第二章:最初の試練と守り人の葛藤
1.不協和音の残響
ハルカとの買い物から数日後も、巫女は彼女の黒いペンダントと、時折見せる冷たい視線のことを考えていた。ハルカはその後も、クラスの壁を越えて巫女に話しかけてきた。彼女の会話は普通で、流行の話題や学校生活の愚痴など、ごく普通の女子高生のものだ。だが、時折、剣の話になると、ハルカの口元が微かに引きつるのを巫女は見ていた。
「伊邪那岐君って、どこか近づきがたいよね。あんなに目立つのに、誰とも深く付き合わない感じ」
ハルカはそう言うが、巫女の目には、それが**『近づきたくない』ではなく、『近づけない』、あるいは『近づいてはならない』**という強い感情に裏打ちされているように見えた。
巫女は、自分の胸の**「キュンキュン」という高鳴りが、ハルカの「ドロドロ」**とした闇と、全く別の感情でありながら、同じ「伊邪那岐 剣」という一点で結びついていることに、混乱を感じていた。
(剣は、私の運命の人かもしれない。でも、ハルカちゃんにとって、剣は憎しみの対象のような感じ?)
放課後、剣と二人きりになる機会があった。教室で次の授業の準備をしていると、剣が巫女の席にやってきた。
「ラーメン屋、辞めたのか?」剣は少しぶっきらぼうに尋ねた。
「え? 辞めてないよ。最近は仕込みの手伝いとか、夕方から入ってる」
「そうか」
会話はすぐに途切れた。剣はスマホを見ているが、その視線は定まっていない。巫女のペンダントが微かに温かくなった。
「ねぇ、剣」巫女は勇気を出して切り出した。「私、最近ハルカちゃんと仲良しなんだ。隣のクラスの伊邪那美ハルカちゃん」
剣の手が一瞬、止まった。
「……そうか」剣は視線をスマホから上げず、声のトーンも変えなかった。しかし、その肩の力が、目に見えて硬くなったのを巫女は見逃さなかった。
(やっぱり、この二人の間には、何かある)
巫女は、自分の直感と、ペンダントが示す**「良くない気」の反応が、伊邪那岐家と伊邪那美家の間に流れる千年の怨念に関わっていることを、まだ正確には理解していなかった。彼女の頭の中は、剣がハルカに冷たい態度をとっていることへの嫉妬と、剣を守らなければという使命感**でいっぱいだった。
剣は結局、何も語らなかった。彼はスマホをポケットにしまうと、「じゃあな」とだけ言って、足早に教室を出て行った。巫女の胸には、解けない謎と、彼の態度に対する小さな痛みだけが残った。
2.学園の裏での事件
その日の夜、ラーメン屋でのバイトを終え、寮へと戻る途中。巫女の首元のペンダントが、初めて母の死の時と同じように、そして都会に来て以来最も濃く、漆黒に濁った。
その濁りは、近くで**「死」が、しかも自発的な穢れ**が迫っていることを示していた。
(早く、早く行かなきゃ!)
巫女は、ペンダントの示す強い「気」の流れに導かれるまま、急いで校舎の裏へと向かった。そこは、普段生徒が立ち入らない、廃墟となった旧校舎の裏手だった。
月の光も届かない暗闇の中、巫女が辿り着いたのは、旧校舎の三階の窓際。そこにいたのは、制服姿の女子生徒だった。彼女は既に窓の手すりを乗り越え、衝動的に命を絶とうとしている状態だった。
「だめっ!」巫女は声を上げる。
女子生徒は振り返ったが、その瞳には光がなく、口元は歪み、明らかに正常ではなかった。彼女の周囲は、ドロドロとした**黒い「良くない気」(迷い)**に包まれていた。その「気」は、彼女の心の隙間に巣食い、理性を麻痺させているのだ。
「誰……?来ないで……」女子生徒の呻きのような声は、彼女自身の声というよりも、彼女を支配している穢れの意志のように聞こえた。
巫女は恐怖で体が硬直する。母の時とは違う。これは、自然な死ではない。**生者に取り憑いた「穢れ」**との戦いだ。
「大丈夫だよ、怖くないよ。あなたは独りじゃない……」
巫女は震える体を抑え、母の子守歌を思い出し、歌い始めた。
その歌声は、澄んだ水の波紋のように広がり、黒い「良くない気」を浄化し始める。しかし、「迷い」は巫女の歌を打ち消そうと、轟音のようなノイズを発生させ、襲いかかってきた。瘴気が塊となり、目に見えない手となって巫女の喉を締めつけようとする。
「ぐっ……!」
巫女の視界が歪む。このままでは歌が途切れてしまう。
3.守りの光の片鱗
その瞬間、強い力に導かれるように剣が、息を切らしながら現場に飛び込んできた。彼は、巫女が急に走り去ったのを見て、不安を感じて後を追っていたのだ。
「巫女!何してるんだ!」
剣は状況が理解できず、巫女と女子生徒の間に入り込もうとするが、「良くない気」の障壁に阻まれ、身動きが取れない。剣の肌が、瘴気に触れてチリチリと焼けるように痛む。
「近寄らないで、剣!これは……っ」
巫女は歌を途切れさせまいと、必死に声を振り絞る。女子生徒の周囲を渦巻く「迷い」は、巫女の歌声に抵抗するように、さらに女子生徒を追い詰める。
剣は、自分の体が勝手に熱を帯びるのを感じた。
(なんだ、この重苦しい空気は!巫女を、離せ!)
剣の**「巫女を守りたい」という強い衝動が、彼の内に眠っていた「守り人の力」を覚醒させるトリガーとなった。剣の体から、目には見えないが、微かに周囲の空気を歪ませるような透明な「膜」**が放たれた。
その**「守りの光の片鱗」**が、瘴気の一部を焼き払い、巫女への圧力を一瞬だけ弱める。
巫女はその隙を逃さなかった。歌声に込められた力が最高潮に達し、女子生徒の周囲を包み込んでいた「良くない気」を、完全に払いのけた。
歌声が途切れた瞬間、女子生徒は目に光を取り戻し、手すりから崩れ落ちた。彼女は泣きながら、**「怖かった……急に、飛び降りなきゃって……ごめんなさい……」**と巫女に強く抱きついた。
剣は、目の前で起きた非現実的な出来事を目の当たりにし、言葉を失った。彼の視線は、泣き崩れる女子生徒を抱きしめる巫女の姿と、その首元の翡翠のペンダントに釘付けになっていた。
4.秘密の共有と覚悟
事件の夜、剣と巫女は誰もいない教室で向き合っていた。
剣は顔を青くし、興奮が収まらない様子だった。「あの歌は、何なんだ? あの黒い影は? お前、一体何を隠している?」
巫女は、もう隠し通せないと悟った。母から受け継いだ「送り人」の運命、歌の力、ペンダントの役割、そして、剣の家系が**「守り人」**であり、代々黄泉の穢れから世界を守ってきたことを告白した。
剣は、父の会社が設立したこの高校の地下に、古びた石碑のようなものがあるのを、父の書斎で見たことを思い出した。それは、父が冗談めかして「家系の変な趣味だ」と言っていたものだ。
「俺は…信じられない。だが、俺にも何かがある気がするんだ」剣は自分の手のひらを見つめた。あの時、巫女を助けたい一心で体が熱くなり、見えない力が働いた感覚を忘れられない。
「父さんはいつも、この家系の古い慣習を嫌ってた。だから、俺も知らなかったんだ」
巫女は、剣の父・守が、守り人の役割を放棄し、都会の富を選んだことが、結界の弱体化の一因だと直感的に理解した。そして、その結果、剣が今、この宿命に巻き込まれているのだと。
「剣は、もう関わらなくていい。これは、私の……」
「馬鹿言うな!」剣は声を荒げた。「俺にも力があるなら、使う。あの黒い空気に、お前が一人で立ち向かっているのを、もう見たくない」
剣は、巫女の肩を強く掴み、真っ直ぐに彼女の目を見た。彼の瞳には、迷いではなく、強い決意が宿っていた。
「俺は、お前を守る。伊邪那岐の血にかけて。父さんが諦めたとしても、俺が守り人になる。だから、お前も俺を信じろ」
剣がそう宣言した瞬間、巫女のペンダントが、微かに白い光を放った。それは、「送り人」の魂が、「守り人」の覚悟を受け入れた証だった。二人の間に、神話時代から続く、しかし新しい宿命的な絆が結ばれた。
5.ラーメン屋の終焉
剣と巫女が秘密を共有し、協力し合う決意をしてから数週間が過ぎた。学園での事件も一時的に落ち着き、巫女の日常はラーメン屋のバイトを中心に回っていた。
ある日の夕方。店はいつものように賑わっていた。巫女はカウンター越しに、テレビで流れるお笑い番組を見て、おかみさんと笑いあっていた。
その時、巫女の首元のペンダントが、初めて母の死の時と同じように、そして都会に来て以来最も強く、漆黒に濁った。その濁りは、近くで**「死」が、しかも自然な終焉**が迫っていることを示していた。
「あ…」
巫女が声を発した瞬間、カウンターの向こうでラーメンを作っていた主人が、静かに床に倒れた。彼の顔は安らかで、まるで眠りに落ちたかのようだった。
「おじさん!」おかみさんの悲鳴が、店内に響き渡った。
救急車が到着し、主人はすぐに病院へ運ばれた。しかし、医師から告げられたのは、「心臓が弱っていた。もう今夜が峠でしょう」という無情な言葉だった。
集中治療室の前で、おかみさんは声を出さずに泣き崩れた。巫女は、隣に座り、ただその手を握るしかできなかった。
(助けられない……。私の歌は、道を清めることはできても、命を留めることはできない)
夜中、医師の許可を得て、巫女はおかみさんと一緒に、酸素マスクをしたおじいさんの手を握り続けた。巫女の目に涙が溢れる。
その涙が、翡翠のペンダントに滴り落ちた瞬間、ペンダントが強い光を放ち、巫女の脳裏に母の言葉が響いた。
――送り人の歌を歌いなさい。
巫女は、ぐちゃぐちゃになった顔のまま、震える声で、おじいさんに最後の子守歌を歌い始めた。
その歌声は、疲弊しきったおじいさんの目を、静かに開かせた。
おじいさんは、マスクを外し、巫女に微笑みかける。
「懐かしい歌じゃ。昔は町に一人は送り人がいたもんじゃ。そうか、わしはもうすぐ天に行くのじゃな」
おかみさんの手を握りしめ、おじいさんは静かに語った。
「ばあさん、今まで一緒にいてくれてありがとう。わしは先に逝くけど、向こうで楽しくばあさんが来るのを待っているわい。……な、巫女や、最後の別れを言えたのは最高の幸せじゃ。ありがとうな。その力、無くしてはならぬぞ」
そして、最後に、おかみさんに強い目で言った。その声は、黄泉へ旅立つ魂の、切実な願いだった。
「じゃあばあさん、一足先に行ってくるぞい!ばあさんは天命をまっとうしてくれ。追って自ら命を絶ってしまったら別々のところに行ってしまうでな。それまでゆっくり待っているとする」
その言葉を最後に、おじいさんは安らかに息を引き取った。
巫女は、自分の歌が死にゆく人へ最後の愛を届ける力もあると知り、「送り人」としての使命を深く自覚した。そして、おじいさんの**「追って自ら命を絶たないでくれ」という言葉が、彼女の心に強く残った。それは、黄泉の穢れが、生き残った者の悲しみを利用して、新たな「迷い」**を生み出すことを示唆していた。
ラーメン屋「寿々」は、おじいさんの死と共に、静かにその歴史に幕を閉じた。巫女の日常の安らぎが、一つ消えた。
6.守り人の虚無とハルカの視線
おじさんの葬儀が終わり、巫女は時折おかみさんの家を訪ねていた。おかみさんは、おじいさんの言葉を胸に、気丈に振る舞っていたが、その背中は小さく見えた。
剣は、父である伊邪那岐 守に、真実を問い詰めたが、その度に父は冷たい言葉で剣を突き放した。
「貴様には関係ない。古臭い神話に囚われるな。私の役目は、せいぜい世間と、神話の亡霊の目を欺くことだけだった」
父が、守り人の使命を放棄し、都会の論理と富を選んだことは明白だった。剣は、父の虚無と諦めに失望し、**「俺が守る」**という決意を固くした。
そんな中、ハルカは巫女に会うたび、剣の動向を探るような質問を繰り返した。
「剣君、最近どう? いつも一人でいるよね」
ハルカの瞳の奥は、ますます冷たくなっていた。巫女は、おじいさんが亡くなった後の、おかみさんの孤独な背中を見ていたため、ハルカの背負う**「伊邪那美家の悲劇的な衰退」と「1000年の怨念」**がどれほど重いものかを想像し、胸が痛んだ。
(ハルカちゃんも、何かを失って、悲しいんだ。その悲しみが、あの黒いペンダントの闇に変わってしまったのかな)
巫女は、ハルカを信じたい気持ちと、彼女が剣と世界に牙を剥くのではないかという不安の間で、激しく揺れ動いていた。そして、ハルカとの宿命の対立が、もうすぐ始まることを、巫女のペンダントは、日々濃くなる濁りをもって、警告し続けていた。




