93 : 心の中で揺れる炎
「……今、なんと?」
夕食後、執務室に戻ったカルディアは、自分が聞き間違えたのかと考え、もう一度問いただした。
しかし、ノイの浮かべる気まずそうな表情が、カルディアの聞き間違いではないことを物語っていた。
「だからな、今日もアイドニのベッドで世話になる。と言ったんだ」
これがまだ無邪気に言っているのなら、カルディアにだって言い様があった。
(けれど、この顔は……)
カルディアが今日こそはノイと同じベッドで眠ると決めていたと、知っている顔ではないか。罪悪感を彼女は隠しきれていない。そして故意に、アイドニと眠る方を選んでいる。
(俺の期待は、裏切ってもいいと、思ってる……?)
カルディアは愕然とした。ノイが意図的に、カルディアよりもアイドニを取ったのだ。
「……はいはい。わかりました。昼は他の魔法使いが。夜はアイドニが。今後、俺の役目はなくなるってことですね」
輝く目を見返して、己の知識を惜しみなく与えていたノイ。
おやすみのキスさえ届かない距離で、眠り続けることを選んだノイ。
カルディアにとっては誰よりも大切で、誰の代わりにもなるはずがないノイだったが、ノイにしてみればそうではなかったのだろう。
(俺の代わりなんて、沢山いるんだろうね)
若い彼女はまだ弟子をカルディア以外に取っていなかっただけで、これから増えることだって当然ありうる。ノイにとって、魔力がないことはマイナスに違いないが、致命的な欠点とは言えなかった。彼女に師事したい魔法使いはごまんといることだろう。
カルディアは、そんな中の、一人でしかない。
「こら、拗ねるな」
「拗ねる? おかしな事を。俺はこれまでの人生で一度だって、拗ねたことなんてありませんよ」
「拗ねてるじゃないか」
「拗ねてなどいません」
自分で言って、怪しかった。こんな口調でノイと話したことは、過去に一度もない。心が波打ち、上手く彼女の顔を見ることさえ出来ないでいた。
苛立ちを振り払えず、首の後ろに手をやるカルディアに、ノイはもじもじとした。
「……そ、それは、その」
そしてほんのりと赤らんだ顔を上げ、カルディアにそっと尋ねる。
「妬いて、いるのか?」
「――はい?」
ノイはこほんと小さく咳をする。
そんな咳さえ可愛くて、苛立った。
「私にその、恋をしているのか、と聞いたんだ」
意味がわからないことを言い出したノイに、カルディアは眉間の皺を深くする。
「ノイ。俺は今、真面目な話をしてるんですよ」
「私だって大真面目だ」
心外だとでも言いたげな顔をして、ノイが顔を上げる。心外なのはお互い様だった。
カルディアは苛立ちに任せ、早口で言い募る。
「愛だ恋だと。あの初ノ陽の魔法使いノイ・ガレネーが? 到底信じられません。まるで巷の女達のようでは――」
「……悪かったな!!」
振り下ろされた剣のような威力で、ノイの声がカルディアの言葉を切り裂いた。カルディアの心がひやりと凍る。
こんな――今にも引き裂かれそうなノイの叫び声を、カルディアは初めて聞いたのだ。
「私が――愛だ恋だの言ったら、何かおかしいか!?」
ノイの透き通るような白い肌が、真っ赤に染まっている。激昂しているせいか、その声は微かに震えていた。
そんな師匠の姿を見れば、弟子として心配して然るべきなのに、カルディアは自分の中に燃える炎を見つけてしまった。
「――まさか、あの男に?」
地を這うような低い声だ。
カルディアはゆっくりとノイに近付いた。
「あの男は貴族でしょう? あんな男を選べば、貴方は絶対に苦労する」
苛立ちが募ってしょうがなかった。自分の決めた制約も何も関係なく、安心する言葉が聞きたい一心で、カルディアはノイに詰め寄る。
そんなカルディアにノイはたじろぎつつも、視線の強さは失っていなかった。
「な、違……! ――それを言うなら、お前だって貴族じゃないか!」
「だからなんです? 俺が貴族だから? ――後見人になど、絶対になりませんよ」
ノイが貴族と結婚する手っ取り早い方法は、間違い無くカルディアを後見人にすることだった。
膨れ上がった炎が、腹を突き破って出てきそうなほど、熱く燃える。苛立ちを押さえるために、カルディアは両手をきつく握りしめた。
「――馬鹿ッ!!」
涙を滲ませたペパーミント色の瞳が、カルディアを貫く。
「私が好きなのは、お前だ!!」
――お前だ! ――お前だ! ――お前だ!
カルディアの脳内に、ノイの叫び声がこだまする。
「……は?」
カルディアは素っ頓狂な声しか出せなかった。
(……ノイが、俺を、好き?)
その言葉の意味がまるで入ってこなかった。
唖然とするカルディアを、ノイは開き直ったように睨み付ける。
「私が! 好きなのは! お前だって! 言った!」
一言一言、まるで老人に言い含めるように、ノイが区切って発音する。
「……聞きました」
それは、なんとも……。と、思わず声が漏れていた。
あまりにも想像していなかった。あの、初ノ陽の魔法使いノイ・ガレネーが、自分を好きだって?
あり得ない状況に驚きすぎて、唖然としたまま口元に手を添えるカルディアを見たノイが、顔から表情を消す。
そしてぽつりと、地獄の主のような恨みがましい声で呟いた。
「……――王都へ行く」
「え?」
「私は、王都へ、行く」
くるりと身を翻し、出口へずんずんと足を進めるノイを止めるために、カルディアは慌てて出口を自分の体で塞いだ。
「ちょ、ちょっと、なんの話になってるんです!?」
「お前との婚約も解消したしな! ここに世話になる義理もない。丁度いいじゃないか!」
やけっぱちになって叫ぶノイに、カルディアは秒速で提案した。
「結婚しましょう!」
「最低だ! お前は! 知ってたけど最低だ!!」
頬と目を真っ赤にしたノイが、カルディアを拳で殴った。
拳を止めるために、カルディアはノイの手首を掴む。
「落ち着いてください。どうなさったんですか。そんな、急に……」
ノイはすぐに体から力を抜くと、諦めたように俯く。
「どうもこうもない。恋をなさったんだ、馬鹿者」
力のない言葉に、カルディアは胸が締め付けられた。俯くノイの顔を見たくて膝を突くも、ノイにふいっと顔を背けられる。
ノイに拒絶された事実に、カルディアは息を止めた。
どうしていいのか、何を言えばいいのかもわからずに、カルディアが唖然としていると、ノイが小さく息を吐く。
「安心してくれ。この恋を受け取ってほしいとは、思ってない」
いつものタンポポの笑顔とはほど遠い、悲しみに満ちた笑みでノイが言う。
「……これまで随分甘やかしてもらった。ありがとう。私は、一人で生きていく」
カルディアの心臓が、楔を打ち付けたように痛む。
「……どうやって暮らすのです」
「どうにかするさ。そこまでお前が心配することじゃない」
「心配させてくださいよ!」
事も無げに言うノイに驚いて、カルディアは声を張った。
「絶対に嫌です。王都行きは賛成しません」
「死人が、墓から出てくるものじゃなかったな。やはり」
苦笑とも自嘲ともとれる笑みを、ノイが浮かべる。
「私は、お前の百年を尊敬している。たかだか私の存在で、揺らぐものでもない――お前はもう立派な大人だよ。カルディア。私の支えはいらない」
「支えてほしいんじゃない」
カルディアは、腹の底から低い声を出した。ノイのペパーミント色の瞳が、僅かに見開かれる。
「俺が支えたいんだよ」
くしゃりと顔を歪めたカルディアを、ノイはぽかんと見つめ、そして同じようにくしゃりと笑った。
「本当に、お前は……よくよく私を喜ばせるのが上手い」
ノイは己の手を見た。カルディアはその時、ノイの手首を未だ掴んだままだったことに気付いた。カルディアの指を、ノイの小さな指が解いていく。
「大丈夫だ。いつの世も、今日の別れが辛くとも、明日は新しい出会いがある。それに、弟子と師匠の縁は一生切れない。けれど、だからって一生一緒にいるわけじゃない。お前も数いる弟子の内、今側にいるのはオルニスだけだろう?」
ノイが諭すように言う。
カルディアに恋をしていると言ったくせに、彼女は全く淋しがっていなさそうだった。その声色に、余計に胸が乱れた。
(これが、師弟の別れ……?)
カルディアは、何度も弟子を送り出してきた。
その度に多少の心の揺れはあったが、こんな風に今にも叫びだしてしまいそうな、目眩さえ起こしそうな衝動は感じなかった。
(それは俺が常に、師の立場だったから?)
弟子の側はいつも、こんなにも、身を引き裂かれそうなほどの痛みを感じていたのだろうか。







