03 : 伸ばした手の先
「よし、飯だ!」
カルディアを抱き締めていたノイは、大きな声で叫んだ。
ご飯、ご飯。と小躍りしつつ、親指と中指を擦るように滑らせる。すると、暖炉に魔法陣が広がった。火種もなかった暖炉に火が灯り、ぱちぱちと音を立てて燃え上がる。
箱から拳大の芋を二十個ほど取り出し、暖炉脇に吊している長い鉄の棒に突き刺すと、ノイは薪の上に乱暴に放り投げる。
カルディアはというと、ぽかんとしてその様子を見ていた。ノイが突然食事の準備をし始めたことに驚いているようだが、気にすることなく動き回る。
二つのコップに、水瓶に汲んでいた水を魔法で注ぐ。突如現れた水柱を見て、カルディアが明るい声を出す。
「す、すごいっ……! お水が、動いた」
コップに水を注ぐためだけの魔法、などという無駄な魔法を初めて見たのか、カルディアが瞳を輝かせる。
気をよくしたノイは少しだけ遊んでやることにした。国一番の魔法使いであるノイにとってこんなこと、朝飯前だからだ。
水でわっかを作ったり、そのわっかに魚のかたちにした水をくぐらせたり――大道芸人も真っ青の見世物に、カルディアの瞳がどんどんと輝いていく。
「すごいっ――!」
子どもらしく頬を紅潮させて、カルディアがノイを見た。
「そうだ。私は、とっても凄いんだ」
えっへんと胸を張ったノイはテーブルの上のセットを済ますと、暖炉に投げ入れていた棒を持ち上げ、芋が焼けたことを確認する。薪の上に放ったせいで黒い炭と、白色の灰でまだら模様が生まれているが、匂いはいい。きっと焼けているに違いない。
「座りなさい。魔法は体で操るものだ。まずはしっかり、自愛せねばな」
小さなカルディアが大人用の椅子に座る。ノイは焼き串から、ポイポイポイッとカルディアの皿に芋をたんまりと盛った。
目を白黒させたカルディアが、おずおずと口を開く。
「……こ、こんなに、入らない、です」
「なら、入るだけ食べなさい。残りは、このお師匠様が食べてあげよう」
ノイはふふんと笑った。お師匠様。なんともいい響きである。
瓶の蓋を開け、魚の塩漬けをじゃがいもに載せる。カルディアの分は、彼が魚を好むかわからなかったため、皿の端の方に少しだけ――ティースプーンに山盛り二杯分……いや、足りなければ困ると三杯分だけ――載せることにした。
こんもりと盛り付けられた魚を見て、またもやカルディアは目を白黒させていたが、両手を握り、額にあてて「いただきます」とノイが言えば、彼も慌てて小さな両手を握りしめ、額にあてた。
芋に付着していた炭と灰を手で振り払い、ノイはぱくぱくと芋を口に運ぶ。まだ中の方は芯が残っていて硬いが、シャキシャキとした食感もいいものである。満足気に、ノイは次々に頬張っていく。
その様を、向かいに座ったカルディアはぽかんと見ている。ぽっかり開いた小さな口には、まだ芋の一切れも入っていない。
「どうした。まさか全く入らないのか?」
心配になって尋ねるノイに、カルディアは慌てて首を横に振る。
そして、ノイの真似をして芋の灰を痩せこけた指で払い、意を決したようにぱくりと芋に齧り付いた。
はふはふと息を吐き出しながら、口をもごもごと動かして、カルディアが必死に芋を食べる。
一口食べたら、空腹を思い出したように、目の前にノイがいることも忘れた様子で、一心不乱に芋に齧り付いている。
(ご飯が終わったら、風呂だな)
べたついた髪が束になって、顔にかかっている。カルディアの髪が口に入りそうになっていることに気付いたノイは、ついっと腕を彼の方へ伸ばした。
「――っ!?」
するとカルディアは、びくりと体を揺らして身を引いた。ノイを見上げる表情には怯えの色が混ざっている。
ノイは軽率に手を近づけた自分を悔やんだ。
「すまない。食べる時に髪が邪魔かと思ったんだ」
芋を取り上げるつもりも、暴力を振るうつもりもないことが伝わるように、ノイは一文字一文字ゆっくりと伝えた。
カルディアの強張っていたからだから、ゆっくりと力が抜ける。
「ごめんなさい」
小さな声で紡がれる謝罪に、ノイの胸が潰れる。
「お前が謝ることなど何もない。カルディア、私が悪かった。許してくれるか?」
「そんな――勿論ですっ」
勢いよく返された言葉に、ノイの顔が緩む。嬉しくて、芋を一つ自分の皿から差し出したが、芋を増やされたカルディアは悲愴な顔をして、持っていた芋に齧り付いた。
***
太い柱から吊されたハンモックに、たっぷりの水が注がれている。水は布から染み出ることも、溢れることもなく、ただそこに浮いていた。
そんなハンモックを前に、一人の子どもがぷるぷると震えている。
「ひ、一人で入れます」
「わかった、わかった。今後の思春期は受け入れてやるから、とりあえず今日は諦めなさい」
何しろ今のカルディアの汚れ具合は、そこいらの山犬にも負けていない。それから、注意深く、服で見えなかった箇所に怪我がないかの確認もするつもりだった。
「でも僕、汚くて……」
「悲しいことにな、魔法使いは、師匠の言うことは絶対なんだ」
情け容赦なくノイはそう切り捨てると、カルディアの服を引ん剥くと、ポイッと彼を水の中に投げ入れた。
「わっ、ひっ! あっ――あれ?」
「? 何を驚いてる」
「水が、温かくて……? それに、溢れない……」
カルディアが心底不思議そうに、ハンモックを見る。
「当然だ。浴舟なのだから」
「ゆのふね……だから……?」
ノイの言葉をオウム返しすることしか出来ないカルディアに、ノイはぱちくりと瞬きをした。
ハンモックを使った風呂――浴舟は、魔法道具である。
魔法道具とは、人が便利に暮らすために魔法使いが作り出した道具である。
暗闇を照らしたり、鍋に火をかけたり、汚れた衣類を洗ったりと用途は様々だが――魔法道具はそのどれもが高額だ。浴舟は、いくつかの魔法を複雑に編み込む必要はあるが、場所も取らなければ、掃除もいらない優れものではあるのだが――この様子ではきっと、魔法道具を見るのが初めてだったのかもしれない。
――この地に生きとし生けるもの全てに、魔力は備わっている。
魔力を撚り魔法陣を編む人間は勿論、踊りによって清浄な水を生み出すとされる幽泉鹿 も、契約により人を背に乗せ空を駆ける翔翼獅も例外ではない。
だが、魔力を持っているからと言って、全ての生物が魔力を思うがままに操れるわけではない。それは人間も同じである。
エスリア王国に住む多くの人間は、誰かが与えてくれた便利な魔法を享受して生きている。
魔法使いらが作った魔法道具を使うことは出来ても、その仕組みや、作り方は知らない。そういう人間が大半だ。
魔法使いは人よりもうんと少なく、魔法使いになるには、魔法使いに弟子入りするしかない。弟子入りは、本人の魔法使いとしての資質の他に、経済的にも恵まれていなければ難しいことだった。多くの子どもは人手として駆り出されるため、一部の特権階級の家を除いた庶民にはやはり、子どもを魔法使いにするという選択肢は端から存在さえしなかった。
目を白黒させて水の中にいるカルディアを見て、ノイは口を引き結ぶ。
(……また、浅はかな行動をとってしまったようだ……)
魔法使いであり、多くの著名魔法使いを輩出してきた名家、ガレネー家出身であるノイにとって「魔法道具を見たことが無い」という考えは、このカルディアの様子を見るまで思い浮かぶものではなかった。
(……弟子に魔力の撚り方を教え、魔法を編み上げさせることくらい、私にも出来ると……そう思っていた)
けれど、弟子を育てるというのは、もっとずっと難しいことだったようだ。
がっくりと項垂れそうな自分を叱咤し、ノイは用意していた手ぬぐいを手にした。
「そうだ、カルディア! ほら、こうしていれば見えないだろう?」
見られるのを恥ずかしがっていたカルディアのために、ノイは自分の目に、手ぬぐいを巻き付けた。こうしていれば、カルディアの裸体を目にすること無く、世話が出来るはずだと胸を張った――矢先。
「わっと、おっと!」
「あっ、ああっ――!」
――ビタン
ノイは顔から床に激突した。
ハンモックを吊しているロープに引っかかり、こけてしまったのだ。ハンモック自体には、多少の衝撃では揺れない魔法がかけられているため無事だが、湯船の中から、不安そうにノイを見下ろすカルディアの視線を感じる。
(くそう……格好いいお師匠様の姿を見せて、いっぱい安心してもらうつもりだったのにっ……!)
残念なことに、先ほどから上手くいっているとは言い難かった。正しく言い直せば、何一つ上手くいっていない。
「だ、大丈夫ですか……?」
「大丈夫だ……私は、凄く強い魔法使いだからな……」
実は凄く強い魔法使いでも、床に顔を打ち付けると凄く痛いのだが、カルディアが心配するためにノイは精一杯強がった。
「あの、僕、大丈夫ですから……もしよければ、その手ぬぐいを、ください」
あまつさえ、小さな弟子に気を遣わせる始末だ。
ノイが体を起こして手ぬぐいを渡すと、カルディアは自分の体にそっと巻き付けた。あまりにも完璧に、師匠のフォローをする弟子に、既に面目も何もない。
ノイは半泣きになりながら、上着を脱いだ。腰帯を外し、重ねて着ていた上衣も脱ぐと、下衣になる。エスリア王国の下衣は男女ともにワンピース型をしていて、丈は膝の下まである。
慣れた様子でハンモックに上ったノイが、カルディアの背中に入り込む。
「髪と体を洗おう。髪はひどくもつれているから、私が洗う。いいな?」
ノイが確認すると、カルディアは戸惑いながらも、こくんと一度首を縦に振った。
ぎゅっと身を縮こまらせていたカルディアだったが、ノイが優しく髪にお湯をかけていく内に、徐々にリラックスしていった。
幸いにして、大きな怪我はなかった。カルディアが激しく抵抗しなかったためだろう。カルディアの無事にも、無抵抗の子どもを痛めつけるような真似をしなかった国にも、安心した。
どのくらい王国軍がカルディアを収監していたのかはわからないが、髪の先の方は絡まり、毛玉になっていた。これでは洗うどころか、梳くことすら出来ない。
それでもなんとか髪を洗い終える頃には、両膝を抱えたカルディアは、膝小僧の上に顎を乗せ、とろんとした目をするようになってしまった。
カルディアの顎は、お湯の水面よりも下にある。溺れやしないかとひやひや見守るノイに、カルディアが小さく口を開く。
「――なんて、呼べばいいですか?」
「うん?」
「……貴方のこと」
眠いのか、カルディアはぼんやりとした口調でノイに尋ねた。呼び方を尋ねられ、ノイは手を止めた。
(……全く考えたことが無かった)
勝手に「お師匠様」だなんだのと自称してはいたが、カルディアにそう呼ばれたいという希望があったわけではない。
しかし、カルディアは知りたいのだろう。ノイの答えを。
師匠として、初めて受けた弟子からの質問だ。ノイは真剣に考えた。
しかし、真剣に考えすぎて、時間が経ちすぎてしまったらしい。
カルディアはいつの間にか、お湯の中でうつらうつらとしていた。
「こらカルディア。湯で寝てはいかんぞ。あと少し頑張るんだ」
「う、ふぁい……」
ずっと船をこぎ続けるカルディアをなんとか支えて手早く体を洗うと、彼を風呂から出す。
ぐるぐるっとタオルで大雑把に水気を拭いたノイは、カルディアに自分の服を着せる。子ども用の服など持っていないため、早々にどこかで揃える必要があった。
ふらふらとしか立てないカルディアの服を折り、よたよたと歩かせてベッドへ連れて行く。
ベッドへ連れて行くと、カルディアは良い子に横になった。
「よく頑張ったな」
そう言って、ノイは小さなおでこに一つ口づけを落とす。
きっと、魔王を宿していると知ってからずっと、気を張り続けていたのだろう。それに、今日は拘束されてこんな山奥まで連れて来られた上に、魔法使いに弟子入りまでしてしまった。小さな体に抱えきれないほど、衝撃的な事件の連続だっただろう。
ふにゃりとしていたため、すぐにでも寝落ちするかと思ったカルディアは、驚いたような目でノイを見上げていた。
「どうした?」
「……今のは、なんですか?」
「今の? おやすみのキスのことか?」
カルディアが小さな手で自分のおでこを擦る。神妙なその顔に驚いて、ノイは慌てた。
「愛しい子が眠る時、夜に攫われないようにするためのおまじないだ。お前が嫌なら、明日からはしない」
「愛しい子……」
カルディアはほやっと笑って、ベッドに腰掛けていたノイを見上げる。
「嫌じゃない……」
「なら、これからもしよう。いい子に寝なさい。きっと優しい明日が迎えに来るからな」
もう返事をすることも出来なくなったのか、カルディアはこくんと頷くと、目を閉じた。カルディアがとろとろと眠りに落ちていくのが、その寝息から伝わってくる。
「おやすみ、カルディア」
カルディアの隣にノイも潜り込む。
これまで一人で暮らしていた家で、二人の夜が始まった。