05:師匠と弟子
「――カルディア」
付けてもらったばかりの名前をノイに呼ばれ、カルディアは現実に引き戻された。
芋を齧りながら、ぼんやりとしていたようだ。
「っはい」
慌てて返事をしたカルディアを、ノイは物言いたげな目でじっと見つめた。
カルディアの額から、冷や汗が流れる。
(何か、したかな……怒ってるみたい。気付けなかったけど、何度も呼ばれてたのかも。どうしよう。せっかく名前を付けてくれたのに……)
名前を取り上げられたり、もう、呼んでくれなくなったりするのではないかという不安がカルディアに生まれる。目の前のノイは、そんなカルディアをじっと見つめ、眉間に皺を寄せた。
「カルディア」
「は、はい」
「お前――」
カルディアは芋を持つ手に力を加えた。手のひらにまで、じっとりと手汗が滲む。
(どうしよう。何だろう。何て言われるんだろう)
悪い不安ばかりがカルディアを襲う。
「本当は――」
カルディアはぎゅっと目を瞑った。
何も感じないように心を閉ざして、ただ下を向いていれば、毎日祈っていた神が助けてくれなくとも、気にならなかった。
何を言われても、何をされても、平気だったのに――
(今は、お師様の一言が、こんなにも怖い)
カルディアを人と言ったノイ。カルディアを抱き締めてくれたノイ。カルディアが呼ぶための名前を、真剣な顔で考えてくれていたノイ。彼女に、一言でも拒絶されるのが、耐えきれないほどの恐怖だった。
「――足りないんじゃないか?」
聞こえた言葉の意味がわからず、ぎゅっと瞑っていた目を、カルディアは恐る恐る開いた。
「芋、全然減ってないじゃないか! 勿体なくて、少しずつ食べているのだろう? 遠慮しないでちゃんと言いなさい! 三個くらいあればいいか?」
(芋?)
芋。とカルディアは自分の皿を見た。エスリア王国に広く普及している芋は、大人の拳ほどの大きさで、焼けばほくほくと、煮ればねっとりとした食感になる。ぎゅっと実が詰まっているため、大の大人でも三つも食べれば腹一杯になる。
その芋を、カルディアは朝から五つも盛られていた。
カルディアの皿よりも沢山盛られていたノイの皿には、もう一つも残っていない。
カルディアの額から、先ほどとは違う意味の冷や汗が流れ始める。
「お、お師様」
「謙虚は美徳だが、お師様は淋しいぞ。全く。気の利く師匠でよかったな」
「お師様、あの、もう、本当に、本当に……」
席から立ち上がったノイが、芋を串に突き刺し始める。この乱暴な焼き方にもかなり慣れてきたが、これ以上増やされるのは困る。
「どうした?」
けれど、振り返ったノイが、あまりにもにこにこと嬉しそうに笑っているから――
「あ、りがとう、ございます……」
カルディアは何も言えなくなって、頭を下げた。
皿におかわりを入れるスペースを空けるため、カルディアは気持ちを奮い立たせて芋に齧り付いた。
***
色とりどりの広葉樹が山肌を染める。
透き通るような青い空では、美しい色の符翼鳥が旋回し、高い鳴き声を響かせる。
乾いた落ち葉の上で、大きな魔法使いと、小さな魔法使いが向かい合って立っていた。
「ここにある――」
ノイの指がカルディアの胸をさす。
指はすぐに離れ、カルディアの胸の前で人差し指をぐるぐると前後に回し始めた。
「魔力の塊を、撚っていく。前にも言ったが、魔力に触れることだけ意識すればいい。まずは魔力の扱い方に慣れなさい」
ノイの軌道を真似して、カルディアも指をくるくると回した。回して、引いて、体内から出てくる魔力を細く強く撚っていく。
魔力の塊なんてもの、彼女に教わるまで気にしたこともなかったが、「ある」と言われたら「ある」気がするのが不思議だった。
ただ、多くの人間は、そこに心臓があることを知っていても、自分で動きを止めることも、早く動かすことも出来ない。魔力を操るということは、そういう部類の話な気がした。
奥深い山の中――ノイの家は辺鄙な地にひっそりと立っていた。家は小さいものの、大人と子どもが二人で暮らすには十分な広さだ。
しかし魔法を習う時にはいつも、二人で庭に出ていた。
「上手だ! さすがだカルディア! 私の弟子は優秀だな」
彼女の弟子として魔法の修行を初めて、一週間が経っていた。
ノイは魔法使いの師匠としては、優秀な人物だった。魔法を扱ったことがないカルディアにもわかりやすく教えてくれる上に、ほんの少しの進歩でも、空から菓子が降ってきたかと思うほど、大げさに喜んでみせる。
面はゆくなりつつも、カルディアは集中を切らさぬよう、懸命に魔力に向き合った。ここで意識を逸らして、ノイにがっかりされたくなかったからだ。
「糸巻く糸巻く、くるくると――」
カルディアの集中を高めるため、ノイが手習い歌を歌う。魔法使い達が最初に覚える、魔法陣を編むための歌らしい。
糸巻く糸巻く くるくると 廻りて紡ぐは 古の糸
伸ばして引いて からからら いざ始むるぞ 魔法の旅
トゥララ ララ……
糸出づ糸出づ さらさらと 空舞い踊るは きらめく糸
彩り輝きて きらきらら 天の輪潜る 魔法の扉
トゥララ ララ……
糸編む糸編む ちくちくと 此方から 彼方へと
望むがままに ひらひらら 魔法の糸で 願い叶えん
トゥララ ララ……
ノイが口ずさめば山々の鳥が喜び、葉が踊り、空気が輝く。
彼女は美しい人だった。
国一番の魔法使いな上に、国一番の美女であるのは間違いないと、カルディアは確信していた。
馬のようにしなやかな手足。ゆでた卵のようにぷるんとした肌。大きな目は飴玉よりも美しいペパーミント色。柔らかそうな雲色の髪は、陽を浴びると貝殻の内のような光沢を放つ。
知的でどこか淋しげにも見える彼女だったが、ひとたび口を開くと、太陽さえ笑い出しそうな明るさでカルディアを照らした。
食べ物を頬張る姿は更に愛らしかった。カルディアが日夜、祈りを捧げ続けた神だって、これほど可愛く芋に齧り付くことは出来ないに違いない。
「――よし、そこまで」
ひたすらにノイの手を見ながら撚り続けていたカルディアは、制止の声にハッとして魔力の糸を手放した。その瞬間、どっと胸に空気が入り込んでくる。気付けば、体中の力が抜けていた。
「おっと、大丈夫か?」
足がもたつき、大きくよろめいたカルディアを、ノイが慌てて支える。
「寄りかかるといい。魔力を扱い慣れていない内は、ままあることだ。心配することはない」
余程、集中していたらしい。これほど体から力が抜けていたことに、全く気付いていなかった。カルディアはノイの胸でこくんと頷く。
ノイの服に鼻先を掠めた瞬間、毎晩布団に引きずり込まれ、ぎゅっと抱き締められる時と、同じ匂いがした。花のように優しく、ミルクのように甘く、不思議な、お日様にも似た匂いが。
(……僕はいつまで、ここにいられるんだろう)
親のもとにいたのは、数年だった。教会にいたのも、僅かだった。であれば、ここもいずれ自分の居場所ではなくなるのだろうと、幼いカルディアが想像するのは、自然な流れだった。
ただの成り行きでカルディアを預かってくれているだけのノイは、勢いで弟子にしただけのカルディアに、律儀にもこうして魔法を教えてくれている。
(出来れば……)
少しでも長く、などと望むのは、魔王になってしまったくせに、図々しいだろうか。