるなら、なおさら正しい。


 ――更新儀式当日。


 朝、侍女が衣装を整えに来た。

 鏡の前で布を広げ、髪を整え、飾りを留める。

 いつもなら「リュシア様、こちらを」と言ってくれる手が、今日に限って揺れている。


「……」


 侍女の口が動く。

 でも音が落ちない。

 奥様、という呼称すら出てこない。

 喉が詰まり、ただ息が漏れるだけ。


 私は鏡越しに侍女を見た。

 侍女の目が泣きそうに揺れる。


「大丈夫」


 私はゆっくり言った。


「今日は“名前”を取り返しに行く」


 言った瞬間、鏡の中の自分の輪郭が少しだけ薄く見えた。

 まるで、私自身が“奥様”という札に貼り替えられつつあるみたいに。


 廊下を歩くと、使用人たちが頭を下げる。

 でも誰も、呼称を口にできない。奥様ですら。

 ただ黙って頭を下げる。黙礼。無音の礼。


 名が消えると、呼びかけも消える。

 呼びかけが消えると、関係が消える。

 関係が消えると――人は、いないのと同じになる。


 私は足を止めかけ、エイドの袖を掴んだ。

 怖い。今この瞬間に、私が消えたら。

 勝つ前に、空白になったら。


 エイドが私を見た。

 口を開く。

 名を呼ぼうとして、喉が詰まる。

 でも彼は、諦めない。


「……君」


 やっと、君が出た。

 君でいい。今は君でもいい。呼びかけがあるだけで、私はこの世界に留まれる。


「行こう」


 彼が言った。


 馬車に揺られ、更新儀式の会場へ向かう。

 公爵家の門が近づくほど、薬指の黒紋が熱くなる。

 文字が脈を打つ。私の名を飲み込む器が、完成しようとしている。


 会場の扉の前に立った。

 石の廊下。白い壁。あの応接間と同じ匂い。

 扉の向こうには、公爵家と庁の人間がいる。儀式の場がある。更新がある。裁きがある。


 書記官が先に立っていた。

 彼は私を見る。名は呼べない。けれど、目が言う。

 ――順番を守れ。定義から攻めろ。


 私は頷いた。

 息を吸う。

 握った拳が震える。震えを止めるために、もう一度だけ心の中で自分の名を呼ぶ。


 リュシア。

 リュシア。

 リュシア――


 扉が、ゆっくり開いた。

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