73 : ペパーミントの躍る先
「おい! 起きろ!」
バシバシと頬を叩かれて、ノイは目を覚ました。
目の前には知らない男――ノイを浮島から引きずり落とした男がいた。
「領主は何処だ! あいつのところへ連れて行け!」
湖の岸に引き上げられていたノイは、肘を突いて起き上がった。全身が痛むが、飛び降りた瞬間に覚悟したほどではない。
途中で流れ落ちる螺旋状の水流に乗れたのが、幸いした。そこからは、急流に呑まれて僅かな間意識を失っていたようだが、一命は取り留めているらしい。
どうやら、以前ノイが訪れたヒュエトス魔法伯爵領の湖で間違いないようだった。湖の周囲から、数人の人間がざわついた様子でこちらを見ている。
「一刻を争うんだ! 早く!!」
あれほどの目に遭わされたというのに、男は諦めていなかった。
くらくらとする頭を押さえ、びしょ濡れのノイは小さく呟いた。
「一刻を、争う……?」
「早くしないと、アレが――!」
男は錯乱している。だがその中でも、何かを伝えようとしているのがひしひしと伝わって来た。
「待て、最初から説明――」
――バシァアアアン
突然、湖が巨大な水しぶきを上げた。
湖面に大きな波が押し寄せる。雫が飛び散る湖の中央には、一隻の舟があった。
「――この、カルディア・エウェーリンの花嫁をこんな目に遭わせて……ただで済むと思うてくれるなよ」
舟の上には、カルディアとオルニスがいた。カルディアは自分の靴に魔法を施すと、湖の上を歩く。
「カルディア!? あ、あんたが、領主!?」
男が動揺した声を出した瞬間、地面の奥底から響き渡るような、不気味な音が辺りに響き渡った。
「来た! やっぱりだ! やっぱりあの、浮島のせいだ!」
男は錯乱し、頭を抱えて震え始めた。岸に渡っていたカルディアはすぐにノイを抱き起こし、胸に抱える。その体は驚く程に熱かった。
「カルディア、また熱が――!」
ハッとしたノイがカルディアを振り返るも、カルディアは男を真っ直ぐに見据えていた。
「最近、毎日夢に見るんだ! 本当に起きた、やっぱり、俺の言った通りだったのに! 誰も俺を信じない!」
「何――?」
「あんた、領主ならどうにかしろ! あの島を、さっさと下ろせ!」
混乱した男がカルディアに縋る。
カルディアは近付いてきた男を、冷めた目で振り下ろす。
「ああ、剥がれる! 剥がれるぞ!」
男は既に、カルディアを見ていなかった。男が見ていたのは、頭上高くの――浮島だった。
浮島を覆っていた土の外壁が、ベリッとまるで木の樹皮のように剥がれ落ちた。それは一枚に留まらず、あちらも、こちらも、と一斉に剥がれ始める。
「っ――逃げろ!」
抱いていたノイをカルディアは突き飛ばした。そして瞬時に魔力を撚る。
カルディアは、自分の周囲に風を起こした。その突風は激しく、辺りの人間を落ちてきた瓦礫から遠ざける。
風に煽られて吹き飛んだノイは、地面に叩き付けられた。しかしすぐに体を起こす。
「カルディア!!」
ノイは叫び、悲鳴を上げる。
その場にいた人間が助かった代わりに、カルディアの上に瓦礫が次々と落ちていく。
「カルディア! 嘘! カルディア!」
ノイの周りで、いくつもの悲鳴が上がる。
「皆逃げろ! 次はアレが――あの水が! 落ちてくるぞ!!」
男が上を見て指さした先には、浮島があった。
しかし、その相貌はいつもと違っていた。たった今落ちてきた外壁に包まれていた浮島の核の部分に現われたのは――大量の、水だ。
「きゃああああ!!」
「あ、あんな水、洪水になるぞ!」
「嘘だろ、逃げろったって、ここは島だぞ! 何処に逃げりゃいんだよ!」
あちこちから悲鳴が上がる。
大量の水と空から落ちてきた瓦礫に、人々は正気を失っている。
空気が割れそうな悲鳴があたりに響く。
走り去る人の波を掻き分けて、ノイはカルディアのもとへ走った。湖の方へ走ったのは、二人だった。ノイと、同じくカルディアに吹き飛ばされていたオルニスだ。
瓦礫の中を覗き込んだノイが息を呑む。瓦礫の隙間で横たわっているカルディアは血だらけだ。
同じく瓦礫を覗き込んでいたオルニスが、顔を蒼白させて魔法陣を編む。
「この大きさの瓦礫を、その風の魔法陣で浮かすのは無理だ! カルディアの下の地面を掘れ! 下から引きずり出す!」
オルニスの編む魔法陣を読んだノイがそう言うと、彼は舌打ちをして魔法陣を解いた。そして、ノイが言った通りの魔法陣を編み始める。
少しして、魔法陣が出来上がった。カルディアの横たわっていた部分の土が脆くなり、彼の体が傾く。
ノイはオルニスの掘った穴に入ると、カルディアの体を掴む。オルニスがノイの足を引っ張り、カルディアの体を瓦礫の下から引きずり出した。
「カルディア、カルディア!」
血の滴るカルディアの頬を、ノイが何度か叩きながら呼びかける。
カルディアは生きてはいるが、頭を強く打ったのか気を失っていた。
呼びかけても反応がないカルディアを、ノイは抱き締める。
「馬鹿……お前は馬鹿だっ!」
何故、殺すつもりだったノイを追いかけて来たのだろうか。せっかく見つけた器を逃がすのは惜しいだろうが、他の方法を探す道だってあったはずだ。
悲しみと苦しみ、そして、喜びが胸を満たす。
「……お前はずっと、変わらない」
自分がこんな目にあっても、人を助けようとしたカルディアを、ノイはそっと横たわらせた。
「オルニス、アレが何かわかるか?」
ノイは今まで自分達が住んでいた空を見上げる。そこには、浮島の地表を支えるように、巨大な水球がゆらゆらと揺らめいている。
「――この辺りは以前、雨ばかり降っていた土地でした。そこに先生が領主として訪れてからは、天が味方したかのように、ぴたりと雨が止んだと……」
「ならあれは、この辺りの雨を集めたものだな」
ノイの推理に、オルニスは押し黙った。
そんなこと可能なのかと、疑っているに違いない。
宙に浮く、浮島の体積のほとんどが水だった。目の前にある湖よりもきっと大きいに違いない。あの水が、地上の湖と螺旋の水流で繋がり、この地方の雨量を管理していたのだ。
「なんで急に! これまで、なんの問題も無かったのに!」
オルニスが悲愴な声を出す。ノイは空を見上げながら、ぽつりと呟いた。
「……土地の記憶だ」
「土地の、記憶?」
「私も、本当にあるとは思っていなかった。ここは以前、雨が多い土地だと言っていただろ。だから、土地が雨を――水を求めてるんだ」
「……そんな、馬鹿な」
信じられないといった風に、オルニスも空を見上げた。
空を睨み付けていると、水球から水が漏れ始めた。水を詰めた袋に、枝で穴を開けたように、ぷしゅっと一本の水が流れ始める。
「漏れ始めた!」
「くそっ――どうにか……!」
あの水が全て地上に一度に落ちてくれば、人どころか、家さえ流れてしまうに違いなかった。
しかし、あれほど大量の水を一気にどうにかする魔法なんて、思い浮かびもしない。
魔法は、発想しなければないも同じである。
「何か手立てを――!」
「もう時間がない」
焦るノイに、くぐもった声でそう言ったのはカルディアだった。
目が覚めたカルディアは、血の流れる頭を押さえて立ち上がろうとしていた。ノイは慌てて彼の体を支える。
「時間がないと言っても――」
どうにかしなければ、人も、土地も死んでしまう。
焦るノイの傍らで、カルディアが辺りを見渡した。自分が何十年も守り、慈しんでいた村をじっと見つめる彼の目は、切なそうに歪んでいた。やがて、彼は目を閉じる。
そして、次の瞬間には覚悟を決めた顔をして、ノイに笑った。
「ノイ」
「え?」
「君だけでも、逃がす」
晴れて穏やかな顔をしたカルディアは、魔法陣を編み始めるために腕を広げた。その仕草から、大がかりな魔法に取り組もうとしているのがわかる。
(……なん、で?)
ノイは知っている。口ではどうでも良さそうに振る舞いながらも、カルディアがこの村を愛していることを。
いくら百年を生きるカルディアとはいえ、この状況でノイに大がかりな魔法を使うということは――この村を、諦めるということだ。
(そんなこと――させられるはずがない!)
ノイは、カルディアの頭をひっぱたいた。
「――な」
目を見開くカルディアに、ノイは大声で叫んだ。
「こぉんの――大馬鹿者め! お前なんか、勘当だ!」
ノイは腹から声を出した。
こんな台詞、彼が幼い頃にだって言ったことは無かった。
けれど、自然と口から出ていた。
叫んだノイは、足に力を入れた。立ち上がり、顎を突きだし、胸を張る。乳白色の髪を風に靡かせ、凜として言った。
「私は、お前をそんな馬鹿に育てた覚えはない!」
ぽかんとしていたカルディアの目が、どんどんと見開かれていく。
幼い子どものように口を開け、「まさか、そんな」と、掠れ掠れの声で呟く。
「諦めるな! まだ時間はある!」
ノイはカルディアと空を交互に睨み付けた。
「皆で助かる、方法を考えるぞ!」







