50 : 紡ぐは糸か恋か
しょんぼりとしてしまったノイを、カルディアは片腕で抱き上げた。
「そんなに嫌だった?」
困った顔で、カルディアがノイの顔を覗く。ノイはふるふると首を横に振った。
「俺は、君に魔力がないから、符丁を聞かれても問題ないと言ったわけじゃないよ」
その考えには至らなかった。
魔力ナシは符丁を聞いたところでセキュリティは突破できない。ノイはそう蔑まれたと勘違いしていると、カルディアは思っているらしい。
「君になら符丁を使われてもいいと思ったからだよ。君は決して、間違ったことをするために、ここを訪れる事はないだろうから」
それは奇しくも、ノイがカルディアをここに連れて来た時と、同じ気持ちだった。
「俺も、大昔。俺の師匠にこうして連れて来られたことがある」
暗く細い階段を、カルディアがノイを抱っこしたまま、ゆっくりと下る。
「その時、俺の師匠も符丁を聞かせてくれた」
だからと言って、そんなとこまで真似をしなくていいのにと眉を下げたノイに、カルディアはにっと笑った。
「俺はね、それが嬉しかった」
「……嬉しい?」
「ここには、あの人の全財産が預けられていた。そんな場所の秘密の鍵を、俺にだけ渡してくれたんだ。あの人が寄せてくれた信頼を裏切るものかと、幼いながらに決意したものだよ」
ノイはショックを受けて、何も返せなかった。
彼女がカルディアに符丁を教えたのは、彼を信頼していたから――ではなかったからだ。
ノイの目の前にあるカルディアの目が、すっと温度を無くす。
「……でも、それは俺のただの自惚れだった。ただの、遺言だったんだ。あの人は、俺のせいで自分が死ぬことを、知っていた」
ノイは大きく息を吸った。口元を両手で覆い、ブルブルと震える。
(知って、いたのか……)
沈んだ声を出していたカルディアは、ノイの調子に気付くと慌てる。
「どうした? 空気が薄いのかな? 待って、急いで――」
「大丈夫、大丈夫だ」
私は、大丈夫なんだ。ノイはそう言って、カルディアの首にぎゅっと抱きついた。カルディアは逡巡した後、とんとんとノイの背中を叩く。
「俺も大丈夫だよ。そんな、悲しい話じゃない。ただ青二才だった俺が、浮かれてたってだけ。――俺は対等な信頼を寄せてもらったわけじゃなくって、ただ、庇護されるためにあの人の財産を譲られてただけだったんだ。……不甲斐なくてね。銅貨一枚さえ、引き出せてない」
ノイはぎゅっと目を瞑った。
フェンガローはきっとノイの死後、彼女が預けていた銀行のカードをカルディアに渡してくれた。そして名義変更されたカードを見て、賢いカルディアは全てを理解した。己が銀行に連れて行かれ、符丁を覚えさせられた理由を。
ノイは、優しさのつもりだった。
彼への愛のつもりだった。
まさか遺した金のせいで、彼を苦しめていたとは思ってもいなかった。
あの時のノイは、とにかく守ることに必死で、遺される者がどんな気持ちになるかなんて、考える余裕がなかった。
「けどね……花嫁さん。君といる内にね、あの時のあの人の気持ちが、少しずつわかるようになってきた」
悔やむノイの背を、カルディアが優しく撫でる。その口調は、何処か晴れ晴れとしていた。
「……え?」
「俺は多分、全く信頼されてなかったわけじゃない。俺になら、あの人が築いてきたもの全てを渡してもいいって――そういう信頼をもらってたんだ」
ノイは、くしゃりと顔を歪めた。
その通りだと、大きな声で叫んでやりたかった。
けれど素性を隠したままのノイに、そんなこと言えるはずもない。
そしてカルディアは、死んだノイに安易に尋ねずとも、己でその答えに辿り着いた。その軌跡に震えるほどの喜びを感じる。
だからノイは、こくんと大きく頷いた。
足りない気がして、もう一度、こくんと。
「――俺もね、花嫁さん。今そんな気持ちなんだよ」
カルディアがノイの頬に鼻を寄せて、ただ静かに囁いた。
嘘ばかりつくカルディアの言葉は、本当かはわからないものばかりだ。けれどこれは、落ち込んだノイを慰めるための単なる慰めではなく、本心であればいい――腕の上で揺られながら、ノイは強くそう思った。
***
それから一週間の間、ノイは四度、仕立て屋ニーマを訪れた。
日に日にやつれていくアイドニとオルニスが、ノイは心配でならなかった。しかし、百年前のノイならともかく、ただの子どもが居座ったところで作業の邪魔になることはわかりきってもいた。ノイどころか、カルディアさえ邪魔だっただろう。
仕立て屋ニーマは一週間店舗を締め切って、全ての部屋を開放して作業を行っていたのだから。
床には裁断途中の布や布の切れ端、何百種類もの糸や、太さの異なるリボン、型紙のために作られた紙が散乱していた。足の踏み場もないとはこのことである。棚にずらりと並べられていたドレスを装飾するためのボタンやビーズは、入れ物の瓶や箱の蓋が開き、誰かが一歩不注意を起こせば、とんでもない惨事が引き起こされることは見て取れた。
そんな部屋の中で無我の境地で糸を織っていたのがアイドニだ。アイドニとリナリーは二人でああでもないこうでもないと意見を出し合い、最高のデザインのための服を、布から作り上げた。
――そうして出来上がった服を、一週間後、ボロボロのアイドニ達からノイは託された。
「わたくしは……少し……寝ます……着替える時は……手を貸しますので……」
ふらふらになりながら、アイドニは奥の部屋に潜っていった。その部屋にある長椅子が一週間、彼女の寝床となっていたらしい。
「お疲れ様でひゅう……私も……説明は後でえ……」
リナリーはその場で突っ伏して、寝息を立てながら眠ってしまった。二人とも、怒濤の一週間を過ごしたのが、その様子から明らかだった。
「お客様にすまないね。最後の最後まで調整してたせいで、ろくに眠れてないんだ」
リナリーにブランケットをそっとかけるイボミアも、何度も目を瞬かせていた。
しかしノイはそれに気付けなかった。なぜなら、彼女達が仕立てたドレスに目を奪われていたからだ。
「いいや、ありがたい。感謝します、心優しき魔法使い、イボミア。そして小さな魔法使いリナリーにも……心からの賛美を」
ドレスを凝視して顔を輝かせるノイを見たカルディアが、イボミアとリナリーに感謝を告げる。
「着せ方は僕がわかります」
オルニスも目の下に随分と濃いくまを作っていたが、ふらつくような真似はしなかった。
「なら、支払いを済ませよう。彼女達をゆっくりと休ませてやりたい」
先日、エスリア王国銀行から下ろしてきた金で、カルディアが支払いを始める。オルニスと、アイドニが世話になった分も支払おうとしているその声でハッと気付き、ノイはそちらを見た。
ノイはとたたと走り寄り、彼の腰に抱きつく。カルディアはふらつきもせず、ノイを受け止める。
「ん?」
「カルディア。可愛い服を買ってくれて、ありがとう! 大好き!」
しがみつき、精一杯の可愛い笑顔でにこっと笑ったノイの背後で、オルニスが大きな音を立ててこける。
「なっ……なっ……!? 大……は……?!」
驚愕に顔を染めたオルニスが、言葉も出せずにノイを指さしている。何をやっているんだと首を傾げるノイを、カルディアが抱き上げる。
「可愛い花嫁さんにドレスを贈っていいのは、俺だけだからね。こちらこそ。こんな光栄な役目を、ありがとう」
ノイの額に自分の額をこつんとぶつけて言ったカルディアは、未だにずっこけて口をパクパクしているオルニスに、苦笑を向ける。
「一週間前くらいから、彼女の中で流行ってるらしくてね」
「流行りとはなんだ。本当に大好きだから、大好きと言ってるんだ!」
「うんうん。ありがとうね」
かいぐりかいぐり、とノイの頭をカルディアが撫でる。その撫で方は思いっきり子ども扱いだ。ノイが「大好き」と言い出すまで、カルディアはここまで子ども扱いを強調することはなかった。
ノイの胸が、またぎゅっとなる。
(……釘を刺されてるみたいだ)
ならカルディアは、この胸の痛みが「嫌い」の方がいいのだろうか。
「大好き大好き大好き!」
ノイは絶対にそんなことを認めたく無くて、また張り合うように「大好き」と言葉にする。
「はいはい。――イボミア。彼らを明日の朝までここで預かっていてもらえる?」
「そりゃかまわんよ。この通り、大したもてなしは出来てないけどね」
ノイの大好き攻撃など簡単に聞き流したカルディアに、イボミアが答える。
「よし。じゃあオルニス。着せ方を教えてもらおうか」
「今からですか?」
怪訝そうに、オルニスがカルディアに尋ねた。
「舞踏会は夜だからね。また起こしに来るのも可哀想だ。君達は今から、ゆっくりと休みなさい」
カルディアは、オルニスの頭を軽くぽんぽんと叩いた。不意を突かれたオルニスはその手を避けられず、師の労りをツンとした顔で受け取っていた。