84 : 恋はいらない
辺りが暗闇に包まれ始める頃、カルディア達は大人数で帰って来た。その頃にはかなり打ち解けたのか、帰ってくる一行からは笑い声も聞こえている。
「おかえり」
「わざわざ出迎えに? ありがとうございます。お体が冷えますよ」
出迎えるくらいしか出来なかったノイに、カルディアは自分の外套を羽織らせると、背を押して玄関の中に導いた。
(……あれ? 抱き上げ、ないのか?)
こういう時いつもなら、カルディアは有無を言わさず、ノイをひょいと抱き上げていた。しかし今は、背に触れるか触れないか程度の指しか感じない。
(……いや、カルディアも病み上がりだ。無理は出来ないはずだ)
今日一日、視察にと四方へ出向いていたことには都合よく目を瞑り、ノイはそう結論づけた。
夕食は、屋敷に滞在する王国兵と共に取ることになった。エスリア王国では、長テーブルの真ん中に主催者が座り、その向かいに主賓が座る。そこから、二人を中心に階級が高い者達が並べられる。
ノイのために用意された席は、末席だった。
けして、使用人の嫌がらせではない。ノイは今、カルディアの婚約者という立場でこそあるが、ただの平民の子どもだ。
それに、今日一日汗水流して働いてきた王国兵や魔法使いを押しのけて、上座に座るつもりもない。ノイの前にアイドニを配置してくれていたことに、喜ばなくてはならないほどだった。
使用人に引かれた椅子にノイが腰掛けようとした時に、カルディアから声が上がる。
「ゲーコ、来てくれないか」
呼ばれた執事は飛んで行った。
「彼女の席は今後、俺の前に」
「――畏まりました」
平民の婚約者を、国王自ら率いてきたグルーノ隊長よりも上に扱うように指示されたゲーコは、一瞬目を見開いた。しかし、よく躾けられた使用人だったため、疑問は呈さず頷く。
「彼女には、俺以上の敬意を払うように」
「しかと心得ます」
「今回は、伝え忘れていてすまないね。じゃあ、席次をよろしく」
一連の会話をぽかんと聞いていたノイは、慌てて声を出す。
「馬鹿者! これから変えられるものか!」
既に料理は並べられている。料理や皿、ワインの配置から、カトラリーまで。全て席に座る人間に応じたものが揃えられているのだ。一人席次を動かせば、自動的に全員分を動かさなくてはならない。
「どれだけ大変だと思う。それにもう、皆さんお待ちだ」
「仕方がありません。俺が貴方を無下に扱うことだけは、ないのですから」
カルディアが目を細め、ノイを諭すように語りかける。
その意味は、ノイにどれだけ言われても引かない、というものだった。
こんな風にノイを天上の者として扱おうとすることなど、ただのノイとして側にいた時には、一度もなかった。
喜びよりも、恐怖が勝る。
(この男は、怖いものがないのか……)
ないのだろう。大切にしてはいても、領主の座も、きっと国すら、追われれば捨ててしまえる。カルディアにとっては、自分の主張を変えてまで大事に抱えておきたいものではない。
しかし、この場でそんなことをされても、困る。
ノイは頭を抱えた。今から全てやり直すとなると、相当な労力と時間がかかる。
使用人は皆青ざめた顔でノイを見ている。
「……カルディア」
「なんでしょう」
「私が……とてもとてもお願いしても、駄目か?」
ノイは出来る限り目を潤ませて、何度も何度も瞬きをした。
「申し訳ございません」
しかし、カルディアは苦笑を浮かべて断った。にべもなかった。
(恥を忍んで可愛く頼んだというのに!)
よほど親しい仲でもない限り、他家の事情に口出しなどありえない。この場に集まっている王国兵は貴族が多いのか、今すぐ食事にありつけなかった失望は漂わせつつも、カルディアを止めようとする者はいなかった。
ノイは焦っていた。
焦った結果、一番恥ずかしい行動に出た。
「――わ、私は嫌だからな! もうあと、一分だって待てない! お腹がペコペコなんだ!」
これでカルディアも諦めて、食事を始めるだろう。
一日中ふらふらとしていただけの穀潰しのろくでなしがそう叫ぶと、魔力の糸が浮かび上がった。それはするすると編み上がり、食堂いっぱいに大きな魔法陣が広がる。
「へ」
次の瞬間、魔法陣は発動した。全てのカトラリーが縦横無尽にテーブルの上を舞い、ひとりでに場所を変える。料理を盛った皿も液だれ一つ零すことなく着地した。
何十という数の物体を一瞬で己の指定した位置に動かしたカルディアは、にこりと微笑む。
「一分は経っていませんね?」
王国兵はあんぐりと口を開け、魔法使いは羨望の目でカルディアを見た。
ノイは頭を抱え、自分用に整えられた席――カルディアの前に、座った。
カルディアのこだわりにより場が凍り付いてしまっていたため、粛々と始まった食事だったが、酒が入れば場も緩む。食堂は随分と賑やかになっていた。カトラリーが擦れ合う音が人々の会話の合間に響く。
カルディアの隣には、グルーノ隊長と魔法使い代表が座っている。そしてノイの隣には、エラ副隊長とアイドニだ。アイドニは国王の叔母の名代という紹介をされたが、ノイが暇をしないための話し相手としての配置であることは間違い無かった。
甘い果実漬けが入った水を飲みながら、ノイはアイドニと、エラ副隊長と話しながら食事を取っていた。目の前にある魚の白ワイン蒸しは大変美味しく、あと四匹は食べられそうだった。
「とても美味しそうに食べられますね」
「とても美味しいからな」
「ふふ、そうですね」
エラ副隊長は女性だ。こんがりと日に焼けた健康的な肌は魔法使いのほとんどが持っていないもので、憧れる。
「ノイ殿とヒュエトス魔法伯はどのような関係で?」
カルディアがあれほど尊重したノイを無下に出来ないのだろう。ただの小娘に、エラ副隊長は敬称をつけ、敬語を使う。
「ああ、私はカルディアの――」
婚約者だ。
いつも通りそう言おうとしたノイを、カルディアが遮った。
「親戚の子だよ」
(……え?)
ノイは口を、はくりと開けた。
「けど、この命よりも大切にお預かりしている。くれぐれもよろしく頼むよ」
「なるほど。仰せの通りに」
エラ副隊長がにこりと笑い、頷いた。今の説明でノイは、身分を隠して辺境の地に匿われている、やんごとない少女とでも解釈されただろう。カルディアの先ほどの対応にも納得した顔だ。
しかしノイは、何も納得などしていなかった。
(……なん、で?)
何故いつものように花嫁と紹介してもらえなかったのだろうか。
目の前が真っ暗になった気分だった。
隣でアイドニが心配そうにノイを覗き込んでいたが、ノイは視線一つやることも出来なかった。
(親戚の、子?)
それは、明らかに今後の関係を断ち切った言い訳だった。
ノイはそれから、「俺の花嫁さん」とカルディアがいつものように笑って、冗談にするのを待っていた。しかし、どれほど待ってもカルディアがそう言い出す気配はなかった。
ノイは生まれて初めて、皿の中に食べ物を残したまま、フォークを置いた。