71 : 俺の花嫁さん
「持ってきたよ、俺のタンポポ」
カルディアのタンポポことノイは、小高い丘の上に布を敷いてカルディアを待っていた。
見渡す限りを星が埋め尽くす空の下、ノイは彼が持ってきたバスケットを受け取る。
ノイの出した提案――それは、花嫁の望んだ日は、外で食事を取るというものだった。
ただし、条件はもう一つついている。
「全く。俺に片棒担がせようなんて人間、もうこの世にはいないと思ってた」
「ふふふ、いいじゃないか。ひと瓶くらいだ」
バスケットを布の上に置いたノイは、カルディアが反対の手に持っていたワインも受け取った。
ノイが言った条件、それは――飲酒だった。
エスリア王国の成人は十八歳で、その年から飲酒を認められている。十五歳だと思っているノイに酒を飲ませるなど、弟子を育てる立場でもあるカルディアにとって、歓迎すべきことではない。
「えらく薄いのを持ってきたな」
「そのくらいで勘弁してほしいな」
「全く。飲んでなきゃやってられない日もあるんだぞ」
変に大人びたことを言うノイに、カルディアは薄く笑った。
ノイは、出会った頃から不思議な子だった。
話し方も価値観も随分と大人びている。彼の弟子オルニスもかなり大人びているため、さほど気にしていなかったが、会話をしていると、大人の倫理観で話していると感じることもある。
そんなノイが、普段は絶対に言わないような我が儘を言ってきたため、自分の罪を許されたかったのもあり、カルディアはつい、秘蔵の蔵から酒を取ってきてしまった。
「オルニスには内緒に出来たか?」
「バレたら大目玉だよ……」
ノイに酒なんか飲ませたと知られれば、カルディアは一瞬にしてオルニスに失望されるだろう。
大勢の子どもに囲まれて育ったオルニスは、年長者としての心構えをしっかりと持っている。
それほど危ない橋を渡ったと知ってか知らずか、ノイはバスケットに入っていたグラスにワインを注ぐ。
「少しだよ」
「ケチくさい婚約者殿だな」
カルディアの浮かべた魔法の灯りに照らされたノイが、鼻の上に皺を寄せる。
「ほら、乾杯だ」
自分用に注いでいたのかと思ったワイングラスを、ノイはカルディアに差し出した。
カルディアは、ノイとのこういうやり取りが、好きだった。
一言一言にかき乱されて、そのくせ全ての言葉を聞いていたくて、冷たくされれば世界の滅亡のように感じて、こうして共犯者のように笑いかけられれば、泣きたいくらいに胸が躍る。
風に流される白い髪を、小さな手が押さえる。その顔はまだ酒も飲んでいないのに赤らんでいて、楽しげな悲鳴を上げている。
(可愛いな)
見るだけでは足りなくて、手を伸ばしたくなる。
手を伸ばす代わりに、カルディアはグラスを差し出した。ノイはそれを見て、楽しそうにグラスをぶつける。
――カチンッ
ガラスとガラスが軽やかな音を立てる。
ノイがワインをぐいっと呷った。
「ノイ、少しずつに――」
「カルディア! 見えるか!」
ノイはグラスを持ったまま手を広げ、周りの空を見ながら大きな声で言う。
「綺麗だろ! 今な、私は。この世界の一瞬一瞬に感謝できる気分なんだ」
酔いが回るには早すぎる。しかし、カルディアはノイの言っていることも、わかる気がした。
ノイの顔は、目は、星空と同じほど――それ以上に輝いている。
(もう少しだけ、ほんの少しだけ)
その言葉が、グラスを受け取ったカルディアの中に積もっていく。
――世界を救った初ノ陽の魔法使いノイ・ガレネーが、実は魔王を封じられていなかったなどと、決して露呈するわけにはいかない。カルディアは己の中に巣くう魔王について、誰にも口外を許さなかった。
カルディアは世界よりも――何よりも、彼女のことが大事だった。
ノイ・ガレネーの名前を、誰にも汚させはしない。
そのためにも、師匠の仇でもある魔王を殺すのは、カルディアの悲願だ。誰にも知られず、ひっそりと。
それ以上に大切なことはなく、それ以上に望むこともなかった。
(けれど……)
カルディアは見ていた景色を心に焼き付ける前に、そっと顔を伏せた。
(ああ……)
そして、心の中でだけ呟くことを、自分に許す。
(――たくないな)
***
朝起きると、カーテンが開いている。
それはこの家にとって決まり切った、変わることがない日常だった。
ノイは背伸びをして、一人のベッドから降りる。シーツには二人分の皺が寄っていて、優しい波が広がっている。
自分の額に手を添える。
そこには毎晩、愛しい人の唇が降りてくる。
朝ご飯の準備が進む一階は、いい匂いが広がっている。
ノイはリビングを抜けると、外に出た。リビングにいるとばかり思っていたカルディアが、そこにいなかったためだ。
靴が朝の雫で濡れる。朝霧でけぶる地表から、土の香りが漂った。肌を刺すような冷気に耐えかねてノイはぶるりと身を震わせる。
両腕を擦りながら歩いて行くと、カルディアはすぐに見つかった。
――カルディアはよく、地上を見下ろしている。
その姿はまるで、幼い頃に絵本で読んだ「神様」のようだった。神様は空高い雲より、遍く大地を見通している。そんな一文が、朝の光を浴びて神々しく輝くカルディアには、よく似合う。
何も言わずに、ノイはカルディアの隣に立った。カルディアはノイに気付くと、驚きもせずにノイを抱き上げる。
「おはよう」
目線を合わせて、朝の挨拶をする。ノイも「おはよう」と返した。
「何を見ていたんだ?」
「雲だよ」
「雲? ああ、今日はちょっと多いな」
「うん。ちょっと異様な雲だと思って」
じっとカルディアが雲を見下ろす。
ノイにとっては、量の多さくらいしか、いつもと違うところはわからない。
「この辺りの雲は魔法で制御してるから、ここまで量が多くなることはないはずなんだけど」
まあ、そういう日もあるのかな。とカルディアは軽く笑って見せたが、ノイはぽかんとした。
「……雲を、制御している?」
「この辺りは昔、雨が酷くてね。そのままでは住みづらかったから」
とんでもないことを言い出したカルディアに、ノイは開いた口がふさがらなかった。
そんな魔法、聞いたことも無かった。
天気や自然を操るだなんて、きっと誰も発想すらしなかった。
魔法は発想しなければないも同じである。とはよく言われるが――発想したからと言って、実現可能かどうかは別である。
自分の両手で海を掬い上げられるはずが無く、自分の両足で山を蹴り飛ばせるはずもない。いくら魔力を操る魔法使いといえども、それほど大きな魔法は流石に度を超えていた。
驚きすぎて、言葉も出なかったノイは、黙って地上を見下ろした。分厚い雲の隙間から、山や村や川が見える。家屋から上がる煙からは、朝食を作る煙が立ちのぼっていた。
「……すごく、領地を大事にしてるんだな」
「まさか。手に余ってるよ」
言葉とは裏腹に、優しい目をしてカルディアも村を見下ろしていた。
「昔、クソ爺にこの土地を押し付けられてね。いつでも逃げられるからって、だらだらと後伸ばしにしてたら、いつの間にか八十年も経ってた」
明るく笑うカルディアの本心が何処にあるのか、ノイはもう知っている。
「ほら、あそこが以前行った、広場」
「本当だ。上から見ると、結構大きな湖だったんだな」
「広場から、道が分かれてるだろ? あっちへ行くと村があって、こっちへ行くと、王都に行く街道に出る」
「領主邸はどこだ?」
「あそこ。丘の上にあるだろう? 以前は水害が多くてね。住民の一時的な避難場所として使うためにも、高台に建ててたんだ」
「……あの山、大きいな」
「あぁ。あそこにはここ十年くらい幽泉鹿 が来るようになってね。幽泉鹿 が嫌う香草を植えてるんだ」
「水を綺麗にする魔法生物だろ? 何故追い払うんだ?」
「あいつらは躍りで水を喚ぶからね。増えすぎるとよくない。ただ角は高く売れるみたいで、村の男達が喜んでたよ」
村の話を振ると、カルディアは雲の上からでも、淀みなく答える。
その目は、領主の光を宿していた。
(……そうまでしてお前が守ってきた土地を、私も守ろう)
優しく目を細めたノイが、カルディアを見つめた。彼女の視線に気付いたカルディアも、ノイと同じほど優しい目で、見つめ返す。
その目が優しくて、何処か甘くて、ノイはカルディアの頭に頬ずりをする真似をして、涙を隠した。
(いつか私が、生まれ変わったとしても――)
カルディアの匂いを嗅ぐ。
いつの間にか、こんなにも好きな匂いになっていた。
(もう二度と、恋などするものか)