95 : 月明かりでダンスを
「ノイは?」
朝食の席についたカルディアは、一番にノイの様子を使用人に尋ねた。
朝起きて、なによりも先に考えるのは、ノイのことだった。それは昨日、喧嘩別れになってしまったからではない。ノイと再会してから――カルディアはいつしか、そんな風になっていた。
(まだベッドかな)
惰眠を貪るのが好きなのは、百年前から変わらない。
声をかければ起きようと必死に目を擦るが、よほど眠い時は上体を起こしたにもかかわらず、もう一度枕に突っ伏して眠り始めてしまう。そんな時の潰れたパンのようなノイのほっぺは、信じられないほどに魅力的だ。
何を見てもノイの事を考えてしまう。カーテンを開ければベッドを見てノイを探し、席に着けばノイの好きな食べ物を考える。
昨日と同じく「よくおやすみになっております」という返事が来るとばかり思っていたカルディアは、使用人からの言葉に音を立てて椅子から立ち上がった。
「我々がお嬢様方のお部屋に、お支度をとお邪魔した時にはすでに、お散歩に出られているようでした」
(まさか、もう……?)
別れの言葉もなく出て行くことはないだろうが、あまりにカルディアが渋ったものだから、見切りをつけて出て行ってしまったのかもしれない。
朝食も取らずに食堂を飛び出したカルディアは、魔法で家中の窓と扉を開けながら、くまなく視線を動かす。
朝早いため、開いたドアの中には、主人が起き出す前にと暖炉の掃除をする使用人や、ベッドの中でいびきを掻いている王国兵や、着替え中の王国兵がいた。
しかしカルディアは、その全てを無視して歩き回った。
家の中にいないのであれば、外だ。
(いつも、ベッドでぐうぐうと寝ていればいいものを!)
眠るノイは可愛い。このひと月ほどは、ノイの顔をしばらく見てから、カーテンを開けるようになっていた。だが、そんな浮島での日課も、もう随分と昔のことに思えた。
普段は寝穢いノイだが、たまにこうして朝も早い内からベッドを抜け出し、カルディアの心を乱させる。以前ノイがいなくなった時には、彼女が逃げ出したのかと――もしくは、彼女の存在自体が幻だったのではないかと怯えたこともあった。
カルディアは、下衣に外套を羽織っただけのラフな格好で草の上を歩いていた。もう、自分の皮膚を隠すための窮屈な服はいらない。
焦りを募らせたカルディアが、髪を靡かせ歩いていると――丘にノイの姿を見つけた。
(……よかった、いた)
この土地を出て行ったわけではないとわかり、胸を撫で下ろす。体中から力が抜けてしまいそうだった。
しかし、ノイの手を掴んでいる男がいることに気付いたカルディアは、真顔になって大股で丘を登る。
「――こうし――も――み! 是非――と思って――た! どうです? 是非部屋で――!」
「いや、今は――」
ノイの背後から、男――レプトとの間にカルディアは体で割って入った。
「!」
ノイの片手を握っていた男の両手が、ノイから離れる。自分の背にノイを隠し、カルディアは目の前の男を睨み付けた。
「この男に何かされましたか? 海まで吹き飛ばしましょうか?」
「こっ――!? こら、カルディア! 何を言ってる!」
ノイはべしべしとカルディアを叩いて、退くように指示した。しかしカルディアは無視をして、レプトを冷ややかな目で見続ける。男は顔を引きつらせながら、礼を取った。
「お、おはようございます。ヒュエトス魔法伯爵」
「まだこのお方に用が?」
「お前は! 何を威嚇しているんだ!」
ノイがカルディアの背をぽこすかと叩く。カルディアは振り返り、寝間着に外套を羽織っただけの男を指さした。
「ノイ。破廉恥な格好をした胡散臭い男と、二人きりで会ってはいけない」
「破廉恥? 胡散臭い……? 失礼なことを言うな。昨日会っただろう。この方は、王宮魔法使いだ」
王宮魔法使いであれ、王族であれ、関係ない。こんな人気の無い場所で、早朝から少女の手を掴んで大声で叫んでいる男など、出会い頭に魔法で吹き飛ばされたとしても、文句は言えない不審者だ。
「それに格好なら、お前も変わらないじゃないか」
呆れたように言うノイに、カルディアは目を見開いた。
「俺とこの男を一緒にするんですか!?」
「あーあーあー。面倒臭いことになってきたぞ……」
すまない、また。とノイがレプトに手を振ると、彼は残念がりながらも立ち去っていった。
その後ろ姿を、カルディアはノイを背に隠したまま見つめ続ける。
「こら、睨むな」
「あの男が貴方に色目を」
「こんな小娘に使うわけがないだろう」
「驚きました。その月さえ落としそうな可愛らしさをご存知でないと?」
本気でカルディアが言うと、ノイはため息をつく。
「……お前、昨日私にしたこと、覚えてるか?」
「覚えています。俺は貴方に、求婚したんですよね」
「ああ。大層おざなりな、な」
頭を抱えたノイは、カルディアを見もせずに歩き出す。小さな歩幅で歩く彼女に、カルディアも着いていく。
「あの男は、何故貴方を拘束していたんです?」
「大袈裟に言うな。何も危険なことはされてない。ただ話をしていただけだ」
「こんな時間にこんな場所で、二人きりで?」
約束でもして落ち合ったのだろうかと考えたカルディアは、冷たい声を出していた。
レプトがノイに危害を加えていないのであれば、それでいいはずだ。
なのにカルディアは、レプトを庇い続けるノイに腹を立てている。
(たかだか昨日会ったばかりの魔法使いを、何故それほど庇う?)
カルディアはノイから何も奪わない。そういう制約を己に課していた。だがどうだろうか。カルディアの知らないところで、ノイが男と親しくしている――ノイが男を信頼している姿を見ただけで、彼女に呆れられるほどに問い詰めている。
昨夜、胸の内で燃え上がった炎が、カルディアの決意も理性も燃やし尽くしてしまったような気さえする。
「お前な……」
ノイがじっとりとした目を向けた。しかしカルディアは、質問を取り消さなかった。
呆れた顔をして、ノイはまた前を向く。
「いや……。もう冬だなと思って、慌ててたら、彼にぶつかったんだ」
「冬は嫌いです」
「そうか。私は嫌いじゃない」
カルディアにとっては大きな出来事も、ノイにとっては「嫌いじゃない」と言ってしまえることなのだ。それが悔しくて、カルディアはつんと顔を背けた。
(……冬は、貴方が。世界から消えた季節ではないですか)
あれから、カルディアに春は来ていなかった。多くの弟子を取り、年を重ね、太陽がずっと近い空へ浮いても――ずっと。