61 : 狭いベッドと可愛い君
あれほど狭く感じていたベッドが、驚くほどに広かった。
明け方前に目が覚めたノイは、ベッドの上で大の字に転がっていた。こんなに腕を伸ばしても、誰にもぶつかることはない。それが嬉しいどころか、凄く淋しかった。
(あの我が儘か……いやあっちの我が儘か……それともあれか……それとも……)
自分の何がいけなかったのか、ノイは眠れぬ夜の狭間でぐるぐると考えていた。
基本的に自己肯定感の高いノイが、これほど自分の反省点を思い浮かべるのは、本当に珍しいことだった。
結局ノイはむくりと起き上がると、窓辺に近付いた。いつもカルディアが開けるカーテンを、今日はノイが開けることになるだろう。
ため息をつきながら、そっとカーテンの中に身を潜らせる。
冷たいガラス窓にコツン、と額をぶつけたノイは――目を見開いた。
そこには、同じく目を見開いているカルディアがいたのだ。
ノイは後ろを見る。そしてもう一度前を見て、無我夢中で窓を開けた。
ガチャガチャッっと音を立て、ノイが窓を開けようとしている事に気付いたカルディアは、慌てた様子で一歩前に出る。
ノイは窓を開けた。
そして、そのまま二階から飛び降りた。
カルディアが目を剥く。
思いっきり地面を蹴って、滑り込むようにしてノイを受け止める。
「――あっぶなっ! 君ねえ?!」
「カルディア! おかえりっ!」
心臓を飛び出さんばかりに驚いているカルディアの首に抱きついて、ノイは勢いよく挨拶をした。カルディアが帰って来たのが嬉しくて、満開のタンポポのような笑みを浮かべる。
これには毒気を抜かれたのか、カルディアは心底大きなため息をついて、後ろ向きに両手を突く。
「……ただいま」
そのため息にノイはぎくりとした。カルディアがいないのが淋しかったノイはつい最短距離で出迎えたのだが、現在彼はノイに対してだけ凄く不機嫌だったのだ。
カルディアの上からずるずると退くと、ノイはぺこりと頭を下げた。
「おかえりなさい……あの、カルディア。早かった、ですね。道中、無理はしてませんか?」
「は?」
カルディアはもう一度よく噛み砕いて、そして「は?」と同じ言葉を発した。
「なにそれ? なんで……。――俺、それは嫌だって、前にも言ったよね」
強い眼光に貫かれ、ノイはまたしおしおと俯いた。塩をかけたナメクジのように萎れていくノイを見て、カルディアが片手で顔を覆って「違う」と呟く。
「ごめん、今のは。そう、俺が悪い……」
カルディアはノイの小さな肩を掴むと、腰をかがめて、必死にノイよりも視線を低くした。
「悪かった。ごめん。そんな話し方、頼むから止めて。お願い」
いつもの飄々としているような台詞だったが、その顔は真剣だった。切羽詰まったカルディアの顔に、ノイは気付けばこくんと頷いていた。
「よかった。君に嫌われたかもって、焦った」
カルディアがノイをぎゅっと抱き締める。カルディアの心臓はバクバクと鳴っていた。それはノイが飛び降りたせいか、こうして話しているせいかはわからなかった。
「嫌われたのは、私だとばかり」
「君を嫌うなんて、太陽が落ちてもあり得ない」
ため息交じりに言ったカルディアは、自分で言って自分に驚いたようだった。しかし、カルディアに抱き込まれ、真剣に考え込んでいたノイは気付かなかった。
「……だが、私に怒っていただろう?」
カルディアがハッと息を呑む。ノイが涙声なことに気付いたのかも知れない。ノイは涙を見られたく無くて、カルディアの服にしがみついた。
「わた、私は、お前に嫌われたと思ったんだ……」
「……そんなわけ」
「我が儘ばかり言う私が面倒になって、だから……だから郷へ行ったんだと……」
「そんなわけないのに。ごめん、俺がそう思わせたんだね。本当に、ごめん」
カルディアは小さなノイの体を抱き締めて、ごめん、ともう一度呟いた。
それはいつか聞いた、傷つけても謝ればいいと思っている軽薄な声とは明らかに違っていた。
カルディアの心からの謝罪だと伝わる。
心に染み入るようなカルディアの「ごめん」と、彼が背を撫でる手の温度に、ノイの悲しみが溶かされる。
「こんなすれ違いで君に嫌われなくて、本当に良かった」
心底安心したように言うカルディアに、今度はノイがムッとした。
「……嫌われたって、カルディアは別に問題ないだろ」
「なんだって?」
「私の横じゃなくたって、お前は眠れるんだもんな。今日だって、ククヴァイアのところへ行ってたじゃないか」
ノイだけ何も知らされず、のけ者にされているのが悔しかった。
そのはずだったのに、カルディアを前にして出て来た言葉は、ククヴァイアのことだった。
まるで拗ねた子どもみたいな言葉しか出てこない自分が恥ずかしくて、ノイはぐっと俯く。
「眠ってなんてないけど」
「え?」
「行って、とんぼ返りしてきた」
「ええ?!」
以前行った時は、片道十時間もかかった道のりだ。子どものノイを慮ってゆっくりな旅程にしていたのかもしれないが、単身だとしても簡単な道のりではない。
(それを、往路だと?!)
驚いて顔を上げると、カルディアは何故かにやついていた。
先ほどまでの真摯な表情は何処へやら、楽しくて仕方がないと言った顔で。
その顔が、無性に腹が立つ。
「俺がククのところへ行ってたの、そんな嫌だったんだ」
にやにやしたカルディアに素直に頷くのが嫌で、ノイは顔を逸らしてつんと顎を上げた。
「別に」
「嘘。嫌だって顔してた」
「だって――!」
ノイはカルディアを振り返ると、眉をつり上げる。
「だって――! だってお前は、彼女にだけは凄く優しい目をするじゃないか!」
口に出してしまえば、その事実を認めたのと同じである。ノイは悔しくなって、これ以上失言をしたくなくて、口を閉じてそっぽを向いた。
何故か涙が滲んできて、悔しくて唇を噛む。顔を反らしたまま黙り込んでいるノイが噛んだ唇を、カルディアがそっと親指で叩いた。
その余裕に腹が立って、また顔を背けると、カルディアが大きな両手でノイの顔を優しく掴んだ。
座ったカルディアの股の間にいるノイは逃げることも出来ず、近付いてくるカルディアの顔を睨み付ける。
涙が浮かぶノイの目を覗き込むように、カルディアがノイを見た。その目は、じんわりとした熱を放っていた。眦が赤く染まり、瞳は潤んでいる。はっ、っと息を呑むノイに優しく微笑むと、カルディアは額同士をくっつけた。
「あんまり、可愛いことばかり言わないで」
――決心が鈍るじゃないか。
目の前の唇が、ノイにはわからない言葉を形作る。しかし、ノイが疑問に思う間も無く、カルディアはノイの目尻に口付けた。ちう、と音を立て、カルディアがノイの涙を吸う。
呆気に取られたノイがぽかんとすると、カルディアはにこーっと笑って、顔を離す。
そして、ノイの肩に両腕を乗せ、彼女の顔の後ろで自身の手を繋ぐ。
「次は、君も行く? 彼女も、君とゆっくり話したいって言ってた」
「え?! やだ! やだ行かない!」
本当の子どものように、ノイは駄々をこねた。カルディアがノイを挟み込んでいるせいで、ノイはその場でジタバタすることしか出来ない。
「すごい! 君が子どもみたいに暴れるなんて!」
「悔しい、悔しいっ!」
暴れるノイを笑っていなすと、カルディアはひょいとノイを抱えた。そして、くるりとノイの姿勢を変え、自分の膝に乗せる。カルディアはノイの背中から覆い被さるようにして、彼女を抱き締めた。
「許してね、花嫁さん。あの子は、少し特別だ。初めての弟子だし、クソ爺……恩人の娘なんだ。俺に妹がいれば、多分、あんな感じなんだろうな、っていつも思ってる」
クソ爺――フェンガローの娘。そう聞くと、ノイにとっても親戚の娘のような気がしてきた。
耳元でくすぐる優しい声と、背後から当たるカルディアの温もりが、ノイを落ち着かせる。
ノイはむすっとしたまま、けれど仲直りのための言葉を探した。
「じゃあ告白とかは、別にされたことないんだな?」
ぐすっ、っと鼻を啜れば、カルディアは押し黙った。
「カルディア!?」
「まあまあ」
「まあまあ!?」
「もう半世紀も前の話だよ」
「半世紀前なら無かったことにはならんぞ、カルディア!! お前は妹に告白されて、まあまあで流すのか!?」
「まあまあまあ」
「まあが一回増えたって、何にも変わんないんだからな!?」
立ち上がって文句を言うノイを、カルディアが座ったまま、笑って宥めようとする。更に文句を言ってやろうとした時、背後から大きな声が聞こえてきた。
「――ほんっとうに、あんた達は! 今、何時だと思ってんですか!」
玄関のドアを勢いよく開けた寝間着にナイトキャップ姿のオルニスが、目を据わらせている。
「まだ日の出前ですよ!? さっさと家に入ってください! そして、寝る! いいですか!? 朝まで僕は寝ますからね!」
腕を組んでそう叫んだオルニスは、言うだけ言うと屋根裏部屋に帰っていった。
怒られたノイとカルディアは顔を見合わせ、まだ太陽の光も射さない夜空の下、満面の笑みで笑った。