77 : 弟子と師匠
――ブワンッ
決して忘れられない音がする。
闇が反響しているような不気味な音。世界中がこれから生まれる強大な悪に震え出す、前兆。
カルディアの周りに集まった黒い靄が、どんどんと濃くなっていく。その黒い靄の正体は、カルディアの体内に収まらず、溢れ出していく魔王の魔力だ。
蛹のように硬くなったカルディアの背が割れ、禍々しい羽が覗く。
――魔王の羽化だ。
「カルディア!」
ノイが手を伸ばす。
羽を使って、カルディアが飛んだ。
暴風が巻き起こり、ノイとオルニスは吹き飛ばされた。羽ばたいた衝撃で地面がひび割れ、近くに生えていた木々が折れる。
カルディアの中にいた魔王に呼応するように、空が闇に包まれていく。どろりと濁った漆黒の闇が、抵抗も出来ない空を殺していく。
「ッ馬鹿! 何してるんですか! 逃げますよ!」
悲鳴のような声を上げながら、オルニスがノイの腕を掴む。
「――先生は……僕が嘘をついて側にいると知りながら、それでも最後は、信じてくれた。僕は、先生のために、あんたを逃がさなきゃならない!」
「今この場で、カルディアを置いて逃げる!? そんな馬鹿なこと出来ない!」
ノイが心から叫んだ。
その響きにオルニスは息を呑む。そして次の瞬間、眉をつり上げた。
「じゃあ聞きますけど、あんたに何が出来るんです!?」
「――っ!」
何も出来ない。出来ないから、あんな台詞を弟子に言わせてしまった。
(カルディアは、私に、見られたくなかったと言った)
魔王になった姿は、百年前の浄化魔法が失敗したことを意味する。
カルディアは、ノイを敬愛していた。きっと、世界中の誰にも知られたくなかったに違いない。
そして――ノイには、絶対に。
(ただ。カルディア――お前は、思い違いをしている)
ノイはその程度で、落ち込みもしなければ、カルディアを諦めもしない。
(私はもう魔法さえ使えないけど……お前の師匠でまで、なくなったつもりはない)
心を強く奮い立たせ、ノイは腹から声を出した。
「私は――あの子を、もとに戻せる!」
ノイはオルニスの目を見て、真っ直ぐに言った。自分で言って、そうだ、出来ると感じた。
オルニスは、今にも泣き出しそうな子どものような顔をした。
彼のこんな表情を、ノイは初めて見た。
「嘘だ……そんな方法があれば、先生が……」
「出来る! やってみなきゃ、わからんだろう!」
ノイ達が悠長に話している隙に、魔王は海の上まで飛んでいた。
眠りから覚めたばかりの魔王は、海をおもちゃにすることに決めたのか、海面に向けて手を伸ばす。
「なっ――! 魔法陣を!?」
魔王は以前は操れなかった、魔法陣を編もうとしている。
オルニスの言った通り、器となってしまったカルディアの知識をそのまま受け継いでいるとすれば、とんでもないことになる。
海が口を開け、波が立つ。
魔王が編んだ魔法陣が大きく大きく広がっていく。編まれていく魔法陣を見て、ノイは大きく目を見開いた。
「な……! あんなものが解き放たれたら、ここどころか、国が海に沈むぞ!」
「ま、まだ編み途中の魔法陣が、わかるとでも!?」
「あんなド派手に編んでおいて、わからないわけないだろ!?」
ノイはオルニスに叫んだ。
カルディアの魔法陣は基本に忠実なものが多いため、立ち上がりさえ見えればある程度の予測はつく。
それにカルディアの魔法の編み方は、ノイにそっくりだった。ノイの手癖まで引き継いだ、弟子の魔法。師匠のノイにわからないわけがなかった。
魔王は遊んでいるのか、その手つきは緩慢だ。しかし、そのゆったりとした動作に相応しく、大仰な魔法だった。
あの魔法は海の水を神獣――竜の形へと変えるものだった。
恐ろしい予感と、魔王の無邪気な悪戯に寒気がして、ノイは全身に鳥肌を立てる。
「なんとか止めさせないと――!」
魔法が使えないノイと、まだ魔法使いの弟子のオルニス。二人では現状、あれに対抗しうる魔法はない。それだけは、はっきりとわかった。
発動途中の魔法を止める方法は二つある。更に大きな魔法で打ち破るか、魔法使い自身に魔法を解かせるかだ。
そのどちらも、今は届かない。
「おしまいだ……世界は今日、滅ぶ……」
オルニスが絶望して呟く。叱責できるほど、ノイに余裕は無かった。頭をフル回転させて、魔王を凝視する。
諦めてはいけない。
(何か、何か手があるはずだ――)
魔力はない。後ろ盾もない。年齢さえも本来のものではない。
けれどノイは、国一番の魔法使いだった。
「くそ。せめて、魔法が使えれば――」
「――ッ、さっきから、言うことばっか立派だけど! 魔法なんか、使えるわけないだろ! あんたには、魔力がないんだから!」
オルニスの言葉に、ノイは目を見開いた。
傷ついたわけではない。気付いたのだ。
――ノイ・ガレネーが失ったのはただ、魔力だけだったと。
「……魔力が、ない……?」
魔力がなければ魔法が使えないと、誰が言ったのだろうか。
「魔力なら……あるじゃないか」
ノイは魔王を見る。
そこには、あった。
無限にも思える、魔王から溢れ出る黒い靄――禍々しい魔王の魔力が。
(思い込んでいた。勝手に)
魔力は自分のものしか――撚れないと。
ノイは両手を前に突き出し、指を動かす。
カルディアを覆う黒い靄が、細く長くノイまで伝ってくる。
これまで、何百回、何千回、何万回とやってきた魔力を撚る感覚が、指に蘇る。
(お前を今度こそ、絶対に――)
救ってみせる。
それだけを、ノイは強く望んだ。
「――カルディア! お前は、魔王なんかじゃない!」
闇の中に飛び上がったカルディアに向かって、ノイは叫んだ。
全身全霊の気持ちを込めて、ノイはずっと、同じことを叫び続ける。
「思い出せ! お前は――魔法使いだ!!」







