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呼ばれない花嫁は、契約の言葉で公爵家を縛る  作者: swingout777


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矛盾の形

 書記官が差し出した用紙は、薄いのに重かった。

 公に通すための形式。形式は鎧だ。鎧がなければ、私の言葉は“感情”として処理される。感情として処理された瞬間、私は「奥様」へ落ちる。


 契約庁の小さな机で、私は息を整えた。

 書記官はペンを持ち、必要な箇所に線を引きながら淡々と言う。


「まず“定義”。次に“適用”。そして“利益”。最後に“矛盾”です」


 私は頷く。頭の中で、父の覚え書きの文が反響する。

 定義は牢。牢を作った者は、牢の形で裁ける。


「定義条項――従属=無償提供」


 私は声に出して確認した。声は落ち着いている。落ち着いていなければ、言葉が揺れる。


 書記官がペン先で紙を叩く。


「“無償提供”の対象が曖昧。ここが一つ目の矛盾の入口です」


「対象が曖昧だから、受益者が何でも“必要”と言える」


「そう」


 書記官は頷いた。


「そして次。“利益”。受益者が得る利益が固定されていることを示す。期限停止、社会的優位、支配。……今回の場合は」


 彼は言葉を選ぶように間を置いた。


「“名の抹消”によって契約者の社会的存在が弱まり、管理しやすくなる。これが受益者側の利益」


 私は喉の奥が少しだけ熱くなるのを感じた。

 “管理しやすくなる”。言葉にすると、あまりにも露骨で、吐き気がする。

 でも露骨でなければ、通らない。公は残酷なほど具体を求める。


「利益を得た側が、提供者」


 私は言った。


 書記官の目が僅かに細くなる。

 確認の目だ。覚悟の目だ。


「“提供者”と“受益者”の入れ替え。ここがあなたの主張の核になります」


 私は頷いた。


「公爵家は、救済婚を斡旋して利益を得る。名の抹消によって、契約者を“奥様”という札に固定する。固定されれば、契約者は社会的に弱くなる。弱くなれば従属しやすい。従属すれば、公爵家はより多くを得る」


 言葉にするたび、黒紋が微かに疼く気がした。

 契約が嫌がっているのか、私が核心に触れているのか。

 どちらでもいい。疼きは、進めという合図に変えてしまえばいい。


 書記官がペンを走らせる。

 私の言葉を、公文書の形へ整形していく。主語を揃え、語尾を揃え、推測と事実を分け、引用条項を挿入する。

 言葉が、武器になる形へ研がれていく。


「この部分、“私は”を削ります」


 書記官が言った。


「個人の感情に見えないように。主張は“構造”として提示する。あなたが傷ついたことは、ここでは証拠の一部にしかなりません」


 私は唇を噛み、頷いた。

 悔しい。でも正しい。公の場はそういう場所だ。

 泣けば負ける。怒鳴れば負ける。丁寧に刺せば、勝てる。


 書記官が最後に用紙をこちらへ滑らせた。


「これで骨格はできました。更新儀式の場では、相手が“正しさ”を語ります。あなたは“定義”を語る。順番を守ってください」


 私は紙を受け取り、深く息を吐いた。


「ありがとう」


 書記官は、ほんの少しだけ視線を逸らした。

 礼を受け取るのが苦手な人間の反応だ。

 けれど彼は最後に言った。


「……間に合うように」


 それは祈りに近かった。


 屋敷に戻ると、空気がさらに薄くなっていた。

 薄い、というのは比喩ではなく、感覚だ。廊下の音が遠い。香りが弱い。視線が滑る。

 私の名が消えるほど、世界は“私を無視しやすく”なる。


 侍女が廊下で私を見つけ、駆け寄ってきた。古参の、私を子どもの頃から知っている侍女だ。


「……お、お……」


 彼女は呼ぼうとして、止まった。

 喉が詰まり、涙が浮かぶ。

 呼べないことが、自分のせいだと思っている顔だった。


「大丈夫」


 私はすぐに言った。


「あなたが悪いんじゃない。……これは、契約のせい」


 侍女は首を振る。必死に振る。


「違います……! 私は……私は、ちゃんと……!」


 彼女は言おうとする。言おうとするほど、喉が詰まる。

 その苦しさが、私の胸を締め付けた。


 私は彼女の手を握った。

 強く握る。体温で繋ぐ。


「私の名は、リュシア」


 私はゆっくり言った。

 聞こえるように。世界に落ちるように。


 侍女の瞳が大きく揺れた。

 そして、涙がこぼれた。


「……リゅ、」


 言いかけて、止まる。

 彼女は口を押さえる。悔しさで顔が歪む。


 私は首を横に振った。


「いい。今はいい。……取り返すから」


 取り返す。

 その言葉が、侍女の肩を少しだけ落ち着かせた。


 夜、私は書庫で再び父の覚え書きを開き、書記官が整形した文面と照らし合わせた。

 言葉の順番。定義→適用→利益→矛盾。

 矛盾は“怒り”ではなく、“構造”として提示する。


 私は机の上に契約書の写しを広げた。

 赤線の引かれた条項。

 そして、その横に置いた公文書の骨格。


 その瞬間、薬指の黒紋が熱を持った。


 私は息を止め、手袋を外した。

 黒紋が脈を打っている。

 脈が、指先だけでなく、紙へ向かって流れているような感覚がした。


「……何?」


 私は囁く。


 次の瞬間、契約書の写しの余白に、薄い影が滲んだ。

 インクではない。紙の繊維が、濡れたみたいに暗くなる。

 文字が浮かび上がりかけている。


 私は指を伸ばしかけて、止めた。

 触れたら、確定してしまう気がした。契約が勝手に“追記”する。

 追記された言葉が、私の名を飲み込むための言葉なら――


 紙の上の影は、ゆっくりと線を作ろうとしていた。

 まだ読めない。

 けれどその筆致は、黒紋と同じだ。


 私は拳を握った。


「……勝手に書かせない」


 その言葉と同時に、影が一瞬だけ濃くなり、そして――消えた。


 消えた、というより、引っ込んだ。

 次はもっと深く出てくる、と言わんばかりに。


 薬指の黒紋が、返事をするように、脈を打った。

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