表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
呼ばれない花嫁は、契約の言葉で公爵家を縛る  作者: swingout777


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

1/20

救済婚の署名

 救われる、という言葉はいつだって綺麗だ。

 汚れた手のひらを隠すのに、こんなに都合のいい布はない。


 王都の契約庁舎は、冬の終わりの冷気を抱えたまま沈黙していた。石壁は湿り、廊下に立つ像はすべて同じ方向を向き、同じ表情で口を閉ざしている。ここでは、人の人生が紙一枚の厚さで量られる。泣く者も叫ぶ者も、最初の数回はいるのだろう。けれど次第に、皆が同じ静けさに染まっていく。声を出すだけ、損だと理解するから。


 待合の長椅子に座る人々は、目の焦点が合っていない。腕の中で眠る幼子の頬を撫で続ける女。書類を握り潰す男。膝の上で指を組んだまま、動かない老人。

 その全員に共通しているのは――「急いでいる」ことだ。救済、執行、更新、取消。呼び出し札の数字が増えるたび、誰かの期限が削られていく。


 私は、手袋越しに指先を握り締めた。

 緊張ではない。怒りに近い。


 何に?

 この場所に。

 「救済」という言葉を盾にして、人を縛る仕組みに。


 隣に立つエイドは、鎧を外されても背筋を崩さなかった。騎士らしい、と言えばそれまでだけれど、あれは姿勢というより、癖だ。誰かの視線がある場所では、弱さを見せることができない――そんなふうに体が覚えている。


 彼の手は、冷たかった。

 握りしめているわけでもない。ただ、白い紙束の角を押さえる指が、微かに震えている。


「……リュシア」


 私の名を呼ぶ声は、低くて、ひどく遠い。

 まるで、もうこの世の外から届いているみたいに。


「大丈夫」


 私は短く返した。

 大丈夫なはずがない。けれど、ここで「大丈夫じゃない」と言ったら、私たちは前に進めなくなる。前に進めなければ、期限が勝つ。


「次の方。番号、四二番」


 機械みたいに淡々と呼ばれて、私は立ち上がった。

 受付の向こう、書類の山の奥にいる書記官は、顔を上げずに言った。


「救済婚の申請ですね。被救済者は?」


 私は一歩前に出て、はっきり告げる。


「エイド。期限は今月末まで」


 ペン先が一度止まり、再び動き出した。

 書記官のまぶたがわずかに上がる。遅れたら終わる、という数字だと理解したのだろう。


「……確認します。救済婚契約は、被救済者の“期限”を停止し、代わりに婚姻関係を成立させます。契約期間は原則一年。途中解消は――」


「できない」


 私が言い切ると、書記官が初めて顔を上げた。

 目は薄く、疲れている。何百何千と同じ説明を繰り返してきた目だ。慈悲も怒りも、もう出し尽くしてしまった目。


「ご理解が早くて助かります。では、条項の確認に入ります」


 差し出された紙束は、思ったより分厚かった。

 私は受け取り、ページをめくる。印刷された文字が淡い墨のように滲んで見える。ここに並ぶのは、愛の言葉ではない。損得と拘束と、そして――犠牲の言葉だ。


 視界の端で、エイドが唇を噛んだ。

 彼はこの契約を望んでいない。だが、望まなくても期限は容赦なく迫る。期限は「望み」では止まらない。


「条項一。救済の対象は被救済者の期限停止。条項二。救済の継続は契約期間中に限る。条項三……」


 書記官の声が続く。

 私は黙って読む。読むしかない。知らずに署名するのは、死ぬより怖い。知らずに縛られることほど、惨めなことはない。


 条文の中ほどに、「従属」という単語があった。

 救済婚においては、双方が一定の義務を負う。生活、扶養、身元保証、そして――“救済”の継続。


 そこまでなら、まだ分かる。

 問題は、その次だ。


『従属者は、受益者の指示に従い、無償で提供する義務を負う』


 無償。提供。義務。

 どれも、優しい言葉をまとっていないのに、文章全体は丁寧で上品だ。誰かの人生を縛る言葉ほど、丁寧で上品に整えられる。


 私は息を吐いた。

 読め。確認しろ。後で泣いても、ここでは泣くな。


 エイドが少し身を乗り出した。


「……そこまで読む必要はない。俺が――」


「読む」


 私は短く返した。

 読まないと、後で取り返しがつかない。

 それに私は、彼のために“目を閉じる”ことだけはしたくない。救うなら、ちゃんと救う。見ないふりの救いは、支配の入口だ。


 ページをめくるたび、指先が乾く。

 紙が冷たい。冷たい紙が、人の体温を奪うみたいに。


 最後のページに、署名欄がある。

 その横に、朱の印を押す場所が二つ。契約者の数だけ、印が必要になる。


 そのさらに下に、目立たない字で、追記があった。


『代償:名の抹消』


 一瞬、視界が白くなった。

 名? 抹消?


 私の家は、古い。古すぎて、呪いの類の言葉を「物語」ではなく「規約」として扱う家だった。

 契約には、代償がある。そんなの、子どもの頃から叩き込まれている。けれど、名を抹消する代償なんて――


 喉の奥が冷たくなる。

 名を消すとは、どういう意味だ。


 戸籍から? 記録から? 呼称から?

 人の「名」は、ただの音ではない。呼ばれることで、存在が固定される。誰かの口から出ることで、世界に留まる。


 名を抹消されるということは、世界から滑り落ちるということだ。


「署名の前に、最終確認です」


 書記官が事務的に言う。


「この契約は、あなたが彼を救う代わりに、あなたに相応の代償が発生します。救済婚は慈善ではありません。交換です」


「知ってる」


 私は返した。

 慈善の顔をした交換ほど、嫌いなものはない。


 エイドが一歩、前に出た。

 机の上に両手をついて、私を見る。そこには恐怖があった。自分が救われる恐怖。私が何かを失う恐怖。


「リュシア。俺のために、君が――」


「消えない」


 私は言い切った。

 言葉にした瞬間、自分の中の何かが硬く固まるのを感じた。


「私は、私のやり方で救う。犠牲じゃない。対等として選ぶ」


 書記官が目を伏せた。

 同情でも嘲笑でもない。慣れた沈黙だ。


 私はエイドの視線から逃げずに、逆に問う。


「エイド。あなたは、どうしたいの」


 彼の喉が上下した。

 答えは分かっている。生きたい。死にたくない。けれど彼は、その言葉を言うことに罪悪感を抱いている。自分の命のために、誰かが代償を払うことが許せないのだ。


「……生きたい」


 絞り出すような声だった。


「君と――」


 そこで言葉が止まる。

 言おうとしたのは「生きたい」ではない。たぶん「君と生きたい」だ。けれど、彼はそれを言う資格がないと思っている。だから止まる。


 私は、その止まり方に、腹が立った。

 彼にではない。彼にそう思わせる世界にだ。


「なら、生きる」


 私は決める。

 誰かが決めないと、期限は勝つ。


「では……署名を」


 羽根ペンが差し出される。

 私はペンを取った。インクの匂いが鼻を刺す。古い匂い。誰かの人生を何千も塗りつぶしてきた匂い。


 私は自分の名を書く――はずだった。


 瞬間、指先が冷たくなった。

 紙の上に置いたペン先が、わずかに震える。理由は分からない。怖い? 違う。怖いのは当然だ。これは、それとは別の、もっと生理的な異変だ。


 それでも私は書く。

 自分の名を。生きてきた証を。これからも生きるために。


 インクが紙に触れた瞬間だった。


 薬指に、熱が走った。

 皮膚の奥から何かが伸びる感覚。黒い糸のような、墨のような、冷たいものが血管に沿って這う。


「――っ」


 思わず手を引く。

 そして見た。


 私の指に、黒い紋が浮かび上がっていた。

 細い線が絡み、まるで文字になろうとしている。契約の印。救済の印。――それは、祝福の形をしていない。刃物で皮膚に刻んだみたいな鋭さがあった。


 エイドが息を呑む音がした。


「リュシア……」


 書記官のペンが止まる。


「……反応、出ましたね」


 淡々とした口調なのに、その一言だけ妙に重い。

 反応。出るのが前提? つまり、この紋は誰にでも出るものではない。出る人間を選ぶ。――選ばれるのは、何のためだ。


「これは、普通ですか」


 私が問うと、書記官は首をわずかに傾けた。


「普通かどうかは、立場によります。救済婚は“契約”です。契約は、成立した時点で刻印されます。……ただ」


 その「ただ」が、いやに長い。

 私は黙って続きを待った。エイドも動かない。動けない。


「刻印が“文字”に寄るのは、珍しい」


 文字。

 私は自分の指を見る。黒紋は確かに、ただの模様ではない。何かを、書こうとしている。


 名の抹消。

 代償。

 従属。無償提供。


 さっき読んだ言葉が、喉の奥で反芻される。


 私は、息を吸う。

 震える指先を、もう一度ペンに乗せた。


 救うために。

 一緒に生きるために。

 そして何より――“消える救い”を選ばないために。


 私は署名欄に、迷いなく名前を書いた。

 書いた瞬間、黒紋が脈打つ。皮膚の奥で何かが「成立」を告げる。


 次に、エイドが署名をする番だ。

 彼はペンを取った。けれど、私の指を見て、わずかに手が止まる。


「……代償が」


「分かってる」


 私は言った。

 分かってる。分かっているから、ここで終わらせるわけにはいかない。


 エイドが署名を終える。

 最後に朱印。彼の印が押され、次に私の印が押される。


 朱が紙に染みた瞬間、黒紋が一段深く沈んだ。

 痛みはない。代わりに、冷たい確信が皮膚を撫でる。


 ――もう戻れない。


 書記官は紙束を揃え、一本の紐で結び、判を押した。


「契約成立。被救済者の期限停止は、即時に反映されます」


 それは「助かった」と同義の言葉のはずだった。

 なのに私は、胸の奥が重く沈むのを止められない。


 エイドが息を吐いた。

 張り詰めていた糸が少し緩む。彼の肩が、ほんのわずか落ちる。救われた実感が、遅れてきたのだろう。


 そして彼は、私を見て――言った。


「……君の、名前は」


 たぶん彼は、最初から言おうとしていた。

 契約が成立したその瞬間に、いちばん確かめたいことを。


 けれど、その問いかけは、奇妙な空白を含んでいた。

 私は答えようと口を開いたのに、喉の奥で音が引っかかる。


 名乗れない。

 そんなはずはない。さっき署名した。私は書いた。私は――


 けれど音だけが、出ない。


 エイドの眉が僅かに寄る。

 彼は困惑している。自分が何を問うているのかすら、分からなくなっている顔だ。


 私は、息を整えた。

 ここで崩れたら、終わる。契約の勝ちになる。公爵家の仕組みの勝ちになる。


 だから私は、笑う代わりに言葉を選んだ。


「……後で。必ず言う」


 エイドが頷こうとする。

 その瞬間、私の指先の黒紋が、まるで返事をするみたいに脈を打った。


 黒い線は、ゆっくりと文字の形へ寄っていく。

 ――私の“名”を、飲み込むために。


 私は、指を握り締めた。


 救うために。

 一緒に生きるために。

 そして、犠牲ではない形で生きるために。


 黒紋が、私の指へ、さらに深く食い込んだ。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ