70 : 俺の花嫁さん
何処。
何処に。
何処にいるの。
――迷子なら、呼んであげるわ。
***
「ノイ、ノーイ、ノイちゃーん」
名前を呼ぶようになってからというもの、鬱陶しいほどにカルディアが絡んでくるようになった。
「……どうしたんだ?」
ソファーで本を読んでいたノイは、仕方がないなという風に苦笑してカルディアを迎える。にこにこと笑っていたカルディアは、笑みを深くしてノイを持ち上げようとした。
しかし、ノイはすっと小さな手でカルディアを防ぐ。
「カルディア。私はもう、大人の女性になったんだ」
うるさくなった居間から、静かな自室へ向かおうとしていたオルニスがずっこける。カルディアも一瞬ぽかんとしたものの、ノイが先日の初潮の件を言っているのだと思い当たったのか、小さく頷いた。
「そうだね。君は誰もが見惚れる立派なレディーだ」
「だから、もう子どものように抱き上げるのは、出来れば遠慮してもらいたい」
ノイは澄ました顔でそう言った。
これが、ノイが徹夜で考えたカルディアに抱っこされない言い訳である。
――ノイはカルディアが好きだ。
そのため、彼に抱き上げられたり、いつもの距離感で話をされたりすると、確実に狼狽してしまう。
そこでノイは、彼に不審がられず、かつ自分の要望も通す策を考え抜いたのだ。
その名も、「もう大人になったんだから」作戦である。
(カルディアは聞き分けがいいから、これで大丈夫――)
「え。ヤダ」
しかし、聞き分けが良かったはずのカルディアは、ノイをひょいと抱き上げた。ノイは唖然として、カルディアを見下ろす。
「ノイ。君は知らないかもしれないけど、大人の花嫁さんこそ本当はこうしていつも抱っこされてるものなんだ」
「え!? そうなのか!?」
目を見張るノイの後ろで、オルニスが「嘘ですよ」と呟いて自室へ下がった。
にこにこっと笑ったままのカルディアと、無言で目を見開いたままのノイがリビングに残される。
「カルディアッ!!」
また騙したのかと怒るノイに、カルディアは真面目な表情を取り繕った。
「嘘じゃないよ。世の中には『花嫁さんだっこ』という名称の抱っこまであるんだ」
「またそれらしいことを言って……!」
「本当だって。それに夫婦のルールって言うのは、当人同士で作っていけばいいだけだって、どっかの誰かが本に書いてた。俺とノイの間では、花嫁さんは抱っこするってルールでいいじゃないか」
「お前はまたっ……いけしゃあしゃあと!」
怒れるノイを見て、「駄目だ」と零したカルディアは、幸せそうに笑う。
「ノイが怒ってる……」
「お、怒らせたかったのか!?」
「ノイが喚いてる……」
「何を言ってるんだ、お前! コラ!」
「ノイが可愛い……」
怒鳴っているというのに、カルディアはにこにこの笑顔のままノイを抱き寄せた。すりっと、ノイの丁度心臓の辺りにカルディアが顔を寄せる。
「カルディア!」
一際大きく名前を呼べば、カルディアは渋々ノイから顔を離した。そして、ぷるぷると震えるノイを見て、えっと固まる。
「お、お前、今、何処に顔をっ――!」
顔を真っ赤にしてわなわな震えるノイに、カルディアは瞬きをした。
「何処って――え? お腹?」
真剣な表情でそう言うカルディアを、ノイはキッと睨み付けた。
「そこは! 胸だ――馬鹿っ!」
***
「ノイ、ノーイ、ノイちゃーん」
先ほどと全く同じ調子でノイの名前を呼んだカルディアは、コンコンコン、と自分の部屋をノックする。
「出ておいで、ほら。美味しいご飯があるよ。それに、オルニスが取ってきた本もある」
カルディアの部屋に閉じこもってしまったノイのご機嫌を、ドアの前に座ったカルディアが必死に取っていた。正座で。
大人の花嫁さんこそ――等と口から出任せを言って彼女の自尊心を持ち上げたくせに、実は全く大人扱いしていないことがバレてしまったカルディアは、自身の罪を認め、大人しく正座を選んだのだ。
先ほど、階下からカルディアを見たオルニスがぎょっとしていたが、カルディアは見なかった振りをした。
「ノイ。ノイ~」
カルディアは、ノイの名を何度も口にした。
出会った時から彼女を、何と呼んでいいのかわからなかった。
カルディアが思い描く姿と名前を持って現れた少女のノイは、本当に彼の師匠に似ていた。あの時に名前まで「ノイ」と呼んでしまえば、カルディアは彼女を呼んでいるのか、それとも師匠を呼んでいるのか、わからなくなってしまっていただろう。
あの頃、正確にそこまで把握できていたわけではないが、なんとなく名前が呼びづらくて、ずっと誤魔化しながら呼んでいた。ただ、もうすぐ別れることも含め、呼び方を改めなければならないという意識は薄く、更に名前を呼ぶべきだとも思っていなかった。
『私の機嫌が取りたければ、名前でも呼んでみるんだな』
けれどあの時、拗ねた口調で彼女がそう吐き捨てた時。
あまりの可愛さに卒倒しそうになる頭の片隅で、これまで彼女の名前を呼ばなかったことを後悔した。彼女が胸焼けを起こすくらい沢山呼んで、もういいからと言われるまで、耳元で名前を囁けば良かったと、心底思った。
既にノイは、カルディアに名前で呼んでと言ったことを後悔していそうなほど、苦笑いを浮かべている。けれどカルディアは、そんな表情でも嬉しかった。数日前までの、こちらに全く興味を持っていないような、無の表情に比べれば。
――ガチャリ
ドアノブを回す音がして、ノイが出てくる。やはりご飯の話が利いたのかと笑みを浮かべたカルディアを、ノイは見下ろした。
「……夫婦のルールは、自分達で作るんだったか」
腕を組んだノイは、いつもはあれほど「まだ夫婦じゃない!」と騒いでいるのに、こんな時ばかりは臨機応変さを身につけたしたたかさを醸し出す。
「えっと、うん。そうだね……?」
嫌な予感がしつつも、カルディアは笑みを絶やさなかった。しかし、そんなカルディアに、ノイは無情にも告げた。
「私も鬼じゃない。この提案を呑めば、お前が、少しばかり細やかな私の胸に気付かなかったのを、許してやってもいい」
どうする? と尋ねるノイには、一応「いいえ」と答えることも出来たはずだ。
しかしカルディアは勿論こちらしか選べず、小さな声で「はい」と呟いた。