86 : 恋はいらない
「わかったよ、カルディア。お前に従おう」
月明かりにすら溶けてしまいそうなほど、儚げに目の前のノイが微笑む。
カルディアは思わず、自分が何か失態を犯したのではないかと不安になった。
百年前に師弟だった頃とは、互いに年齢も、魔力も、そして関係さえ変わってしまったが、変わらないものもある。
それは、ノイ・ガレネーがカルディアの最も敬愛する師であるということだった。
カルディアにとっては、今も昔もノイが全てだ。
(いつも、いつだって、何かをしたいと思う時には、真ん中に彼女がいる――)
ノイのタンポポのような笑顔が好きだった。
その笑顔が、カルディアに死を戸惑わせた。
死ねば魔王が羽化するからと自ら死を選ぶことも許されず、死に場所を探すように、浮島で魔王の殺し方を探してばかりいたカルディア。
初ノ陽の魔法使いノイ・ガレネーの功績を汚すことなく魔王を浄化し終えれば、待っているのは己の死だと――そればかりを望んでいたというのに。
(君が、いつだって笑いかけるから)
カルディアは、おそらく。死にたくなくなってしまったのだ。
ノイと共に生きたいと、そう願うようになってしまっていた。
だから、パンセリノスに結婚の二文字を思い出させられた時、ひやりと肝が冷えた。
(俺はまだ、彼女を嘘の中に立たせている……)
それは、大切な人にしていいことでは無かった。
そんな交渉条件はなくとも、ノイは大切にされて当然の人だった。
(……少しは、下心もあった)
婚約者などという嘘の役割から解放すれば、自分の献身を褒めてくれるのではないかと期待していたのだ。
カルディアは、ノイになんの利益を与えられずとも、彼女を支え、慈しみ、全てから守り抜いてみせる心積もりがあった。それが彼女の弟子であるカルディアの責任であり、特権だった。
なのにノイは喜ぶどころか、悲しんでみせた。
更には「恋」なんて言葉で、カルディアを揺さぶった。
カルディアは大きく動揺した。ノイに気取られないよう、平静を保つことで必死だった。
(可愛いな、と)
手を伸ばしたくなったことがあった。オルニスを好きなのかと勘違いした時には、夜通し翔翼獅で飛んだ。触れた指を、素知らぬふりで絡めたこともあった。
二人の間には確かに――人に言いたくない時間があった。
(あれは、恋とは違う)
そんなものよりももっとずっと高尚で、尊いものだ。
カルディアはノイを愛している。けれどそれは、自分の欲望を押し付けるだけの、恋なんてものではない。
恋は、たかだか数十年も持続しない。
この感情は、そんな一時的なものでは決してなかった。
(だからこれは、恋なんかじゃない)
そして、カルディアの必死の訴えを聞いたノイは、彼の目の前でか弱く微笑んでいる。
「……ノイ?」
咄嗟に手を伸ばしそうになり、カルディアは腕に力を入れて引き戻した。ノイはもう、カルディアが簡単に触れていい女性ではない。
「すまない。少しばかり、疲れてしまったようだ」
「すぐに部屋へ送りましょう。俺の部屋で構いませんね?」
魔王を打ち倒して後、ノイは使用人が用意した客室で療養していたという。しかし、一人では心細くなったらしく、カルディアの部屋から出ないと駄々をこねたのだと聞いた。
であれば、今日も自分と一緒の部屋で眠りたいはずだ。ノイの意思を尊重し、カルディアはゲーコに部屋を整えさせていた。
だが、カルディアがノイを自室へ案内しようとした時――廊下から人影が躍り出た。
「――失礼ながら! カルディア様ッ!」
出口に立ち塞がったのはアイドニだった。アイドニは百人いれば百人が美しいと評す顔に笑顔を貼り付けて、カルディアに明るく言った。
「もう婚約者でもない女性を寝室に連れ込むのは、いかがですこと? お行儀がいい真似とは言えませんわ」
「君用の部屋は用意させているよ。淋しければオルニスの部屋の扉を叩きなさい」
アイドニに用意したのは、昨日までノイが使っていた客室だ。
言外に、お前とは眠れないよと伝えたつもりだった。
ほんの数年前までは、カルディアがククヴァイアのつむぎの郷に泊まる度、アイドニは一緒の布団で寝たがったものだ。知り合いの少ない屋敷で一人で眠るのは淋しいかもしれないが、耐えてもらわなくてはならない。
「オルッ――! そんなこと、致しませんわ! そうではなく、わたくしはノイ様とカルディア様のお話をしているんですのっ!」
どうやら、一緒に寝たかったのはカルディアではなく、ノイだったようだ。
「生憎、俺とノイは婚約者になる前からずっと一緒に寝ていた。そうですよね? ノイ」
カルディアは勝ち誇った顔をして、前半はアイドニに、後半はノイに言う。
つい最近信者になったばかりのアイドニと、自分とノイの絆を比べてもらっては困る。カルディアは百年も前からノイと一緒に眠っていた実績を持つ。
これ見よがしに微笑んでみせるカルディアの後ろから、ノイがスッと進み出た。
「前から一緒に寝ていたのは本当だ」
カルディアは笑みを深めた。
「けれど、今日は……」
ノイはカルディアの脇をすり抜けて、アイドニのもとへ歩いて行く。
そしてあろうことか、ノイはアイドニの服をぎゅっと掴んだ。
「……え?」
カルディアは目を丸くした。
今夜は彼女と、ベッドで話したいことがたくさんあった。
今日のカルディアは、彼女を物のように利用した後、捨てるように死んでいく自分でも、尽きない悔恨に沈む自分でもない。全て、ノイが救ってくれた。
そんな彼女と昔を懐かしみ、明日を尊び、これからの二人について朝まで話し明かしてもいいとすら考えていた。
なのにノイは、カルディアに気まずそうな顔をして、アイドニの隣に立っている。
「おーっほっほっほっほ! ノイ様はいただきましてよ! せっかく頑張ってここまで来たんですもの。ご褒美ぐらい貰って当然ですわ」
毒気の抜けるアイドニの高笑いに、カルディアは薄く息を吐き出した。
「……仕方がないね。今日だけだよ」
「恩に着ますわ~!」
まるでカルディアの気が変わらないうちにとでも言う風に、アイドニはサッとノイの背中を押し、執務室を後にした。