96 : 月明かりでダンスを
「それで? どうして慌ててたのです?」
寒かったのだろうかと、カルディアは外套を脱ぐと、ノイに羽織らせた。ノイの身長では裾を引きずるが、全く気にしなかった。
しかしノイは気にしたらしく、裾を持ち上げた。しかし脱ごうとはせずに、裾をたくって顔元に持っていく。その耳は、ほんのりと赤かった。
「……冬の匂いがしたって、教えようとしたんだ」
「へえ……」
なんだそんなことを。と、カルディアは気のない返事をして、足を止めた。
(ん?)
似た話を、いつか何処かで聞いた気がしたからだ。
『星を見上げた時、秋の匂いを嗅いだ時、美味しい物を見つけた時、小指を打ち付けた時、思い出す人間はいるか?』
カルディアはぽかんとした。
呆気に取られたままノイの前に回り、目を覗き込む。
「わ、わあ?!」
顔を真っ赤にしたノイが、カルディアの外套から手を離した。
「あの男に? ノイはあの男に、小指を打ち付けた時も報告するつもりなんですか??」
「ば、近い! なっ、何を言ってるんだお前は! わ、私は、小指を打ち付けてなんてない!」
「そうじゃなくって……」
ノイが両手を突き出して、カルディアから離れようとする。
急激に、押された胸が痛み出す。キリキリとする焦燥感を、カルディアは持て余した。
もし彼女が星を見上げたら、秋の匂いを嗅いだら、美味しい物を見つけたら、小指を打ち付けたら――思い出すのは、自分がいい。自分であってほしい。
(それにもし、俺にもそんな相手がいるとすれば――)
それはノイしかいなかった。
(今も昔も、ノイをおいて他にない)
「なのにノイは、あんなぽっと出のよくわからん男を――!」
「何を言ってるのかわからんが、あの子を悪く言うんじゃない!」
「……また庇った? まさか、あれを次の弟子にするんです?? 俺はもういらない?」
「もうっ、どうしたと言うんだ、お前は!」
ノイはぽんぽんとカルディアの背中を、小さな手で叩いた。
「……お前を探してたんだよ」
そして観念したように呟く。
「冬の匂い。教えてやろうと思って。でもまあ。いらないことだったかな」
苦笑するノイに、カルディアは胸がいっぱいになる。胸を渦巻く感情が溢れすぎていて、喜びしか掴めなかった。
「……いらなくありません」
「そうか?」
「これからも、俺に一番に来てください。俺以外には言わないでください」
精一杯カルディアが本音で話しているというのに、あろうことかノイはため息をついた。
「またそんな……はぁ。はいはい」
「……はいはい?」
「わかったわかった」
「なんです、その言い方? わかってないでしょう?!」
「やかましいな。オルニスか、お前は」
ノイはそっぽを向いて、まともに取り合わない。カルディアはわなわなと震えた。
(これほどまでに、心がぐちゃぐちゃになってるのに、あの小姑と一緒だって……?!)
そもそも、カルディアを好きだと言ったのは、ノイではないか。オルニスと一緒にするなんて、どう考えてもおかしい。
「あんな風に手を掴ませるのも、感心しませんよ。ばっちい」
膝を突き、カルディアが自分の下衣の裾でノイの指先をごしごしと擦る。
カルディアはもう婚約者ではないが、「ノイの好きな人」だ。だからきっと、こんな風に接す権利くらいはあるはずだ。
カルディアがちらりとノイを見上げると、彼女はげんなりとした顔をしていた。とても、好きな相手に手を握られている少女の顔ではない。
虚を突かれているカルディアに、ノイは「はいはい」と頷く。
「わかった。今度手を握られたら、ちゃんと言う。弟子に駄目だと言われたから、止めてくれと」
「……弟子に?」
「そうだろう?」
その通りである。カルディアはノイを敬愛する弟子。何も間違いようがない。
なのに、何故か心に空風が吹きつけた。
弟子の言うことなど聞く必要がないと、相手に跳ね退けられる可能性は高い。だからだろうかと、カルディアは思案した。
弟子よりも効力を持つ存在がいるとすれば、伴侶だ。
師の伴侶には、師と同等の敬意を払うのが、魔法使いの習わしである。
だがカルディアは、ノイの恋人にはなれない。
カルディアが簡単に差し出すと言った恋は、ノイにとっては不十分だったのだ。
だがそれも、仕方がないことだった。ノイに対するカルディアの感情は、恋などとはほど遠い。もっと高尚で、神聖で、ありふれない、あたたかなものだ。
恋人は欲を持ち、欲を埋め合う。彼女に対価を求める立場になるつもりはなかった。カルディアはただ、全ての感情でノイを愛すだけでいいのだから。
けれど、胸のささくれが引っ張られる。
(……何故、弟子などと?)
それでは、相手に付け入る隙を与えてしまうだけだ。
(あの男がもし恋人になったら、弟子の願いなんて――)
そこまで考えて、カルディアはぽかんと口を開けた。
(……考えていなかった)
自分が恋人にならなくとも、ノイは別の人間を、恋人に出来るということを。