45 : 思い出のひとひら
「さあ、閣下。特別対応をさせていただきます。奥の部屋でお話を。無論っ、お連れ様もご一緒に」
「あら、ありがとう」
連れの女性はにこりと微笑むと、支配人の足を踏んづけて部屋の奥へと向かった。
その様子に、ノイは絶句する。
唖然として彼らを見ていた他の客も、偽ヒュエトス魔法伯爵がホールから消えると、口々に何かを話し合いながら店外へ出て行く。カルディアも、オルニスとアイドニに頷くと、ノイを抱っこしたまま外へ出た。
「――ッカルディア! あれ! あれ!!」
「うん」
「何故、何も言わない?!」
怒ったノイを面白がるように、カルディアは喉で笑う。
「俺は今、自分がヒュエトスであることを証明する術を持っていないし、あそこにいた誰も、正誤を判断する材料を持っていない。ってことは、水掛け論にしかならない。でしょ?」
怒っているノイのほっぺを、カルディアがぷにっと指先で突く。この男は、全く気にも留めていないことがわかる。
「でも、さっき店に入る前も、魔法伯爵の悪口を言ってる人がいた。きっと、ああいうことを他でもしてるんだ」
「なるほどね。あの男が貴族かは知らないが――少なくとも、魔法使いだった。俺がヒュエトスだと名乗り出れば、店に被害を与えることになるかもしれない。……それに」
外に出たカルディアは、店をじっと見ながら、懐かしそうに目を細めた。
「この店には、少し縁があってね。出来れば迷惑は掛けたくない」
ノイの怒りが、急速に萎れていく。
(……カルディアも、覚えているのか?)
彼にとっては百年も前に、ノイと手を繋ぎながらこの店に入ったことを。
場所は人を繋ぎ、人は絆を繋ぐ。
店の経営者が変わっても、彼の思い出は、きっと心の中の引き出しの奥に大切に仕舞われている。
「……カルディア様。この度は私の案内でご不快な思いをさせてしまい、何とお詫び申し上げれば良いか……」
ノイとカルディアの会話が一段落ついたと感じ取ったのか、アイドニが頭を下げる。
「君のせいであるものか。さあ、次の店を教えてくれるね? まだまだ、知っているんだろう?」
「ええ。お任せくださいませ」
アイドニは優雅に笑って見せたが――その後も店探しは難航を極めた。
王都の主要な仕立て屋には、既に王宮主催の舞踏会に向けて大忙しだった。
ヒュエトス魔法伯爵の名前を出したところで、何処の店でも偽ヒュエトス魔法伯爵の悪い噂を聞いているらしく、逆に遠巻きにされて終わった。話すら聞いてもらえない現状だった。
多くの貴族はこういった時、知り合いを頼るものだが、カルディアが百年間社交をサボり続けてきたせいで、コネもツテもアテもない。
夕方になる頃には、アイドニの顔は悲壮感に溢れていた。可哀想になるほど顔を真っ青にさせたアイドニを、ノイはどう慰めて良いのかもわからない。
「はあ……」
オルニスが往来で大きなため息をつく。その音がアイドニの耳にも届くと、彼女は震える拳をぎゅっと握りしめた。
「……ご立派なため息ですこと」
「は?」
「これ見よがしにため息なんてついて。わたくしのせいだと、そのよく囀る口で、おっしゃればよろしいじゃありませんの」
「誰も言ってないだろ、そんなこと」
オルニスが呆れ顔で応対する。先ほどのため息が本当に疲れからくるものだとしても、罪悪感に押しつぶされそうなアイドニには、そうは聞こえないだろう。
アイドニは今、わざわざカルディアを王都まで連れてきたのだからという重圧でいっぱいに違いない。
「では、今から言うところでしたのね。それはそれは、貴方の言葉を奪ってしまって、申し訳ありませんわ」
「あんたな……いい加減にしろよ」
疲れや焦りから、オルニスの声にも苛立ちが滲んでいた。
アイドニの頬にカッと朱が差す。
「アイドニ。オルニスも私も、カルディアだって。お前のせいだとは思っておらん」
少年少女の喧嘩をなんとか諫めようと、カルディアの腕にいたノイが声をかけたが、それがオルニスを刺激してしまったらしい。
「いいえ、この際だから言わせてもらいますけど――こいつも悪いに決まってます。安請け合いして、たかだか本の知識で連れ回して。一度も郷の外から出たことがないくせに――」
「それを、貴方が言いますの!?」
怒鳴ったアイドニが、オルニスに本を叩き付けた。
その本は、これまでずっと、彼女が大切に抱えていた本であった。
オルニスはハッとした顔をしてアイドニを見る。アイドニの瞳からは、ポロポロポロと大粒の涙が零れていた。
「わたくしが外に出る機会を奪ったのは、貴方のくせにッ――!」
アイドニの抱える絶望と同じほど鋭い絶望が、オルニスを刺したように見えた。
彼女はそのまま、ダッと駆けていく。
「アイドニ!」
ノイはカルディアの体を押して、ぴょんと地面に降り立った。大股で走り出したノイをカルディアが大声で呼び止めたが、ノイは構わずに群衆に消えたアイドニの背中を追いかけた。
アイドニの豊かな金髪が見えた。
汗だくになり、よろよろの体で、ノイはアイドニに追いついた。以前もこうして子どもを追いかけて、街を走ったことがあった気がしたが、あの時よりも確実に体力が落ちていた。
(いつもいつも、カルディアに抱えられているからか……)
今後は少しは自分で歩くようにしよう。そう思いながら、アイドニの背に声をかける。
「……っアイドニ!」
近くにいてくれて、本当によかった。王都は、住む人間皆顔見知りのつむぎの郷とは違い、変な輩や、あくどい者も大勢住んでいる。少女が一人と言うだけでも危険なのに、これほど可愛いアイドニは、どれほど危険だったろうか。
しかし、ノイが呼びかけたにもかかわらず、アイドニは振り返らなかった。その割に、ノイが追いかけてきたことに気付いて走り出しもしない。
不思議に思ったノイは、アイドニの側まで駆け寄った。
すると彼女は、見知らぬ男に腕を引かれていた。
引かれるがままに連れて行かれるアイドニは顔を蒼白させて、怖じ気づいてしまっている。ノイの方を見ないのは、彼女を巻き込みたくないという気持ちからだろう。
中年の男は酔っ払っているように見えた。
ノイはすかさずアイドニの服をひっぱり、大きな声をあげた。
「わああああん! 誰か、誰か助けてええ! お姉ちゃんが、お姉ちゃんが攫われちゃうよぉおお!!」
泣き声は少々棒読みだったが、往来を行く人々が一斉にこちらを見た。アイドニを連れていこうとしていた男は、ノイを見てガンをつける。
「あ? なんだ、ガキ。人違いじゃねえか?」
注目されれば逃げ出すかと思ったが、男は引かないようだった。アイドニほど美しい少女を逃したくないのだろう。
並の子どもなら震えて逃げたかもしれないが、ノイは凄まれても引かなかった。見た目こそ子どもだが、精神は子どもを守る義務を持つ、一人の大人だったからだ。
「この子は私の姉だ。手を離せ!」
「ノッ、ノイ……様……」
アイドニの引きつった声が聞こえる。彼女は声も出せない程に怯えているのだと気付いたノイは、より一層強い視線で男を見つめる。
「一緒に王都警邏隊に行ったっていいんだぞ」
「このクソガキッ……」
顔を赤らめた中年男は、ノイに拳を振り上げた。
ノイは、ぐっと歯を食いしばる。
暴力は、いつか終わりが来る。
ノイはそれを魔法で強制的に終わらせていたが、魔力で勝てない兄弟子達が振るう拳の、最初の一発や二発は、いつも痛いものだった。
今回はその魔法すら無い。痛いのは一発や二発では済まないだろう。
だが、そんなことで、ノイが手を離すわけにはいかなかった。
耐えればいいだけなら、耐えられる。
(どれだけ殴られても、離しはしない)
何も出来ないからと、何もしないわけにはいかない。
それが、子どもを預かった大人の責任で、決意だった。







