08:どうか、神様
銀行で金を下ろし、目的の手続きを手早く終えた後、ノイはカルディアと手を繋いで王都を歩いていた。
「そんなに沢山、どうするんですか?」
銀行でノイが下ろした額を見て、目玉を飛び出させたカルディアが恐る恐る尋ねる。
「ん? ふふ。ふふふ。決まっておる」
堪えるつもりもない笑みをにたにたと浮かべながら、ノイはカルディアの手を引っ張って、一軒のブティックの前に連れてきた。
「爆買いだ!」
――果たして、あれもこれもと、ノイは好きなだけカルディアの服を買い込んだ。
すぐに着用できる吊しの商品とは別に、胴回りや腕の長さはもちろん、首の太さや指の長さまで採寸させて、オーダーメイドも注文してきた。
カルディアの今後の成長も合わせ、季節毎に必要なだけ――いや、必要以上に――発注したノイは、ほくほく笑顔で精算していた。
買った商品は全て、後日家まで届けるよう指示してある。試着室でぴったりサイズの服を着たカルディアは、何処か高貴な血筋の子息と見まごうほどの美しさだった。
「よい。とてもよいな」
カルディアは、膝丈まである長い白色の上衣を、金色の腰帯で結んでいる。腰帯の上から、差し色にカルディアの瞳と同じ赤い色の紐を飾りつけた。光沢生地の白い布が、カルディアの黒い髪をより一層美しく見せる。
「あんなに沢山……」
カウンターの上にこんもりと、山のように積まれた布を見て、申し訳なさそうな顔をするカルディアに、ノイは眉根を寄せる。
「これは全て、私のための散財だ。私がお前に綺麗な服を贈りたかったし、毎日素敵な服を着るお前を、私が見たかった。つまり、服を貢がれたお前がすべき行動は……わかるな?」
「……毎日、今日買っていただいた服を着て、お師様を楽しませる?」
「そうだ! 賢い子だ! カルディア!」
ノイが有頂天で手を打つと、カルディアは恥ずかしそうに、だが嬉しそうに「ふふっ」っと笑った。
小さなカルディアは噴水に座ると、足が地面に着かなくなるらしい。
(可愛い)
「カルディアの服を買う」という本日のビッグイベントを終え、王都をぶらぶらとしていたノイは、本日三回目の買い食いをするために、カルディアを噴水の淵に座らせていた。
カルディアは小食なため少しずつしか入らないようだが、毎度律儀にノイに付き合ってくれる。今は、ノイと半分こにしたパンを小さな口で頬張っている。
刻んだナッツを混ぜて薄く焼いたパンは、露店でこれでもかというほど積まれて陳列されていた。そして、その店の前を通った時、カルディアが一瞬ぴくりと反応したのだ。
(手を繋いでいて正解だった)
カルディアは何かに興味を持っても、師匠に遠慮して口を開かない。そんな彼に代わって、彼の小さな手が雄弁に教えてくれる。
無意識のカルディアの反応に気付いたノイは、彼の意を汲み取って店に寄った。決して、ノイが食いしん坊なわけではない。
パンを食べ終えると、再び手を繋いで歩き始める。
カルディアは、自分が足を止めるとノイがなんでも買ってしまうと気付いたのか、随分と慎重な足取りになってしまった。
(たかだか、欲しがっていそうな魔法道具に、おもちゃに、お菓子に、布団に、絵画程度ではないか)
カルディアが欲しがるなら、何でも買ってやるつもりだった。
(どうせこのまま金を残していても、いずれは――)
その時ふと、カルディアが足を止めた。
(お!)
今度は何だとノイが振り返れば、カルディアは顔面を蒼白させ、ある一点を凝視していた。
彼の視線の先には、一軒の教会があった。
教会の前では子ども達が箒を手にしている。ある者は掃除をしたり、ある者は遊んだり、またある者は叱ったりしている。ありふれた、日常の風景だ。
ノイは、手を握るカルディアの強さが尋常ではないことに気付き、ハッとした。
『僕が育った教会があるんです』
カルディアはノイの手を離すと、目眩ましの魔法が施されたフードをぎゅっと掴んで、下まで引っ張った。そして、教会に背を向け、勢いよく走り出す。
「カ――!」
名前を呼ぼうとして、口を噤んだ。ここで大きな声を出せば、彼らの注意を引いてしまう。ノイは慌てて、カルディアの背を追った。
(全力疾走なんて、もしかしたら生まれて初めてかもしれない)
これまで身の回りのことは何でも魔法で解決するくせがついていた上に、腐っても名家の令嬢である。街の雑踏をかき分けながら走る人生なんて、想像したこともなかった。
汗と鼻水とよくわからない液体を口からまき散らしながら走ったノイは、足をガクガクさせつつも、なんとかカルディアに追いついた。
カルディアは、白い花をつけた大きな木の下に蹲っていた。小さな背中を見つけた時の安堵感と言ったら、ない。
「カルディア……」
なんとか呼吸を整えたノイは、彼の名前を呼んだ。ノイの指先が彼の背に触れた途端、カルディアはびくりと大きく震える。過剰な反応に驚いて手を引こうとしたが、ノイはむしろ更に押し付けた。
(賢い子だ、と……)
小さな背中は、手のひらを置くとその小ささがより際立つ。
(凄い子だと言ってはいても――この子はまだ、ほんの、六歳)
胸に抱える痛みを、耐える必要すらない年である。泣いて、喚いて、拗ねてもいい子どもが、ただ膝を抱えて耐えている。
痛ましく、いじらしい背中に、ノイは地面に膝を突いて寄り添った。
しゃがみ込んだカルディアは、ふるると唇を震わせると膝により顔を押し付ける。
「……こんな世界、嫌いだ」
吐息だけの掠れた声で、カルディアがぽつりと呟く。
小さな十本の指は、力を込めすぎて真っ白になるほどに、自分の腕を握りしめている。
「お師様は、僕を人だと言ってくれるけど……でも、僕はもう、やっぱり皆と違う」
これまで自分がいた環境に、いつも通りでいる仲間を見たことで、今の自分との差を強く感じてしまったのかもしれない。
それに、彼がいた――本来であればこれからもずっといられたはずの世界は、カルディアがおらずとも回っている。それを痛感するのは苦しいだろう。
ノイはカルディアの両肩を抱き、身を寄せる。柔らかな子どもの肌がノイの細い腕にぴたりとくっついた。
「なら……」
カルディアが膝に埋めた顔をゆっくりと持ち上げた。まっすぐに前を見据える真紅の瞳は、悲しみに満ちた涙で潤んでいる。
「ならっ……! 僕も、お師様と同じがよかった……」
ノイは息を呑む。
勢いよく振り返ったカルディアは、懇願の目を向けていた。堰を切ったように大きな声で師匠に縋る。
「お師様と同じ、魔法使いがよかったっ!」
痛いほどの叫びだった。小さな体が今にも引き裂かれそうな、悲痛な声に、ノイの胸がぎゅうっと締め付けられる。
「魔法使いだ!」
ノイは大きな声で言った。どれだけ今、心が遠くても聞こえるよう、どんなにカルディアが全ての言葉を拒絶していても、突き刺さるよう。真っ直ぐに、熱い心を込めて。
「お前は、立派な魔法使いだ! お前は、あんなに綺麗な魔力を撚るじゃないか。こんなに凄い六歳はいない。お前は立派な魔法使いだ。だって、お前は、国一番の魔法使い、このノイの弟子なんだから!」
魔王ではない。
だけれど、人でもない――
そう思い込んでいるカルディアは、どっちつかずな存在と自分を認識していたのかもしれない。
魔法使いの弟子になったのはただの行きずり。預けられたのがたまたま魔法使いの家だったから、魔王を封じるまでに、魔法使いが気まぐれで魔法を教えているだけ――そんな悲しい思いに、囚われていたのかもしれない。
(私は、師匠失格だ)
あれほど弟子だ師匠だと言っておきながら。
それに、年長者失格ですらあった。カルディアの不安にも、孤独にも気付いてやれなかった。
抱き締めたカルディアは、浅く呼吸をしていた。苦しそうな呼吸音が、嗚咽を堪えるようなものになる。
ノイの腕の傍で、行ったり来たりしている小さな手のひらを、ノイはガシリと掴んだ。そして、驚きに目を見張るカルディアの手を力強く握りしめる。
「楽しいことをしよう、カルディア」
天使のように愛らしいカルディアの顔は今、涙に濡れていた。
「毎日食べて、笑って、喜んで、共に暮らそう。大丈夫。お前は未来を失ったりしていない」
大きな涙の粒がカルディアの柔らかい頬を伝い、顎から滴り落ちる。
「世界がきっと、お前を愛おしむ日が来る」
カルディアが嗚咽を我慢しながら、心底そう信じたいと願っているかのような声で、哀願する。
「……ほんと?」
「本当だとも。その日まで、このノイと共に、待とうな」
くしゃりと、カルディアの顔が歪む。
そして、泣きながら笑った。
その瞬間、ノイは息を止めた。あまりにも美しく、儚く、切ない笑みだったからだ。
犬歯を見せて笑ったカルディアは、ノイに飛びついてきた。随分と肉はついたが、それでもまだまだ細く、頼りない子どもの体だった。
ノイはきつく抱き締め返す。
(……あぁ。どうか、神さま)
鼻の奥がツンと傷む。涙を必死に我慢した。
(私が持っているものならば、何でも差し上げます)
何度も何度も瞬きを繰り返す。
(ですから、もしもいらっしゃるのなら……どうか、どうかこの子を、見守りください)
ノイはカルディアの小さな温もりを強く強く抱き締めながら、この子をいずれ置いて逝かねばならないことを、心の中で謝罪していた。