56 : 春よ来い
――時は僅かに遡る。
ノイとパンセリノスの顔合わせを済ませた後、カルディアは王宮の奥の部屋にいた。
僅かな灯りが浮かぶ部屋にカルディアを案内したパンセリノスは、暗がりでもわかるほどに厳しい顔つきをしている。
「どうされたんです、陛下」
「余は、真面目な話をしに来たのですぞ。カルディア様」
二人きりの部屋の中。先ほどまでの態度は互いに一転する。
「こんなところまで来てあげた、礼を言われるのかと期待してたのに」
「それも含めて、是非お聞かせ願いたい。何故急に。私はもう四十年も、貴方に城へ来るよう頼んでおりました。ずっと王宮に興味のなかった貴方が、何故」
「彼女のためだよ。喜ぶかと思って。あの子は食べるのが好きなんだ」
豪華な調度品の並べられた部屋のソファーに、カルディアが腰掛ける。その目は夜の灯りの中でも一目でわかるほど、あたたかい眼差しをしていた。
「……それに、最期ぐらい、いいかなと思って」
「……今、なんと?」
ぽつりと呟いたカルディアの声は、パンセリノスにまで届かなかったようだ。
カルディアは、いや、と小さく首を横に振る。
「ねえ、一般的には、奥さんとは何をしたらいいの?」
「……なんですと?」
「パンセリノスは二十前にはもういただろ、奥さん。夜抱く以外には、何してるの?」
「あのように幼い子どもに――! カルディア様、人の道だけは外れられぬよう、お頼み申し上げますぞ!」
「手なんか出さないよ」
全く。誰も彼もが俺を飢えた獣のように言うんだから。と、カルディアはげんなりした顔を見せた。
「――あの子を、どうなさるおつもりです」
パンセリノスは、彼自身が幼い頃からカルディアを知っている。
八十年前――パンセリノスの父である、先王フォティーゾが初ノ陽の魔法使いノイ・ガレネーを貶したことに激怒したカルディアは、公の場で彼を殴った。
当時の国王であったフェンガローは、カルディアの死刑を回避するので精一杯だった。カルディアは辺境の地――ヒュエトスに島流し。流刑となった。
その頃のヒュエトスは雨ばかりが降り、常に洪水の危機に瀕していた。作物も育たない。人も長くは住み着かない、不毛の地であった。
そんな土地を、カルディアは魔法で改革した。地表を上げ、雨量を調整し、泥濘んだ地面の硬度を上げた。
土地があれば、人が訪れる。人が訪れればそこに営みが生まれ、営みが続けば人が増える。そうしてカルディアは、誰もが見捨てた地を、彼なりの方法で守ってきた。
そんなカルディアを英雄のように追いかけていたのが、パンセリノスである。
パンセリノスは子どもの頃、祖父フェンガローの翔翼獅・ルクセに乗って、無断でカルディアの元へ遊びに来るほど懐いていた。カルディアもまた、自分によく懐くパンセリノスに辛く当たることはなく、ヒュエトスを彼の秘密基地変わりにすることを許していた。
そして、そんな時からカルディアを知っているパンセリノスだからこそ、わかることもあった。
「どうするって、何を?」
「余への言い訳のための婚姻ではないのでしょう? それ自体が、何かへの言い訳だ。貴方は私に言い訳など必要ないのだから。ただ、嫌だと言い続ければいい。これまでの四十年間のように」
カルディアは片方の眉を大きく上げた。
「誰への言い訳です? あの少女への? 何故そうまでして、あの子を……魔力のない子を、側に置きたがるのです」
カルディアの背後にある大きな窓から、月が見えた。
月明かりがカルディアの長い黒髪を照らし、彼の表情が見づらくなる。
「三十も年下のくせに、一丁前に説教かい?」
「私が真に気にかけているのは、貴方だと! おわかりになるはずだ!」
パンセリノスが声を荒らげると、閉め切っていた扉がノックされた。顔を見せた護衛に「必要ない」と言ってパンセリノスが下がらせると、また二人きりの空間が生まれる。
「皆して、俺を悪魔かなにかと思ってるね……――ああ、違うか」
カルディアは自嘲を浮かべる。
「俺を知ってる人は皆、俺がちゃんと人じゃないって、気付いてるだけか」
ソファーの背もたれにもたれたカルディアは、自身の腹に手を当てながら、両目を閉じてそう言った。
「カルディア様!」
強い口調でパンセリノスが叫ぶ。
衛兵が再びドアをノックする前に、カルディアはソファーから立ち上がり、出入り口の扉を開けた。
「大丈夫。君が心配するようなことじゃない。――ちょっと、利用させてもらうだけだよ」
カルディアはパンセリノスを振り返ってそう言うと、にこっと笑顔を浮かべて、手を振った。
パンセリノスがソファーから立ち上がった時には、その長い髪すら扉の向こうへと渡って行ってしまっていた。
パンセリノスは脱力し、立ち上がったソファーに再び腰掛ける。
「……呼び戻しますか?」
気を遣った衛兵が、パンセリノスとカルディアを交互に見て尋ねるが、パンセリノスは首を横に振った。
「――いや、よい。余も戻ろう」
顔を片手で覆い、ため息をつきながら、パンセリノスはカルディアと――そして、彼が優しい目をして語った少女の無事を願わずにはいられなかった。