65 : 俺の花嫁さん
――エスリア王国暦 482年 仲秋
カルディアは魔王を殺そうとしている。
ノイを道連れにして。
知ってしまった以上、今まで通り過ごすなんて、到底出来るはずもない。
(……一緒になんて、もう眠れない)
カルディアにおやすみのキスをされたら、まるで自分のもののように抱き締められたら、その瞬間にノイの中に芽生えた恋心が暴れてしまうに違いなかった。
そう決断したノイは涙を拭い、魔法陣の描かれた紙を元の場所へと戻すと、枕と毛布を持ってカルディアの部屋から出た。
ノイがドアを開けた気配を感じたのか、カルディアが一階から飛んで来た。
(……カルディア)
彼は当然のことながら、いつも通りだった。その顔を見たノイは、必死に心を殺す。
(信じて、た)
最初は胡散臭いばかりで、子どもを自分勝手に利用しようとするなんて、なんて身勝手な人間に育ったんだと腹を立てたこともあったが、それでもノイは信じていた。
だってこの人は、カルディアなのだ。
ノイが守り、慈しみ、育てた可愛い子だった。
それがいつしか、ノイにとってただそれだけの存在ではなくなっていた。舞踏会で腹を立てたほど、大人に戻りたいと願っていたのは、何のことはない――ノイが彼を、一人の男として愛してしまっていたからだ。
カルディアとは、彼の見合いを妨害するための、仮初めの婚約者というだけの関係だった。
だがその中で、信頼関係も生まれていると信じていた。見た目は子どもでも、二十六年分の知識があるから、本物とそうじゃないものだって見極められると、自分を過信してしまっていた。
――絡んだ指を、互いに離さなかった、あの時。
ノイは、カルディアと同じ気持ちでいると思っていた。
ああ、けれど、なんて馬鹿だったんだろう。
(あれは全て――演技だったんだ)
カルディアは、ノイに恋などしていない。
彼はノイをこの浮島に引き留めるために、優しくしていたに過ぎない。
(あれもこれもぜーんぶ、嘘だったわけだ……)
ノイが彼の計画を知ったことなど知りもしないカルディアは、いつものように優しい。
いつも通りの優しいカルディアに――いや、努めて優しくしようとしているカルディアに、ノイは上手く笑いかけることすら出来なかった。
「……どうしたの?」
カルディアが心配そうにノイに尋ねる。
ノイはカルディアを、ぼんやりと見つめた。
(……相手が無関係の人間であれば、世界を救うためとはいえ、犠牲を強いるのはきっと、褒められたことではない)
だが、ノイは無関係ではなかった。
(私がお前のかつての師だと、気づいているのだろうか)
気づいて、恨んでいるのだろうか。あの大袈裟な師匠尊敬パフォーマンスも全て、ノイを欺くための嘘なのだろうか。
もう、カルディアの何を信じて、何を疑えばいいのか、それすらも、ノイにはわからなくなっていた。
(どちらにせよ、かつての自分の尻拭いだ)
魔王と魔力が衝突した瞬間、ノイは確実に死んだと思った。
生き永らえたと知った時には、何のために生き残ったのだろうかと、思った時もあった。
(無様にも生きていたのは、この時のためかもしれない)
もう一度、チャンスを与えられた。
魔王をこの手で滅ぼすチャンスを。
一度は失ったと覚悟した命だ。
死ぬのは耐えられる。
(……耐えられないのは――)
ノイはカルディアを見た。視界が涙で滲む。
(なんだ、私)
殺されることよりも、よっぽど。
(カルディアがついた嘘のほうが、堪えてるじゃないか)
「カルディア」
口を開けば、みっともなくも声が震える。ノイは毛布を握りしめる手に力を込めた。
「今日から私は、別の部屋で休ませてもらう」
突然だったからか、カルディアは驚いたように目を見開いた。
「……別の、部屋って?」
「リビングに長椅子があったろう。そこで世話になろう」
リビングなら、カルディアの寝息は聞こえない。彼を思ってもしノイが涙を流したとしても、彼の元まで流れることもないだろう。
「長椅子って……椅子は座るものだよ。君を寝かせるなんて、とんでもない」
「なら、オルニスの部屋に厄介になろう」
その優しさも、嘘のくせに。
そう思った瞬間、ノイは咄嗟にそう言っていた。
カルディアが優しいのは、ノイがノイだからではない。彼がノイを利用するため。魔王を移すための、器だから。
(きっとここにいるのが他の誰であっても、カルディアは引き留めただろう。――利用するために)
カルディアから目を逸らすと、階下のオルニスと目が合った。彼は、世界中の面倒くささを掻き集めた鍋で煮詰めた汁をぶっかけられたような顔をして、ノイを睨んでいる。
オルニスから視線を逸らしたノイに、頭上から低い声がかけられる。
「――なんだって?」
ノイの心臓が、ズンッと、重たくなった。
全身の毛が逆立ったような感覚に驚いて、ノイは慌てて顔を上げた。
カルディアは、何の表情も浮かべていなかった。
こんなカルディアを見るのは初めてで、ノイは凍り付いたように動けなくなる。
「オルニスの部屋に? 彼の部屋に、ベッドは一つしかないはずだけど?」
「お、お前とも、一つのベッドで寝ていたじゃないか……」
「へえ」
冷たい声に、ノイはごくりと生唾を呑み込んで俯いた。
「俺と、オルニスが、同じなんだ」
(……なんで、お前が怒るんだ)
ノイには、意味がわからなかった。殺されようとしているのは、ノイだ。ノイが怒るならまだしも、手元において、ノイを利用しようとしているカルディアが怒るなんて――おかしい。怒られたノイが嫌気をさして逃げ出したら、本末転倒じゃないか。
(それとも、私が逃げるわけなどないと、高をくくっているのか?)
混乱しながらも、ノイはカルディアを見上げた。
「ああ。違うね、同じなわけない」
しかしカルディアの目にあるのは、奢りや、傲慢さとはほど遠い――焦燥感にも似た激昂だけだった。
「リビングかオルニスの部屋で寝たいってことは、俺とは寝たくないってことだもんね? 俺なんかと、オルニスを一緒には出来ないか」
「……そんなこと」
ないと言い切ってしまえば、カルディアとオルニスへの「好き」の違いを説明しなければならない。
それにノイは、何故これほどカルディアが怒っているのかわからなかった。
(ここに来たばかりの頃に一緒に寝たくないと言った時は、全然怒らなかったじゃないか……)
言葉を濁したノイに、カルディアは堪忍袋の緒が切れたらしい。
「パンセリノスのところへ行く」
意味がわからず、ノイはぽかんとした。
驚いたのは階下のオルニスも一緒だったようで、慌ててカルディアの元へ駆け寄る。
「お待ちください! 何故突然――」
「様子がおかしい。俺に心当たりがないなら、あいつだろ」
ノイは慌てた。そう来るとは、思わなかった。
(どうしよう、どうしよう!)
パンセリノスが今日の会話を話すとは思えないが――話さなければ話さないで、何か咎められるかもしれない。
非公式な場での彼らの交流を見ていれば、どちらが主導権を握っているのかは明白だった。
「それとも、君かい?」
「カルディア!」
オルニスが冤罪で断じられそうになっている気配を感じ、ノイは慌てて階段を駆け下りた。
しかし、立っているカルディアを見て、いつものように抱きついて止めていいのかもわからず、距離を保って立ち尽くす。