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第一章

 時計が十一時四十五分を過ぎたのを確認して席を立つ。昼食は、ランチのボリュームがある駅裏の洋食屋さんにすると決めていた。今日は木曜日だから、特製ハンバーグ定食があるはずだ。お店まで少し歩くからと向かった女子トイレは、中から聞こえてきた声で入れなくなる。

「長谷川さんって、なんていうか残念だよね」

 この会社にいる長谷川は、私、長谷川真菜美(まなみ)だけだ。経理部で毎月社員のお給料を算出しているので確実だ。

「わかるー。見た目に気遣ってもさ、あれじゃあねー」

「なんていうか……見返り不美人?」

 放たれた言葉で何人かいた女性社員がどっと笑う。私は踵を巡らして、ただハンバーグのことだけを考えて歩き出す。ナイフで切ると染み出す肉汁に、重なるように零れ落ちる特製のデミグラスソース。付け合わせのライスも一つ一つ粒が立っていて、お肉とお米が口の中で出会ったときの気持ちは最高としか表現しようがない。「見返り不美人」なんて、今まで何人もが思いついてきた安っぽい言葉で、心なんて動かしてやるものか。そう決意しても、エントランスに降りるためのエレベーターの中やビルを出るためのドア、歩く街中の店先、それはどこにでも現れた。設置された鏡やガラスは、伺いもせずにこちらの姿を映し出す。なんで人はこんなにも自分の姿を見るのが好きなのだろう。あるいは、他人の姿を品評するのが好きなのだろうか。

 四方から放たれる視線からこの身を守るために、私は神経を張り詰めているというのに。

 家に帰る道すがら、乗り合わせたバスの吊革につかまろうとした手を引っ込める。爪先のネイルが剝がれていた。昨日、鶏肉のパックを無理に引っ張って開けてしまったのが原因だろう。ラップに接着したときの、ネイルは無力だ。身なりを整えることが、しばしば女性を実用性から遠ざけるのは理にかなっていない気がする。がたがたと波打った人差し指を見つめながらそんなことを考えた。

 最寄りのバス停の近くには、大規模店という部類のドラッグストアがある。店内の明るさで中の様子しか映さなくなった自動ドアを通り抜けてかごを取り、向かったのはネイルコーナーだ。家にある、無くなりかけた除光液と同じものを手に取る。

 ついでに日用品を物色して、市指定のごみ袋とキッチンペーパーをかごに入れ、レジへと続く列に並ぶ。今日はいつもの店員さんがいないみたいだ。女の子が一生懸命詰めているが、どんどん増える人の列はなかなか進まない。

 視線を持て余していると、花粉症対策のコーナーが目にとまった。陳列されているのは抗アレルギー薬や飴玉、その中でも私が注目したのは、棚の下の方に積まれた不織布マスクだった。お風呂のカビ取りで使えるかもしれない。喚起するときのあの臭いが、苦手だと思っていても毎度我慢していたのだ。風邪も引かないし、花粉症でもないから、マスクなんて一人暮らしをしてから買ったことがなく、マスクをかごに入れたのは気まぐれだった。

 テレビの向こう、他人事だったはずのものが、私たちの日常を侵食したのは、この数週間後のことだ。

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