第十二章 碧き旅路
革命の熱気から数刻後。
城壁外へと続く運河の門前には、聖衛騎士団所有の大型帆船が何隻も、暗い水面に揺れていた。
「皆、積荷の点検は終わったか? 間もなく出航だぞ!」
リゲルの声には、騎士団長としての重圧を完全に脱ぎ捨てた、穏やかな響きがあった。
鉄の鎧も鋼の剣も、今は羽根のように軽く感じられる。
「すべて滞りなく完了しましたわ。食糧、水、当面の生活用品。……それに、皆の『覚悟』もね」
アンタレスが少し悪戯っぽく笑う。
そこにはもう、戦場を戦い抜いた厳しい表情はなく、柔和で優しい笑みが浮かんでいた。
「……アンタレスも、そんな顔で笑うんだな。初めて見たぞ」
リゲルが少し照れくさそうに言うと、アンタレスは目を細めて返した。
「そうですか? リゲル様こそ、額の皺がなくなりましたけど?」
二人は顔を見合わせて、くすっと小さく噴き出した。
船の甲板には、騎士団の面々の他、少女やリゲルを肯定した沢山の人々がいた。
彼らは住み慣れた家を捨て、まだ見ぬ明日への不安を抱えながらも、リゲルという一人の人間を信じる道を選んだ。
「おじさん! 見て、ぬいぐるみもちゃんと持ってきたんだよ!」
少女の屈託のない笑顔が、皆の心を温かくする。
船が重い門を抜け、シキシマが遠ざかり始めたその時――。
突如として、海上の虚空が裂けた。
凄まじい熱風が吹き荒れ、エセリアルがその姿を現した。
燃え盛る巨躯が、夜の海を昼のように明るく照らす。
「……人間とは、かくも理解し難い生き物だな。ある者は平和のために剣を振るい、ある者は平和のために剣を捨てる」
無機質で圧倒的な声が、鼓膜を震わせる。
リゲルは甲板の縁に立ち、神を仰ぎ見た。
「エセリアル……盟約は終わったはずだ。我らに何の用だ?」
炎神は、その燃え盛る五十の星をリゲルに向け、静かに告げた。
「リゲルよ、ひたすら南へと進むがいい。激しい荒波に守られたその先に、温暖な島がある。清涼な水が湧き、果実が実り、そして『神』を必要とせぬ地だ。辿り着けるかどうかは……お前たち次第だがな」
エセリアルはその熱気を和らげると、去り際に、一瞬だけ口角を上げたように見えた。それは神が初めて見せた、契約を超えた「親愛」の証だったのかもしれない。
光が消え、海上には再び深い闇が降りた。
リゲルは南の空を見据える。
ふと振り返れば、遠ざかるシキシマの灯りが見えた。
もう二度と戻ることのない、愛する故郷。
風に乗って、微かな残響が聞こえてくる。
それは、重荷を捨てた喜びに満ちた祝杯の音か。
あるいは理想が砕け散り、現実に気づいた者たちの悲鳴か。
「ねえ、おじさん……シキシマは、これからどうなるの?」
少女の無垢な問い。
「……どうなるかは、わからない。シキシマの皆は、自分の信じる道を選んだんだよ。…だから俺たちも、俺たちの信じる道を歩もう」
リゲルは悲しそうな笑みを浮かべつつ、少女の頭を優しく撫でた。
リゲルは他の船に号令を出し、一斉に南へと舵を切る。
帆が風を孕み、船は暗い波濤を越えて加速していく。
シキシマという、抑止力に守られた揺り籠は、もう闇に溶けて見えない。
心地よい夜の海風が、新天地を求める人々を、優しく包み込んでいった。




