67 : 俺の花嫁さん
カルディアはくるりと踵を返す。
「パンセリノスのところへ行く」
温度のない声でそう言って、カルディアは階段を下りた。一階で様子を窺っていたオルニスが、ぎょっとした顔でカルディアを止める。
「お待ちください! 何故突然――」
「様子がおかしい。俺に心当たりがないなら、あいつだろ」
「先生――!」
オルニスが焦った表情でカルディアの行く手を遮る。カルディアは怒りに染まった目で、必死に加減しながら、オルニスの顎を指先で持ち上げた。
「それとも、君かい?」
彼女をあれほど変えられるのが、君だとでも?
それは、酷く不愉快なことだった。カルディアでさえ、心の強いノイを変えることは出来ないのに。あんな風に弱らせて、あんな風に彼女の決意を曲げさせる力がこの男にあるかと思うと、どうにかなってしまいそうだった。
目の前のオルニスから、血の気が引く。
「カルディア!」
二階から大慌てで降りてきたノイが、泣き出しそうな声でカルディアの名前を呼ぶ。それすらも、オルニスのために出しているのかと思うと、全身の血が沸騰しそうだった。
怒れるカルディアを前に、オルニスは一度目を瞑ると、何かを決意したような顔で口を開いた。
「――りです!」
「……何?」
掠れた声を上手く拾うことが出来ず、カルディアは問い返した。
「月の、障りです!」
苦渋の顔をして、オルニスが叫ぶ。
カルディアはぽかんとして、彼を見た。
「……なんだって?」
「彼女は――つまり、初潮が来たんです」
開いた口がふさがらないとは、正しくこのことだった。あまりにも予想だにしないオルニスの言葉に、カルディアは瞬きすら出来なかった。
「ご容赦ください。諸々の用意が必要なため、僕は相談に乗りましたが……女性には、人には言いにくい事象もございます」
唖然としていたカルディアだったが、ゆっくりと後ろにいるノイを振り返った。
ノイは青い顔をして呆然としていたが、やがて正気に戻り、こくこくと頷いた。
そして、自分の口からも説明しようとしたらしく、ノイは口を開いた。しかしその瞬間、顔を真っ赤にして口をパクパクとする。
口を開いても何の言葉も漏れないノイに、カルディアは信憑性を感じ取った。月の道のことなら、女性の弟子を抱えていたこともあるため、知識としてカルディアも持っていた。
カルディアはオルニスの顎から指を離すと、指で魔法を編む。
すかさず、魔法陣がカルディアの周りにいくつも浮き上がった。その全ての魔法陣を発動すれば、暖炉に火が灯り、ソファーは暖炉の前に移動され、家中の掛け布団がソファーの上に集まる。
「そうとは気付いてやれず、恥ずかしい思いをさせてしまったね。おいで、横になっていなさい」
ノイはギロリとオルニスを涙目で睨むと、とことこと歩いて来た。彼女は持ってきていた枕と毛布をソファーに敷く。もしかしたら、カルディアのベッドを経血で汚すことを心配したのかもしれない。
「大丈夫。きついだろうが、体を温めて、ゆっくり休んでいれば、また元の調子に戻るからね」
横たわったノイに布団を掛けて、額にキスを落とす。ノイと視線を合わせるように床に座り込むと、カルディアは優しい声を出した。
彼は生理を経験したことはないが、体が自分のものから作り変わられていくような恐怖なら、わかるつもりだった。
ノイは布団を鼻の先まで引き上げて、顔をくしゃりと歪ませる。
「……優しくするのは、止めろ」
「ごめん。俺は側にいないほうがいい?」
女性特有の羞恥心を理解してやれなかったカルディアは、また恥ずかしい思いをさせただろうかと、慌てて立ち上がった。しかし、その服の先を、小さな手が掴んでいる。
カルディアは無言でノイの側に座り、彼女の腰を撫で続けた。
***
――エスリア王国暦 482年 晩秋
「おやすみ、俺の花嫁さん」
星空の窓を背景に、美しい男が額に口付ける。
ノイは目を細めて、その光景を見ていた。
――生理の期間は一週間。
一週間はリビングで寝ることを許されたが、その後はまた、カルディアの部屋に連れ戻された。
(逃げ出さないように、見張るつもりなんだろうか)
家が狭いと言ったカルディアの言葉に嘘は無かったが、初めからきっと隣で寝る必要までは無かった。それでも隣で寝続けていたのは、ノイが逃げ出さないように監視するためだろう。
美しい笑顔が冷たく見える。愛情の覗かない、完璧な美。
ぞくりとするほど美しくて、淋しくて、切ない。
(私が、死んでしまってもいいと思っている、人の顔)
そういう男だと、知ってしまった。
「最近、元気がないね」
枕に肘をついたカルディアが、ノイの白い髪を指で掬う。ベッドに入ったら三秒で入眠するカルディアにしては珍しく、寝る前に話をするようだ。
ノイは曖昧に笑った。何と答えればいいかわからず、返事も出来ない日が増えた。
そんなノイを見て、カルディアはいつも辛そうな顔を作る。
思っても、いないくせに。
(これまでは、調子がおかしいのも生理だからと誤魔化せたが、これからは……どうするか)
そう考えた瞬間、自嘲する。
ノイに、カルディアの側を離れるという選択肢は、端からないのである。







