66 : 俺の花嫁さん
「――りです!」
その時、カルディアに迫れていたオルニスが、声を絞り出した。
「……何?」
「月の、障りです!」
オルニスが叫んだ言葉に、ノイは固まった。
「……なんだって?」
「彼女は――つまり、初潮が来たんです。ご容赦ください。諸々の用意が必要なため、僕は相談に乗りましたが……女性には、人には言いにくい事象もございます」
ノイと同じく固まっていたカルディアが、ノイを振り返る。
オルニスが何を思ってそんな嘘をついたのかわからず、呆然としていたノイだったが、彼が必死にこちらを見て頷いているのを見て、ハッとした。
(あっ、一緒に、寝ない理由!)
これほどカルディアが怒ると思っていなかったノイは、「カルディアと一緒に寝たくない理由」という嘘を用意していなかった。それを、オルニスが提案してくれたのだ。
確かに、元気がないのも、一緒に寝ないのも、月経であれば問題はクリア出来る。
ノイも慌てて頷いた。そして、オルニスに加勢しようと口を開いたのだが――上手く言葉が出てこない。
(……あれ、なんで。別に、平気だったろ……?)
幼い日のカルディアに月の道の話をしたことは無かったが、祖父やフェンガローとは普通に話したこともある。
なのに何故かノイはカルディアに生理の話をするのが、たとえ嘘だったとしても恥ずかしくて仕方が無かった。
(くそ、なんでだ。だって――くそっ……)
この人、と。思った人に言うのが。こんなに恥ずかしいなんて。
口を開いたり、閉じたりをノイが繰り返す。顔は、鏡を見なくとも真っ赤になっているのが自分でもわかった。
しばらく黙ってノイを見下ろしていたカルディアが、魔法を振るう。瞬時に暖炉の火が明るさを増し、部屋をあたためる。ふわりと浮いた長椅子は暖炉の前に静かに着地し、座面に何枚もの毛布が積み上がる。
「そうとは気付いてやれず、恥ずかしい思いをさせてしまったね。おいで、横になっていなさい」
恥ずかしさで今にも死んでしまいそうだった。聞いた時は妙案だと思った初潮の案も、他の理由は無かったのかとオルニスを無言で睨んでしまう。
持っていた毛布を敷いて横になると、カルディアが労りに満ちた目を向ける。
「大丈夫。きついだろうが、体を温めて、ゆっくり休んでいれば、また元の調子に戻るからね」
ノイの上に、優しく毛布が被さる。そして、いつも通りのおやすみのキスを降らせた。
ノイのためにあたためられた暖炉に、ノイの体を守るための毛布、慣れた柔らかい唇の感触。その全てに、ノイは震えた。
(――駄目だ、泣きそうだ)
ノイは毛布を引き上げて顔を隠した。
「……優しくするのは、止めろ」
(これ以上、勘違いはしたくない)
怖かった。カルディアに嘘をつかれていると知った、たったそれだけで、これほど自分が弱くなるとは思ってもいなかった。
「ごめん。俺は側にいないほうがいい?」
そう言って、カルディアが立ち上がる。
一緒に眠りたくなかった。去ってほしい。そう思っていたはずなのに、ノイの手は何故か、カルディアの服を掴んでいた。
カルディアは茶化すこともなくその場に座り、ノイの腰の辺りを撫でる。本当に生理であれば、腰の痛みが和らぐことだろう。
(……こういうことを、お前に教えた女が、いたんだな)
それはククヴァイアだろうか。
もし魔力を無くしたのが彼女だったら――カルディアは、魔王の器にしようとしただろうか。
(……やだな。自分が、とことんやな女になっていく)
恋なんて、するんじゃなかった。ノイは目を瞑り、体を丸く縮こまらせた。
***
「ねえ、オルニス。彼女に医者を呼ぶべきじゃないか?」
パンセリノスが帰った後――夕食も食べずに二階の部屋に引きこもったノイを案じ、カルディアは先ほどからずっと、リビングをぐるぐるぐるぐると回っていた。
「大丈夫ですって。陛下に緊張しただけでしょう」
「緊張ったって、相手はパンセリノスだよ」
「先生にとってはそうかもしれませんが、僕達みたいな民草にとっては、一生ご尊顔を拝する光栄に預かれるかもわからないような、神様のような方ですよ」
先ほどから、狭いリビングであっちへうろうろ、こっちへうろうろしているカルディアを、オルニスが呆れた目で見る。
「国王陛下を前にすれば、夕食も喉を通りませんよ」
「あの子はパンセリノスと会話をした後に、会場中の飯を食べるって豪語した子だぞ??」
舞踏会でのノイの様子を伝えれば、オルニスが「あの馬鹿が……」とでも言いたげな顔で額に手をやる。
するとその時、がちゃりとカルディアの部屋の戸が開いた。
勢いよくカルディアはそちらを見上げ、大股で駆け寄った。そしていつものように抱き上げようとして、止まる。
ノイは両手に、枕と毛布を持っていたのだ。
「……どうしたの?」
カルディアは胸のざわめきを覚えた。ノイはふと上を見上げると、うつろな目でカルディアを見た。
そんなノイの表情を見たことがなくて、カルディアは動きを止めた。
「カルディア。今日から私は、別の部屋で休ませてもらう」
ノイの口が、聞き間違えることもないほど丁寧に、一音一音発生する。その目尻は、赤く熟れていた。
(……なんだって?)
意味がわからずに、カルディアはただじっとノイを見つめた。嫌な予感が胸を過ぎる。ドクドクと鳴り始めた心臓に気付かぬふりをして、カルディアは掠れた声で尋ねる。
「……別の、部屋って?」
「リビングに長椅子があったろう。そこで世話になろう」
すいと、ノイが階下の長椅子を指さした。何故彼女が急にそんなことを言い出すのか、カルディアにはさっぱりわからなかった。カルディアは呆気に取られながらも、首を横に振る。
「長椅子って……椅子は座るものだよ。君を寝かせるなんて、とんでもない」
大事なノイにそんな真似はさせられない。考える間も無く断るカルディアに、ノイは「なら」と言い募った。
「オルニスの部屋に厄介になろう」
初めは、ノイが何を言っているのかわからなかった。
徐々にノイの言葉を理解していくと、カルディアの表情は一変した。心優しい年長者の殻を脱ぎ捨てたカルディアは、冷酷なまでの光を宿した目を、すっと細めた。
「――なんだって?」
自分でも出したことがないほど、低く、冷たい声が出ていた。しかし、止められなかった。
「オルニスの部屋に? 彼の部屋に、ベッドは一つしかないはずだけど?」
「お、お前とも、一つのベッドで寝ていたじゃないか……」
「……へえ」
ノイが顔を青ざめさせる。
「俺と、オルニスが、同じなんだ」
氷点下の瞳でカルディアが見つめると、ノイはさっと目線を反らした。その表情はいつもの勝ち気なものと、まるで違う。
(まさか、俺が怖いとでも? 彼女が、俺を恐れる?)
そんなこと、あってはならない事だった。
優しくして、甘やかしたいと、そう感じていたはずだ。そうするべき相手でもあるはずだ。
――なのに、全く抑制が効かない。
「ああ。違うね、同じなわけない。リビングかオルニスの部屋で寝たいってことは、俺とは寝たくないってことだもんね? 俺なんかと、オルニスを一緒には出来ないか」
カルディアの胸に激情が渦巻いていく。
(この子は本当に、オルニスのことを?)
だからカルディアと眠りたくないのだろうか。
だから、オルニスと共にいたいのだろうか。
「そんなこと……」
ノイは小さな声で、曖昧に否定した。
そのことに、カルディアは余計にショックを受けた。
もし違えば、ノイはきちんと否定をする。人の心に敏感な子だ。正確に読み取ることは出来ずとも、寄り添おうとする意思がある。
けれど、ノイはカルディアに寄り添うことはなかった。
カルディアは今きっと、ノイに線を引かれた。
(……手を、離された)
いつでも繋いでいると言ったはずのノイが、自ら手を離した。