59 : 狭いベッドと可愛い君
「カルディア! おかえり」
夕方になって帰ったカルディアを、ノイが笑顔で出迎える。
しかしカルディアは、いつものように笑顔を作れなかった。
それどころか、あんな話をオルニスとしていたというのに、いつも通りの笑みを自分にも向けてくるノイに、たとえ様のない感情を抱えた。
ノイがカルディアの反応に驚き、怖々と様子を窺っていることには気付いていた。
けれどカルディアには、配慮してやれる余裕がなかった。
百年以上も生きていて初めて抱く感情を、持て余していた。
(まあ、俺と話せなくても、君は関係ないだろうけど)
なんでもノイは、「オルニスの愛しい私」なのだから。
案の定、ノイはとたたっとオルニスのもとへ走って行った。
オルニスに何か小声で怒鳴られている。きっと、夕飯の支度の邪魔だとでも言われているのだろう。
全てのことに、いつもよりずっと過敏になっている自分が、また嫌だった。
ノイがオルニスの服を、剥ぎ取る勢いで引っ張る。料理をしているオルニスは、完全に無視を決め込んでいる。
チラリと、ノイがこちらを見る。カルディアは視線こそ向けていなかったが、全身全霊でノイを気にしていたので、その視線に気付いた。
涼しい顔でいるカルディアを見たノイが、オルニスに耳打ちをするため、踵をあげる。
ノイとオルニスの顔が不意に近付く。
ガタン、と音を鳴らして、カルディアは椅子から立ち上がっていた。
「先生? どうされました?」
小声で騒ぎ立てるノイをほっぽって、オルニスが走ってやって来た。良妻賢母の鑑のような弟子を、何故か視界に入れられずに、カルディアはぶっきらぼうに告げた。
「悪いけど、もう休むよ。俺の分は二人で食べておいて」
「えっ――先生昼も……っていうか、まだ六時ですよ!? 先生、先生!?」
ふらふらと階段を上るカルディアの背からオルニスは叫び続けていたが、カルディアは足を止める事は無かった。
夜になって、そっと寝台が揺れるのに気付いた。
(……ああ、こっちで寝るんだ)
オルニスの方で寝なかったのか。
そんな拗ねた考えが頭をもたげ、カルディアは目眩がしそうだった。口を開けば悪態がついて出そうだったため、寝たふりを続ける。
息を殺した気配が、そっと近付いてくる。
息を吸って、吐いて。そんな簡単なことが、上手く出来ない。普段通りの寝息に聞こえるよう、カルディアは必死だった。
小さな体はいつも通りの定位置につくと、そっとカルディアに手を伸ばした。
彼女の指がカルディアの顔に触れた瞬間、びくりと体が揺れてしまう。
「わっ……起こしたか?」
ノイの小さな吐息交じりの声を、聞かなかった振りをして、カルディアは目を閉じ続けた。
「よかった。起きてないな……うん、熱もない」
額に手を当てたかったらしい。カルディアの不調を心配したのだろう。
手を離したノイは、しばらく考え込むように静かになった後、おもむろにカルディアの頬を両手で包んだ。
(……え?)
そのまま、額と額がこつんとぶつかる。
カルディアは反射的に息を止めた。自然に呼吸をしていなければ怪しまれるだろうに、近すぎるノイに、どう対応すればいいのかわからなかった。
ノイの柔らかく細い髪が、カルディアの頬を撫でた。くすぐったい感触に、ぞくりと背中が震える。
「……やっぱりないか」
どうやら、ノイなりに熱を測り直そうとしたようだった。
カルディアはバクバクと高鳴りだした心臓を抑えるのに必死で、逆に熱が上がるような気さえした。
ノイの小さな手が頬から離れた瞬間、カルディアはバッっと身を翻して彼女から離れた。寝返りに見えるよう、寝台の隅に横向きに寝転がる。
「……おやすみのキスは――いや。嫌がるだろうな」
ノイが小さく呟いて、首を横に振る気配がした。
(おやすみのキス? 誰が? 誰に? この子が、俺に?)
心臓が痛いほどに脈打っていた。カルディアはうっすらと目を開けて、気配を伺う。
ノイはごそごそとして、カルディアの背後で寝転がろうとしていることがわかった。
ノイが寝転がる。
カルディアは到底、いつものように彼女の方を見られる気がしなかった。
馬鹿みたいに、自分の頬が熱くなっている事にカルディアは気付いていた。
不本意でいて不可解な熱に、眉を寄せる。
次第に、ノイのすぴすぴという寝息が聞こえ始めた。
(俺はこんなに、眠れないって言うのに――!)
顔を歪め、目尻まで赤くしたカルディアは反射的に飛び起きる。そのまま、ノイを揺さぶり起こしてやろうかとさえ思った。
けれどカルディアが見下ろすノイは、月明かりの中で幸せそうな顔で、ぐーすかと眠っている。
体から力が抜ける。カルディアはため息をつきながら、どすんと寝台に横になった。
カルディアはその日また――眠れぬ夜を過ごした。
***
「お、おはよう、カルディア。いい朝だな」
身なりを整えて降りてきたノイは、既にダイニングテーブルに座っていたカルディアに挨拶をした。
濃いくまをこさえたカルディアが、じろりと音が鳴りそうなほど強い眼力で、ノイに白けた目を向ける。
ノイはショックのあまり、その場で突っ伏して泣き出してしまいたかった。
――ククヴァイアのつむぎの郷で過ごした夜と同じく、ノイはまたカルディアに無視をされた。
二度目ともなると、偶然ではないだろう。そのショックは凄まじく、昨日の夜は大人一人分の食事しか入らなかった。オルニスが「あんた達、揃って熱でも出てるんじゃないでしょうね!?」と戸惑ったほどの異常事態である。
ノイに熱はなかったが、カルディアは熱だったのかもしれない。熱であれば大変なのに、熱であってくれと祈るように伸ばした手は、カルディアの体温が平熱なことを告げてきた。諦めきれず、額と額を合わせても、カルディアの体温は変わらなかった。
お決まりの時間に彼がカーテンを開ける時、必ず一度はノイも起こしてくれるカルディアだったが、今朝はそれすらなかったことに、ノイは胸が千々になりそうだった。
「カ、カルディア。今日は何をするんだ? 最近何かはまっていることはあるか?」
ノイの出した話題は、祖父が、なんとか孫娘であるノイと会話をしようと頑張った時の下手くそなレパートリーそのままである。
案の定、カルディアは冷めた目をノイに向けて、ため息を吐く。ノイは倒れそうになるのを必死に堪え、しずしずといつもの席に座った。
台所からやってきたオルニスが、粛々と朝の準備を進める。
「先生、食事の前にこちらを」
「またこのお茶かい? 苦くて嫌なんだけど」
ノイは大きくショックを受けた。なんとカルディア、オルニスとは会話をしているのである! ということはやはり、カルディアは意図的にノイを無視しているということだ。
(わた、私は……何をしてしまったんだ……?)
ショックでクラクラしているノイの前で、オルニスが淡々と言う。
「領地を訪れた行商の者が、体にいい茶だと言っていたんです。昨日から体調も優れないようなので、きちんと飲んでくださいね」
「全く……これじゃ、どっちが師匠だかわかりゃしないね」
カルディアは不機嫌を隠しもせずに、コップを掴むとぐいっと煽った。
両手で頭を抱えているノイの側で、オルニスは目を細めて、カルディアが茶を飲み干すのをじっと見つめている。
その後の朝食は惨憺たるものだった。誰もが無言のまま、カチャカチャとカトラリーが皿を叩く音だけが響く。
食事を終えたカルディアは、二人を見向きもせずに外に出て行った。今日も霊廟へと向かったのだろう。
ノイはオルニスに泣きついた。
「オルニスゥ!」
「今日は無理ですよ! 何しろ、意味わからんほどの仕事量でしてねえ!」
まだ何も言っていない内から、拒絶されてしまった。こちらも、機嫌はすこぶる悪いらしい。
何やらノイが寝ている間に、不機嫌なカルディアに無遠慮に今日の仕事を割り振られていたようだ。
すごすごと引き下がり、ノイは畑に出かけた。忙しい弟子達と違い、ノイの仕事は畑の観察くらいしかすることがない。
「あんなに私に懐いてたくせに!」
小石や雑草を取り除き、拾ってきた枝で畑の周りに杭を打ちながら、ノイは叫んでいた。
「大きくなったら、お師様と結婚するとまで言ってたくせにッ!」
言われていないが、きっとそんな感じのことは言っていたはずだ。ノイは記憶をねつ造し、ぶつぶつと文句を言う。
ついこの間まで、移動する時は抱き上げて歩きたがったくせに、ここ最近はほとんどそれもなくなってしまった。
今日なんて、間違っても指が触れることもないように、完璧に距離を取られていた。
「なんでだ……」
何をしたのか、全く思い出せず、ノイは刺した杭に顎を載せた。
ここに来てすぐの頃ならきっと、「思春期か?」なんて、彼の成長を見守れただろう。
けれどノイは今、それが出来なかった。
カルディアに対して、そんな余裕がなかったのだ。
(……――今日もカルディアは、早く寝るだろうか?)
昨夜、ノイがベッドへ行った時には既に眠っていたが、どうやらあまり質のいい睡眠は取れなかったようだ。とすれば、睡眠大好きカルディアはきっと、今夜はいつも以上に早寝をするに違いなかった。
(今日は仕方がないから、大人しく抱き枕になってやろう)
それできっと機嫌は直る。
己の推理に大満足して、ノイは柵作りに精を出した。







