41 : 布団に包んだ秘密
(――利用する、ためだ)
規則正しくなった寝息が、腕の中から聞こえる。
(そのために引き留めて、優しくしているだけと、わかってるはずだろ?)
もう何十度目になるかわからない言葉を、カルディアは心の中で繰り返す。
優しいふりをしているだけ、愛している風に見せかけているだけ。
なのに、こんなにも強く心を揺さぶられる。
(花嫁のくせに、他の女に遠慮して……いつでも身を引く気でいる)
たったそれだけのことが、何故これほど悔しいのか、カルディアにはわからなかった。
(それに、その頃には、彼女はもう――)
入念に準備している自分の計画を、一時でも忘れるなんて、あり得ないはずだった。
なのに、あの時のカルディアの頭からはすっかり抜け落ちていた。
ノイの言う未来など永久に来るはずがないことにも気付けないほどに、動揺していた。
(……この子は簡単に、俺を捨てられるんだな)
そのただ一つの真実だけが、カルディアの胸を一杯にして、言葉の一つも紡げなくした。
ノイはカルディアが他の女を抱いていたとしても、気にも留めずに譲ってしまえる上に、カルディアが隣にいない未来のことまで考えていた。
(俺が出て行けと言えば、きっと身一つで島を降りる)
そんな姿が簡単に想像出来てしまった。そのあまりの切なさに、カルディアはノイを抱く力を込める。
(彼女は俺に、未練なんて、ない)
それでいいはずだ。それがいいはずだ。
みぞおちのもっと奥、カルディアが名前を知らない場所が痛む。
(……あの人じゃ、ないのに)
こんなに心を揺さぶられることなんて、もう二度と、ないと思っていた。
「……気持ち悪かった、はずだ」
カルディアはそっと腕の力を緩めると、ノイを見た。ノイはのんきな顔で、すぴすぴと眠っている
――気持ち悪い。
まだ二十歳になってすぐだったカルディアは、フェンガローに用意された部屋の中で、月の光に炙られながら、胃の中のものをベッドにぶちまけていた。
可哀想なのは、当時の王太子によって手配された高級娼婦だった。
一緒に寝台に上った男には吐瀉物をかけられ、王太子には伽を遂行できなかった責任を取らされるのではないかと、ベッドの上で吐瀉物に塗れて震えていた。
「軟弱者が。いつまでもそんな風でどうする」
異常事態と呼ばれたフェンガローは、高級娼婦を風呂に通した後、薄暗い部屋でカルディアを詰った。
ここはフェンガローがいくつも持つ邸宅の一つだった。友人と気軽に会う際や、こうした秘め事の時に使われる。屋敷はいつフェンガローが来てもいいように、一年中清潔に保たれていた。
「ノイを忘れられないのもわかるが――」
「あんたにわかるもんか。裏切り者のくせに」
「私は王族だからして、子を作らねばならんのだ!」
胃液まで出し切ったカルディアは、腕で口元の吐瀉物を拭い取る。
――当時のカルディアとフェンガローは、かれこれ十年以上の付き合いになる。
カルディアの中の魔王が孵化した、あの日。
フェンガローはカルディアの修行に使う沢山の魔法道具と、カルディアのための日用品を揃えて、翔翼獅でノイの家へと飛んでいた。ノイから遺言と共に送りつけられてきた、カルディア名義の銀行カードに対する不満もぶつけるつもりでいた。
しかし、彼が到着した時には既にカルディアの中の魔王が暴走し始めていた。
自分の身と王都を守るのに精一杯で、すぐ側にいたはずのノイを守るどころか、その姿を目にすることすら、フェンガローは叶わなかった。
更に、最愛の師であるノイが死んですぐのカルディアは、生きる気力を無くしていた。
「僕のせいだ」
大地を抉られた山の中、ノイの亡骸はどれだけ探しても見つからなかった。ノイが消えて以降、食べ物も口にしなくなった小さなカルディアの面倒を見ていたのは、フェンガローだった。
「もう、生きていたくない」
「生きろ! そなただけなのだぞ! ノイの最期を見たものは! そなたが語り継がなくてどうする!」
無理矢理に食べさせられた食事と、この言葉に背を叩かれ、カルディアは生を取り戻した。あのままでは、せっかくノイに救われた命だったというのに、一人孤独に死んでいたのは間違い無かった。
ただ、カルディアとフェンガローは、そりが合ったとは言い難かった。何をしていても、何処にいても、必ず口喧嘩をした。
――そして今回も、カルディアの身を心配したフェンガローのいらないお節介によって、二人はゲロまみれの喧嘩をしていた。
「その面だ。今後も全ての女を避け続けるのは無理だとわからんのか!」
「ならもういっそ、山に引きこもる」
「そんなところまで師に似らんでいいんだ」
仏頂面で拗ねているカルディアに、フェンガローは大きなため息を吐いた。
「お前な……外に目を向けてみろ。ノイ以上と思える女に、きっといつか会える」
「いないし、会いたくない」
カルディアにとってそれは、揺るぎのない確定事項だった。
「お師様だけでいい。人生たかだか五十年くらいなんだし、わざわざ他の人を好きになる努力なんてしたくない」
若かったカルディアは、あの日確かに、全身全霊の気持ちでそう言った。
その言葉が覆る日が来るなんて、想像も出来なかったし、したくもなかった。
もしそんな日が来たら、世界に絶望すらしただろう。
けれど、小さなノイを腕に抱き、カルディアが思い出したのは遠い記憶となってしまった、あの日のことだった。
(もう……思い出すことも無くなってたのに)
ノイを抱いていた腕を解き、ごろりとベッドに仰向けになった。ノイは、カルディアの胸に鼻を寄せ、穏やかな寝息を立てている。
あまりにも穏やかに眠っているものだから、カルディアはなんだか腹が立ってきた。
いつもなら自分も既に眠っている時間である。なのに今日は、全く眠くならない。
カルディアが、ノイの鼻を指で摘まむ。ノイは「ふごっ」っと鼻を鳴らすと、嫌そうに首を横に振った。にんまりと笑ったカルディアは、ノイの命令通り、指を離してやる。
(……君の言う通り、いずれ「さよなら」する日が来る。でもそれは、「花嫁」でなくなるからじゃない)
ノイとカルディアは死別する。それは、カルディアが決めた未来だった。
(その日をずっと……夢にまで見ていたはずだ)
カルディアはうつ伏せになり、両腕に顔を埋めた。ノイは、隣で眠る男がこんなことを考えているなんて、思ってもいないに違いない。
安らかな寝顔で眠るノイの額に口づけを落とした後、カルディアはゆっくりと目を閉じた。
***
――紙をちぎったように薄い雲に、月が隠れる。
月明かりさえ届かない、木々が生い茂る奥深い庭の片隅。影さえも生まれないそこは、一面の緑に囲まれ、静寂と神秘で包まれている。
「あの方は警戒心が強いから、ここでの食事は人が先に食ったものしか手をつけやしない」
繁茂した葉が夜風にそよぎ、二人の話し声すらかき消した。
「帰ったら、この薬を料理に混ぜなさい」
「……先生は舌が繊細なので、気取られます」
押し殺した微かな声は静かな庭の闇に、ただ落ちる。
「そこはお前が上手く誤魔化しなさい」
「……承知しました」
月が雲から顔を出す。地面を覆う苔や小さな草花が、二人の影を受け止めていた。