第十一章 落日の椅子
大総統府は、もはやかつての威厳は完全に失われていた。
数カ月前の大破壊がもたらした、炎神への恐怖。
無尽蔵に消費される魔力。
騎士団や城塞の膨大な維持費。
遂に国民の不満が頂点に達し、次第に大総統府に向けた暴動へと発展していったのだ。
炎神との盟約破棄・城塞や騎士団の解体が決定するや否や、高官たちは先を争うように他国へと亡命していき、遠くからは「自由」を叫ぶ民衆の地鳴りのような歓声が聞こえてくる。
リゲルは、大総統執務室の重い扉を開いた。
そこには、窓から差し込む夕光を浴びて、大総統レグルスが一人、公文書にサインをしていた。
「リゲルか。港の準備はどうだ?」
「ほぼ完了しております。…レグルス様、あなたも私と同じくこの国に命を捧げて来られました。これからも、共に同じ道を歩みましょう!」
レグルスは手を止め、静かに語った。
「儂は先代から、この歪な三重の檻を引き継いだ呪いそのものだ…。お前たちの新天地に伴う資格はない。それに、あそこに集まっている民衆を見てみろ。彼らには、憎しみをぶつける相手が必要なのだ。儂がここに残り、旧時代の象徴として断罪されることで、彼らは清々しく新しい時代を始められる」
穏やかな、しかしどこか寂しげな微笑を浮かべた。
「リゲル、プロキオンは悪人ではない。彼はただ、誰よりも平和を、人間を信じたいだけなのだ。儂は彼の理想を、このシキシマという檻で守ってやることしかできなかった。……これからは、お前たちが自分たちの手で、その先を証明してみせてくれ」
外で一際大きな歓声が上がった。城門が突破されたのだ。
リゲルは、深く、長く頭を下げた。言葉にならぬ感謝と訣別を込めて。
リゲルが裏口へと消えて数十分後、執務室の扉が勢いよく開き、プロキオンを先頭に市民たちがなだれ込んできた。
レグルスが1人、大総統の椅子から静かに立ち上がった。
「……プロキオン。先日、エセリアルとの盟約の破棄、並びに城塞と騎士団の解体が正式に閣議決定された。これがその公文書だ」
「……終わったんだ。ついに…」
プロキオンは震える手で、その公文書を受け取った。
彼の脳裏には、かつてトロールと笑い合った幼き日と、凄惨な殺し合いの中でトロールたちが見せた善性がよぎっていた。
彼は、大総統府の窓の下に集まる数万の群衆を見下ろした。皆、これから始まるであろう輝かしい生活と「自由」という甘美な響きに酔いしれている。
「……市民諸君!」
プロキオンは窓を開け、力強く声を張り上げた。
「シキシマから暴力の時代は去った! エセリアルとの盟約は破棄され、ライフジェムに命を削る日々も終わりを告げた! 壁もなく、武器もなく、ただ隣人を愛する心で成り立つ、真の平和な国を創ろうではないか!」
大地を揺らすような、万雷の拍手が巻き起こった。
プロキオンの瞳には、理想郷の幻視が浮かんでいた。
大総統府歴1295年。
長きに渡って続いた、城塞国家としてのシキシマの歴史は、遂に終わりを告げた。




