第三章 光の代弁者
騎士団がトロールを退け、鉄の匂いと泥に塗れて宿舎へ帰る道すがら――。
夕闇の迫る路地に、一人の老人…プロキオンが立ち塞がった。
絹のローブを纏い、白髪を端正に整えたその姿は、泥まみれの最前線に不釣り合いなほど気高い。
プロキオンは、かつて『双魔の冬』で武勲を上げた英雄だったが、現在は騎士団解体を叫ぶ政党『倫理の光』党首となっていた。
「リゲル。またトロールたちの命を奪ったのか?」
その声は静かだが、ひび割れた鐘のようにリゲルの鼓膜を打った。
「……隔壁を越えたトロールを退けただけです。専守防衛の義務として」
リゲルは目を伏せ、短く答える。
「退けた? 違うな。お前は彼らの身体のみならず『心』までも焼いたのだ」
プロキオンが一歩踏み出す。その瞳の奥に、暗い炎が揺れた。
「お前は私を、戦いを知らぬ理想主義者だと思っているのだろう。……だがな、私もかつては騎士だった。お前と同じように、この国を守ることに命を懸けていたのだ」
プロキオンの言葉と共に、情景が歪む。
彼の記憶の中にある『双魔の冬』は、今の小競り合いとは比較にならない地獄だった。
血で血を洗うような戦いが、彼の日常だった。
「……捕虜のトロールに、温かいスープを振る舞ったことがあった」
プロキオンの視線は、もはやリゲルを見ていなかった。
数十年前に焼かれた、泥濘の戦場を見つめている。
「彼らは、震える手で木皿を受け取り、スープを啜って泣いたよ。『美味い、美味い』とな。そして言った。『俺も人間と戦争なんてしたくない。前みたいに、皆で笑って暮らしたい』と。……その涙は、我々と同じ、透明な雫だった」
プロキオンの手が、小刻みに震える。
「だが、そんな彼らが故郷でどんな暮らしをしていたか知っているか? 飢えた我が子に、木の根を煮た汁を飲ませ、死を待つだけの日々を送っていた。……彼らは悪魔じゃない。ただ、奪わねば死ぬほどに追い詰められた、哀れな隣人だったのだ」
「……ですが、プロキオンさん…」
リゲルが遮ろうとするが、プロキオンの声はさらに熱を帯びた。
「戦い抜いて故郷に戻った私を待っていたのは、英雄の凱旋ではなかった。焼けた家と、物言わぬ遺体になった家族……そして、大総統府から投げ渡された、血に汚れた金貨五枚だけだ。……私の剣が奪った命も、私の家族の命も、この国にとっては、金貨五枚の価値もなかったのだよ!」
リゲルは言葉を失った。プロキオンの背負う絶望は、今のリゲルには想像も及ばないほど巨大なものだった。
「リゲル。殺し合えば、憎しみの種が撒かれるだけだ。今こそ対話が必要なのだ。壁を挟んで睨み合うのではなく、同じテーブルでパンを分かち合う……それが唯一の、真の平和ではないか?私は、もう誰一人として、あの日の私のようにしたくないだけなのだ」
沈黙が路地を支配する。
二人はどちらも、真に平和を願っていた。
だが、プロキオンは「失われた過去」を癒そうとし、リゲルは「崩れゆく今」を支えようとしている。
その道は、決して交わらない。
「……プロキオンさん。あなたの悲しみは、痛い程分かります」
リゲルは、ようやく声を絞り出した。
「俺だって、本当は剣を置きたい。だが、魔王が壁の向こうで牙を研いでいる限り、私は剣を振るわなければならない。……それが、私の背負った責務なのですから」
プロキオンは小さく、首を振った。
「悲しい子だ、お前は」
去りゆく老紳士の背中は、夕闇に溶けていく。
リゲルは、熱を失いかけた胸元のライフジェムに手を当てた。そこには、奪った命の重みと、市民たちの命の拍動が、不気味なほど冷たく同居していた。




