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第四章 炎神の顕現

その日、第三隔壁の監視塔から緊急の伝令が飛び込んできた。

「大型トロール100体、オーガ120体の大部隊を確認! 第三隔壁までの到達予測時間、約140分!」


リゲルは一瞬、息を呑んだ。今までの小競り合いとは次元が違う。

それは「侵入」ではなく、壁そのものを押し潰さんとする「軍勢」そのものだった。

「…馬鹿な!今の戦力で、そんな大軍は……」

額にじっとりと冷たい汗が浮かぶ。


アンタレスが震える声で叫んだ。

「リゲル様! 通常の迎撃では一刻も持ちません。……祭壇へお急ぎください!」

彼女は大総統府へ向けて、緊急事態を告げる黒の信号弾を打ち上げた。

それを受け、大総統府へと直通する緊急用城門が重低音を響かせて開く。


市民の罵声が届かない、石壁に囲まれた無人の通路。

リゲルは愛馬を駆り、その暗い回廊を疾走した。

馬蹄が石畳を叩く音だけが、早鐘を打つ自らの心音と重なり、焦燥を煽った。


祭壇の間は、冷たい石壁に覆われ不気味なまでの静寂を保っていた。

中央の祭壇に跪き、リゲルは両手を合わせた。

声は掠れていたが、決意は固かった。

「至高の炎神、エセリアルよ。

血の盟約により定めし力を、今ここに顕現し給う!」


その瞬間、祭壇から膨大な魔力が噴き上がった。

空気が震え、熱風が渦を巻き、祭壇の間が赤く輝き始める。


虚空が裂け、炎の渦が爆ぜた後…そこには、人型の炎神が顕現されていた。


その巨躯は50もの燃え盛る星々を纏い、まるで太陽のごとき眩い光を放っている。

エセリアルは地上を、そこに這いつくばる人間たちを、光さえも焼き尽くすような熱を撒き散らし、天を駆けた。


第二隔壁の空を翔ぶ炎神に、平和に慣れきった市民たちは、空を仰ぎ絶叫し、悲鳴を上げて逃げ惑った。


第三隔壁へ到達したエセリアルが、ゆっくりとその視線を落とす。

その目は、魔族たちを軍勢としてすら認識せず、まるでゴミを見下ろすような冷徹さを伴っていた。


嘲笑を浮かべていた魔族たちの顔が、一瞬で青ざめる。

「ひぃっ……! エ、エセリアルだぁ!」

「ば、化け物だ……!」


巨体が後ずさり、棍棒が地面に落ちる音が響く。

トロールの指揮官が叫んだ。

「撤退! 全軍撤退だぁぁ!」

魔族たちは、散り散りに逃げ去った。

その背中には、飢えよりも深い「根源的な恐怖」と、決して抗えぬ神への呪詛が滲んでいた。


「……くだらん。我に見据えられただけで敗走とはな」

祭壇へ戻る炎神に、リゲルは膝をついたまま息を吐いた。


「助かった……ありがとう、エセリアル。あなたがいなければ、とても守り切れなかった」


炎神は僅かに視線を向けただけで、言葉もなく虚空へと消えていった。

次第に祭壇の熱が引いていく。

あとに残されたのは、静寂と、リゲルの荒い息遣いだけだった。


数多の命を、一滴の血も流さずに退けた。

これは最良の結果のはずだった。

だがシキシマの街では、すでに冷ややかな声が上がり始めていた。

第二隔壁の市民の声は、鋭くリゲルたちの背中を刺した。


「あんな化け物を街の上に飛ばすなんて!」

「奴は何もしなかったじゃないか。脅かしただけで我々の命を消費したのか!」


リゲルは無言で宿舎へと戻った。

仲間たちも、疲弊した顔で続く。

誰もが、言葉を失っていた。


宿舎の門前近くにある広場には、数十人の人々が集まっていた。

また、抗議の声だろうか…?

暗澹たる気持ちが、更に重く沈む。


その間から、小さな影が駆け寄って来た。

まだ10歳にも満たない少女だった。

彼女は息を切らせながら、リゲルの前に立ち、小さな手を差し出した。


「おじさん、これ……」

ライフジェムだった。

正午の鐘からまだ1時間しか経っていないのに、 少女のジェムはすでに満杯になり、赤い光を湛えていた。

自らの意志で命を注いだのだろう。


「ずっと前から、何かお礼がしたいなって思ってたの…。これ、使って」

少女の無垢な笑み。


リゲルは少女の献身に心打たれながらも、彼女の手をそっと包んだ。

「……ありがとう。でも、これは君の命だ。大切に取っておいてね」


少女は首を振った。

「でも、おじさんたちがいつも守ってくれてるのに…」

言葉を詰まらせ、少女は涙を浮かべた。


門前の広場から、続々と市民が集まってくる。

それは、共に魔族の恐怖を知っている第三隔壁の市民たちだった。

彼らは騎士団の帰りを待っていたかのように、温かいミルク粥の入った鍋をいくつも運んで来た。


「皆さん、今日もお疲れ様です」

一人の女性が優しく微笑む。

「私たちは、皆さんのおかげで今日も救われました…。 少しで申し訳ないのですが、せめて温かいものでも召し上がって下さい」


粥の甘い香りが、冷え切った空気を優しく満たしていく。

他の市民たちもお互い声をかけ合いながら、粥を配り始めた。


「いつも応援してます!」

「本当にありがとうございます…!」


リゲルは少女のライフジェムを優しく押し戻し、 粥の碗を手に取った。

心の奥底に刺さった、硬い棘が溶けていくようだった。


(俺たちの努力は、無駄じゃなかった。 認めてくれる人たちが、こんなにもいるじゃないか! )

自分を呪う数万の声よりも、第三隔壁の人たちの、不器用だが本物の感謝が胸に響く。


(この人たちを守るためなら、どんな誹りも喜んで受けよう。 彼らにとって、俺たちが最後の壁なのだから……!)

無垢な笑顔と、温かな粥を前に、

リゲルは静かな誓いを胸に秘めた。

宿舎の門前、夕闇の中に、確かな光が差し込んでいた。

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